巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

女性らしさとベール――女性の被り物の重要性について

出典

The Feminine and the Veil. Significance of headcovering for women, April, 2022.(拙訳)

 

 

なぜ女性は頭を覆わなければならないのでしょうか?理由はたくさんありますが、最も明白なのは、神がご自分の子供たちに自発的な服従と従順を求めておられるからです。暴君だからではなく、神が愛に満ちた父だからです。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように」(マタイ26:39b)というのが救いにいたる上での唯一の道なのです。


-聖パウロにとって、女性のベールというのは、神の秩序および創造における神の御目的を受け入れることの外的しるしです。ベールは女性の、神に対する 「はい。」であり、物理的・可視的な「アーメン 」なのです。神へのこの従順は、彼女の男性(つまり夫)への従順を通して最も明確に示されます。

-パウロが「女のかしらは男である」と言ったのは、彼がいわゆる「典型的 中近東人」だからではなく、女が教会の型(type)であり、男がキリストの型であるからです。男女は永遠なる多様性を表象しており、そのために両性は道筋及び服従にかんする特質を示さなければならないのです。

-そして、教会がキリスト以外の頭(かしら)を持ってはならないように、女性も夫以外の頭を持ってはなりません。この 「従属(subordination)」は、決して女性が男性より劣っているとか、神との関係において何らかの制限があるということを意味するものではありません。「キリスト・イエスにあって、男子も女子もない 」のです。


-さらにアウグスティヌスは、「ある人が主張するように、人類の一部だけその創造者である神に属し、その他の部分は闇に属している、というようなことはない。むしろ、支配する力を持つ部分と支配される部分が共々、神から出たものである」と述べています。

-キリスト者にとって、家族という単位は規範であり、父親は家族の頭(かしら)です。この点で、彼は共同体の「父」である司祭を映し出し、さらに両者は「天におられる私たちの父」である神を映し出しています。

-一家の父親は、家族に対して霊的な責任を負っており、主の教えに従う形で、こう言うことができるでしょう。「私を愛するなら、私の言う事に従いなさい」と。もちろん、かくいう父親自身もキリストへの恭順の義務を負っていることは言うまでもありません。

-彼は 「神的権利」により家庭を治めます。もし彼が自らの私的な規則によって支配するならばその人は暴君になります。もし本当に一家の長がキリストに倣い行動するのであれば、女性は彼に恭順することに関しほとんど問題を覚えないはずです。従順は祝福となるのです。

-この恭順のヒエラルキー(階層)は、神から、御使いの様々な位階を経て、私たちに至るまで続いています。そして、天界の階層は、秩序ある創造における霊的リアリティーであり、混乱なき安定したパターンなのです。恭順というのは天使の領域における特徴です。

-それゆえ女性がベールを被るべきもう一つの理由がここに見えてきます。教会は、女性が頭を覆うかどうかが御使いにとって重要であると教え、聖パウロが「それゆえ、女性は御使いたちのために頭に権威のしるしを被るべき」(参1コリ11:10)と述べたことに倣っています。

-しかしながらなぜ「御使いたちのために」なのでしょう。――それは、頭を覆うものを取り除くことで、女性は自分のうちよりこの力を取り除いてしまうからです。彼女は創造のヒエラルキーから、また天使と人間の諸地位から自らを取り除きます。恭順なくば、そこには混沌と無秩序が生じてしまいます。

-聖ヨハネス・クリュソストムス(聖金口イオアン)は『Ⅰコリント人への手紙』の講解説教の中で、男女の服装の違い――、特に女性のベールーーがいかに「人類の間における秩序に対し効果的に働くか」を語っています。聖ヨハネスは、ベールを脱ぐことはけっして「些細な誤り(no small error)」の類ではなく、「...それは不服従である」と説いています。それは 「すべてのものを乱し、神の賜物をあざむき、与えられた名誉を地に落とす行為である。...なぜなら、女性にとって自分の地位を守ることは最大の名誉だから」です。

-聖ヨハネスはこの状況を、行政官がその職を表象するシンボルを持たずに王に接見することにたとえ、女性が教会で頭を覆うことは、彼女の職のシンボルをきちんと携え、神に近づくことであるとしています。秩序は保たれなければなりません。

-ベールは、まことの神の女性の不変的象徴であり、生き方であり、信仰の証です。それは人の前だけでなく御使いの前における神の救いの証でもあります。御使いは私たちの行いを見ており、私たちが従うとき喜びます。

 

出典


-エバは不従順を選ぶことによって、人間の堕落に寄与しました。しかし、主の母であり、――主の御体である教会の――母であるマリアは、神の意志に従うことによって、私たちの救いを可能にせしめたのです。すべての女性はテオトコスの像(image)であり、テオトコスの栄光に与ることを選ぶことができます。

-もし「ケルビムよりも尊く、セラフィムよりも比類なき栄光」と称えられているマリアが、イコンの中で常に頭を覆っている姿で描かれているのだとしたら、その他の女性たちには一体どんな言い訳ができるというのでしょうか。

-さて、すべての魂は、少なくとも潜在的には、キリストの花嫁であり、これは男性にも女性にも言えることです。が、両者の間に存在する関係においては、この潜在性を最も明確に証言するのは女性の方なのです。そのため、花嫁のごとく、彼女はベールを被らなければなりません。

 

出典


-美は神秘的な性質を持っています。なぜなら、それ自体が聖母(生神女マリア)に最も明確に見られる超本質的な性質の映し出すものであり、最終的にその起源は神にあるからです。しかし、美は適切にベールに包まれています。なぜならその本質は大切に秘められているからです。

そして、私たちは女性のかたちの中にその姿をおぼろげに映し出しているに過ぎません。それゆえ女性のベールは男性によって無理やり押しつけられたものではなく、母親、娘、そしてキリストの花嫁としての女性本来の輝きを映し出しているものなのです。

-被り物をかぶる理由を述べるにあたり、まず正教会におけるベール/幕の意味を理解する必要があります。最も明白な意味は「分離」です。神と人間を隔てる裂け目――、これ以上の深淵は考えられません。

-旧約時代、大祭司だけが、聖なるものと外界とを遮断する幕/ヴェールを越えて通ることができました。しかるに受肉において、キリストはそのギャップを埋め、聖体を通し聖域の神秘に参与する方法を私たちに与えてくださったのです。幕は開かれましたが、未だ残っています。正教会の聖堂に行けばわかりますが、どこもイコノスタシスを置いています。

 

出典


-覆うもの(ベール)がないと 神秘を低次元なものと取り違えてしまう恐れがあるからです。聖パウロが女性たちに命じているベールもそれと同じ意味を持っています。 なぜなら、前述しましたように、それぞれの女性はテオトコス(聖母マリア)の像であり得るからです。

-聖所も女性も、私たちに生命をもたらす場所です。ある程度において、女性は夫にとってその「聖なる場所」になる可能性を持っています。そしてそれは大切に守られなければなりません。それは神秘の外にいる見物人たちの目から隠されているのです。

-家の例で考えてみましょう。壁=ベールです。あなたは玄関先で多くの人を迎え客間にも何人かを迎えるでしょう。ですが寝室はあなたと妻だけのものです。ベールを取り払うと反転が起こり、親密な生活が外部にむき出しになります。混乱が生じます。

-結論として、女性は頭を覆うことによって、「時代遅れな中近東の伝統」を守っているのではなく、あくまで神の秩序に自発的に参与し、神に「はい」と言い、物理的・可視的「アーメン」を唱えているのです。彼女の恭順により御使いたちも喜んでいます。

 

ー終わりー