巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

日本福音同盟(JEA)のみなさまへの公開レター【ジェンダー・フェミニズム問題および聖書信仰に関して】

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主の御名を賛美いたします。私は福音派教会に通う一信仰者です。今日はみなさんに自分の心の内にあることをお分かち合いしたいと思い、ネット上ではありますが、このようにお手紙をしたためております。

 

さて、貴同盟のホームページの「女性委員会」のセクションに、世界福音同盟女性委員会出版 「性差によるのか、賜物によるのか」翻訳文と資料・考察という項があり、そこには、マリリン・B.・(リン)・スミス著 Gender Or Giftednessの日本語訳が全文掲載されています。

 

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この文書を読みますと、著者のマリリン・スミス女史が、論の骨子としているのが、主としてギルバート・ビレジィキアン(Gilbert Bilezikian)、キャサリン・クローガー(Catherine Kroeger)、レベッカ・グルースイス(Rebecca Groothuis)、スタンリー・グレンツ(Stanley Grenz)、グレッチェン・ハル(Gretchen Gaebelein Hull)、アイダ・スペンサー(Aida Spencer)といった現代を代表する福音主義フェミニスト神学者の見解であり、聖書解釈であることが分かります。

 

例えば、本書のp 34からは、ケファレー(かしら)=源("source")説が展開され、ギルバート・ビレジィキアン等の見解(here)がそこに大きく反映されています。

 

またp42からは、エペソ5:21-33の説明として、「この個所の文脈は、妻の服従と夫の支配ではなく、相互の服従です。」とまず、相互恭順(mutual submission)の教理が前面に打ち出され、その後、またビレジィキアン氏の引用が続きます。そして1テモテ2章の解説では、リチャード&キャサリン・クローガー等の「グノーシス異端説」が採用されています(p 46~)。

 

私の心を呻かせるのは、このような異種の見解がエヴァンジェリカル界に存在しているということ自体にあるのではなく、こういう神学的流れを汲んだ文書が、日本福音同盟(JEA)という、いわば日本の福音派聖書信仰を代表し、それを擁護する重要な霊的要塞の「内側に入り込んでいる」――という事実です。そして、この事実に私の心はのたうちまわるような内的苦しみを覚えています。

 

(*ただ、この文書のはしがきの所で、編集者の方々が、「本書の立場が必ずしもJEAの立場ではない」と書いていらっしゃることに深く敬意を払いつつ、謹んでその部分を引用させていただきます。以下引用文。「但し、この本の立場が必ずしも日本福音同盟女性委員会、あるいは日本福音同盟(JEA)の立場ではないことをあらかじめお断りしておきます。そもそも日本福音同盟に属する諸教派、諸教会、諸団体のそれぞれの立場を重んじる時、私たちがこのテーマに関して統一見解を出す立場にないのは当然であります。また、この本は、学びのための一資料であることも付け加えさせていただきます。」ー引用おわりー)

 

私は貴同盟の規約や目的に深い尊敬を払っています。

 

日本福音同盟規約(2012年6月6日改定)

第3条 (信仰基準)

1.聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。

 

目的と活動

1 聖書信仰を育むために

「JEAは、時代に起きる様々な問題を聖書によって検証し、聖書信仰の意味を究め、明確にしていくように努めます。それによって、構成メンバーのすべてが聖書信仰という共通の土台の上に立つことができるからです。また、聖書信仰を表明することは聖書信仰に生きることを意味しています。JEA構成メンバーは、その告白のとおりに生き、主との交わりの中で霊性を育み、みことばに従う敬虔な歩みを求め、主の大宣教命令を遂行するように努める責任があります。」

 

「JEAは、時代に起きる様々な問題を聖書によって検証し、聖書信仰の意味を究め、明確にしていくように努める。」「構成メンバーのすべてが聖書信仰という共通の土台の上に立つ。」「聖書信仰を表明することは聖書信仰に生きることを意味する。」

 

愛するJEAのみなさん、それならばどうか、本ブログの中で翻訳されている各種の検証記事ココココココココ等)を注意深くお読みになってください。

 

そうすれば、私たちが上記のような神学的流れを受容し、あるいは黙認したまま進んでいく時、近い将来、「構成メンバーのすべてが聖書信仰という共通の土台の上に」立てなくなる日が到来し、「聖書信仰を表明せず、聖書信仰に生きない」あり方が、福音主義教会の倫理的大惨事を招くということを私たちが経験するようになる、ということがお分かりいただけると思います。

 

なぜなら、ウェイン・グルーデム氏も指摘しておられるように、福音主義フェミニズムは、その本質において、キリスト教リベラリズムに至る下り坂だからです。すでに代表的な福音主義フェミニスト神学者の幾人かは、聖書の無誤性や権威を否定するに至っています。また歴史的・正統的三位一体論からも逸脱傾向にあります記事1、そしてココ

 

私は今、日本福音同盟(JEA)初代理事長の泉田昭氏の次のことばを噛みしめています。

 

「福音主義とか福音派というとき、信仰的自由主義に対しての福音主義、エキュメニカルなグループに対しての福音派という意味で使っている。つまり、聖書は誤りない神のことばであると信じ、基本的教理を保持し、伝道と教会形成に励んでいる者たちのことである。」

日本福音同盟『日本の福音派』p.49

  

その意味で、私たちが福音主義者であるということの根本的な意味は、私たち自身が、信仰的自由主義(リベラリズム)に対する妥協のないアンチテーゼであり、アンチテーゼであり続けるということではないでしょうか。そしてそれが、初代理事長のパッションではなかったのでしょうか。

 

だから尚さらのこと、聖書信仰に生きようとする私たちが、その要塞の「内側に」リベラリズムの萌芽を抱え込むことは、私たち福音主義者の存在意味そのものに対する揺さぶりであり、矛盾・妥協であり、挑戦であり、また脅威ではないかと思います。

 

長いレターになりました。ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。みなさまの上に主の豊かな祝福がありますように。イエス・キリストの尊い御名によって。アーメン。

 

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