巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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エペソ5:23「夫は妻のかしらである」という箇所の「かしら」という語は、「源 "source"」という意味だと聞きましたが、それは本当ですか?

John Piper and Wayne Grudem, 50 Crucial Questions About Manhood and Womanhood | Desiring God, 2016

 

Q. エペソ5:23「夫は妻のかしらである」という箇所の「かしら」という語は、「源(“source”)」という意味だと言っている学者たちがいます。もしそれが本当なら、この聖句のこれまでの捉え方自体に全く変更が加えられる必要があると思いますし、「家庭における夫のリーダーシップ」という考え方も破棄されなければならないと考えますが、どうでしょうか。

 

回答:

いいえ、それは違います。しかしこの仮説を検討する前に、まず申し上げておきたいことは、エペソ5:23での「かしら」の意味が実際には「源 “source”」であるという可能性は非常に低いということです。この語についての詳細研究の諸論文をお読みになりたい方は、Recovering Biblical Manhood and Womanhood付録1、および、Evangelical Feminism and Biblical Truthの付録3、付録4をご参照ください。5

 

しかし現実的に言っても、私たち信徒は皆、エペソ5章23節は、前の22節の根拠となっている事実を基に結論を出すことができます。22節には次のように書いてあります。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」

 

夫のheadship(=かしらであること)が、妻の恭順の根拠として挙げられていることから導き出される最も自然な理解は何かといいますと、「ここでいうheadshipとは、ある種のリーダーシップを指し示している」ということです。

さらに、「夫が妻のかしらである」と書いたパウロの脳裏には、ある表象があったのです。そうです、ここで使われている「かしら」という語は―あてがわれるどんな意味でも受け入れるような―そういう語ではなかったのです。現に、23節でパウロはこう言っています。「なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。」

 

ここでパウロの脳裏にあったのは、頭のついた体でした。そしてこの表象は非常に重要です。なぜなら、これは次に続く聖句の中で取り扱われている、「一心同体 “one flesh”」としての夫と妻の一致に結びついていくものだからです。そうです、頭とその体は、「一心同体(“one flesh”)」なのです。

 

ゆえに次につづく28-30節でパウロは次のように言っています。「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。私たちはキリストのからだの部分だからです。」

 

そしてパウロはそこから持続して、キリストのイメージを「かしら」、そして教会をその「体」に譬えています。キリストは教会を養い慈しみます。なぜなら私たちは、キリストの体の肢体だからです。ですから、夫というのは妻にとっては頭のようであり、夫が妻を養い慈しむ時、彼は実際、自分自身を養い慈しんでいることになるのです。なぜなら、頭は、体と「一心同体(“one flesh”)」だからです。

 

また重要なのは、古典ギリシャ文学全作品中、ある人が、他の誰か、もしくはある集団にとっての「かしら」(gr: kephalē)と呼ばれている事例は、40例以上あります。そして各事例において実に一つとして例外なく、「かしら」と呼ばれている人物は、相手側の人もしくはその集団に対し、権威を持つ立場にあるという事実が突き止められたのです。6

 

その一方、「かしら」と呼ばれる人が、相手側の人もしくはその集団に対する「源 “source”」であったという事例は、一例たりとも見つけ出されませんでした。つまり、この仮説を裏付ける明瞭な事例は何もないのです。それゆえ、「源 “source”」説は、かなり信ぴょう性が薄いと言わざるを得ません。

 

しかし、たといエペソ5:23の「かしら(“head”)」が、「源(“source”)」という意味であったとしたところで、それなら、夫というのは、そもそも何の「源」なのでしょう。体は頭からいったい何を得ているのでしょう。そうです、まず体はかしらによって「養い育て」(29節)られています。これは、口という器官が頭部に付いており、栄養が口からの(摂食を通して)体にいくことからも理解できます。

 

しかし体が頭から得ているのはそれだけではありません。眼球も頭部に位置していますので、体は頭からガイダンスも受けます。また耳も頭部に付いていますから、体は頭部から「注意警報」や守りをも受けています。また脳も頭部にありますから、体は頭から指示そして統治も受けています。

 

換言しますと、もし頭(かしら)としての夫が、彼の体(からだ)である妻と一体(one flesh)なら、そして、もしそれ故に夫が、ガイダンス、養い、警報、守りの源であるなら、「かしら(夫)には、リーダーシップ、備え、そして守りに関する主要な責任が課されている」というのが自然な結論ということになります。

 

ですから、もしもあなたがここでいう「かしら」を「源」という意味に捉えたとしても、この聖句のもっとも自然な解釈としては、

1)夫は、家庭において、キリストに倣った「僕(しもべ)としてのリーダーシップ」、守り、そして備えをするという主要な責任を負うよう、神によって召されている。

2)妻は、夫のリーダーシップを敬い肯定し、自らの賜物に従って夫がその役目を果たすことができるよう助け励ましていくよう、神によって召されている、ということになるでしょう。7

 

註:

5. Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, 544–99.

6. See the research cited in the previous note.

7. One of the most pertinent Greek witnesses for the meaning “head” in Paul’s time comes from Philo of Alexandria, who describes an image of the head on the body as having a role of leadership: “Just as nature conferred the sovereignty [hegemonian] of the body on the head when she granted it also possession of the citadel as the most suitable for its kingly rank, conducted it thitherto take command and establish it on high with the whole framework from neck to foot set below it, like the pedestal under the statue, so too she has given the lordship [to kratos] of the senses to the eyes.” Special Laws 3.184.