巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「三位一体の中で、御父もまた御子に恭順(submit)しているのです。ですから、御子との関係において、御父に固有の権威があるわけではないのです」という主張はどうでしょうか。【三位一体論とフェミニズム】前篇

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以下は、ウィリアム・P・ヤング著『神の小屋』の中で、「イエス」が、三位一体の神のことを説明する場面です。

 

「イエス」が主人公のマックに言うセリフ

  これこそ、パパ(御父)およびサラユ(聖霊)と私(イエス)の関係にある美しさなんだ。

 私たち[三位一体の神]は、実にお互いに対し恭順の関係にあるのだ。これまでもずっとそうだったし、これからもそうだ。「パパ」(御父)は――私(イエス)が「パパ」に従っているのと全く同じように――私(イエス)にも恭順している

 そしてそれは「サラヤ」(聖霊)のわたしへの恭順、「パパ」の「サラヤ」への恭順においても同じなんだ。恭順というのは、権威に関することではなく、それは従順でもない。それはただ、愛と尊敬の関係なんだ。事実、わたしたち〔三位一体の神〕は、それと同じ仕方で、あなた(という人間)に恭順しているんだよ

 

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恭順というのは、権威に関することではなく、従順でもない。それは愛と尊敬の関係についてのこと――これに尽きるのだ。

ウィリアム・P・ヤング

 

 Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter10(拙訳)

 

スタンリー・グレンツのような対等主義の人々は、今日、「三位一体の神の位格間には、相互恭順の関係がある」と主張するようになっています。

 

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 キリストの模範についての議論が往々にして見落としている点は、三位一体の神の中における相互依存という――より深い原動力(dynamic)についてです。神性に関し、御父は、御子に依存しています。御子をこの世に送り出すにあたり、御父はご自身の統治――そうです、実にご自身の神性を――御子に委託されたのです(例:ルカ10:22)。

 同様に、御父としてのご自身の称号に関し、御父は御子に依存しています。2世紀にエイレナイオスが指摘したように、御子なしには御父は、御子の父ではありません。従って、御父に対する「御子の従属」は、御子に対する「御父の従属」とつり合い(バランス)が保たれなければなりません*1

 *2*3

 

後の論稿においても、グレンツはこの分析を繰り返しています。

 

オリゲネスが「御子の永遠の生成」として言及している原動力(dynamic)は、二つの方向に向かって動いています。教父アタナシオスが認識していたように、この原動力は御子を生成(generate)するだけでなく、御父をも構成(constitute)しているのです、、

 御子は、御父なしには御子ではありません。しかし、それと同様、御父も、御子なしには御父ではありません、、、私たちは「御子の従属」と、御子に対する「御父の従属」とのバランスをとらなければなりません

 要するに、「御子の永遠の生成」が何を示しているかというと、三位一体神の「第一位格」と「第二位格」は、関係性における相互依存を享受しているということです。ある意味、双方がそのアイデンティティに関し、互いに依存し合っていたのです。*4

 

ロイス・グルーエンラー(Royce Gruenler)もまた、ヨハネの福音書から同様の議論を展開し、この福音書の中に、「三位一体神のそれぞれの位格間における相互的かつ自発的な従属」のテーマが読み取れると主張しています*5そして、ヨハネ5:25-26の中で、「イエスもまた、裁きを行なうにあたり、御父と同等の権威を共有している、、、御父は自ら進んでご自身を御子に従属させた」と言っています。*6

 

回答1.

グレンツは、目下論議中のカテゴリーを混同させています。

 

今、私たちが論議している問いというのは、御父の権威に対する御子の恭順についてです。私が前回挙げたすべての聖句からは、1)御父がご計画し、先立って行ない、導き、送り出し、命じ、それに対し、2)御子が応答し、御父に従い、御父のご計画を遂行されていることが示されています。

 

グレンツ氏が、それと平行させる形で、三位一体における「相互恭順」や「御子に対する御父の従属」といったものを示したいのなら、彼は、御子が御父に命じている/御子が御父を送り出している/御子が御父の働きを指示・指揮している/御父ご自身が、「わたしは御子に従っている」と言明しているような聖句箇所を提示しなければなりません。しかしそのような箇所はどこにも見い出されません。

 

そうなると、グレンツは「御子に対する御父の従属」説をどのように展開させていったらよいのでしょうか?そうです、彼は目下議論されているテーマを変改させ、カテゴリーを混同させているのです。

 

注意してください。彼は、御子の権威に対する御父の恭順については何も言っていません。その代りに、グレンツは、「御子なしには御父は、御子の父ではありません。」と述べています。しかし、これは目下論議しているテーマへの取り組みではありません。これは言語学的なトリックであり、このようにして彼は元来のポイントAからポイントBへと巧妙に論点をシフトさせています。

 

ポイントB「はたして御子なしに、御父は御父であろうか?」(もちろん、答えは「否」ですが、これが言わんとしているのはただ、「もし神が三位一体でなければ、神は三位一体ではない。」もしくは、「もし神が〔相互に〕異なっているのなら、神は異なっている」という種のことです。)

 

しかしこの言明からは、真の神が誰であるのか、ないしは、三位一体神の位格間に『実際に』存在している関係性についてなどは、何も語られていません。そして御父が御子の権威に従っていることを示すような事――実際、そのようなことは決してないのですが――も何ら示していません。こういったグレンツの議論の仕方を、家庭生活の身近なたとえで表すと次のようになります。

 

.もし自分に妻がいなかったのなら、私は夫ではないであろう。

.従って、私には夫としてなんら特別な権威はないはずだ。そして、私の結婚においては、相互恭順があってしかるべきである。

 

もう一つ別のたとえも挙げます。

 

.もし私に子どもがいなかったのなら、私は親ではないであろう。

.従って、私には親としてなんら特別な権威はないはずだ。そして、私の子と自分自身の間には、相互恭順があってしかるべきである。

 

両ケースにおいて、二番目の文章は意味をなしていません。事実、二番目の文は、一番目の文に対し、ロジカルな関係にありません。つまり、グレンツは最初の文で、「関係性が存在するには、二者が必要である」という当たり前の事実をただ単に証明しているにすぎないのです。

 

しかし、その文自体は、当該の関係性の性質について何も言っていません。そして、二者間のあらゆる関係に「相互恭順」がなければならないということは勿論、言えないことです。グレンツは以上のように論点をすり替え、カテゴリーを混同させています。

 

次に続きます。

 

 

*1:Grenz, Women in the Church, 153-54.

*2:筆者注:対等主義によるこの新奇な三位一体論の詳細については、以下の論稿を参照のこと。Ware, "Tampering with the Trinity," 233-53. また、三位一体の神の中における相互恭順論("mutual submission")については、ギルバート・ビレジキアン氏もこれを是認しており、その言明は次の論稿の中に見いだされます。Bilezikian, "Hermeneutical Bungee-Jumping" (1997), 57-68.

*3:訳者注:一応、参考までに追記しておきますと、ミラード・J・エリクソン氏は、上の両サイドとも違う第三番目の論を展開しており、その詳細は、次の著書に記されています。Millard Erickson, Who's Tampering with the Trinity?: An Assessment of the Subordination Debate, 2009.

*4:Grenz, "Theological Foundations" (1998), 618.

*5:Royce Gruenler, The Trinity in the Gospel of John (1986), xvi.

*6:同著, p38