巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

フェミニズムのキリスト論(by ペリー・ロビンソン師)

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出典

 

目次

 

 

Perry Robinson, The Christology of Feminism, Energetic Procession, 2008 (拙訳)

 

はじめに

 

聖ウラジーミル出版社から最近発刊された書籍『Thinking Through Faith』についての言及コメントをこの前読みました。

 

本書はさまざまな正教学者たちによる論文集ですが、その中で物議を醸し出しているのが、女性叙階に関するヴァレリー・カラスによる論考です。私は女性叙階賛成者の立場にも著者の立場にもそれなりに詳しく、また今のところ、この論考に対する適切な分析および応答記事はまだ出ていないようですので、自分自身、この問題に取り組むことにいたしました。

 

ディアコネス(deaconesses)と女性助祭(female deacons)

 

本題に入る前に、いくつか整理しておきたいことがあります。現在、女性叙階の真剣な推進者のほとんどが、少なくとも典礼資料からは女性が聖職に就いていたという重要な証拠はないと認めています。カラス自身も、昨年の神学雑誌に掲載された論文の中で、そのように述べています。

 

そのため現在の議論は、1970年代にエピスコパリアン(米国聖公会信者)が女性助祭を導入し、後にその延長線上で女性司祭職を導入したことに倣っています*1。こういった議論では、ディアコネス(deaconesses)と女性助祭(female deacons)という用語の使用について、常に用語上の混乱と疑問が生じています。

 

このニつは概念的には必ずしも同一ではなく、また後者が存在したかどうかについては歴史的にも議論の余地があります。ディアコネスの証拠はたくさんありますし、新約聖書自体にも十分な証拠があります。私は教会にディアコネスがいることに何の抵抗もありません。教会法上、ディアコネスには明確な諸要件および諸任務があり、それゆえそれは女性の助祭に相当するものではありませんでした。私の読みでは、これはドイツのカトリック神学者ゲルハルト・ミュラーの著書『Priesthood and Diaconate』で適切に扱われています。

 

「機能(function)」や「能力」に訴える議論

 

次に、カラスはこう問いかけています。

 

「がんの治療を受けることや、肉体労働を避けるために機械を使うことには神学的な反対をしない人たちが、なぜ男性による女性の支配に関してはそれを ”神の聖定”と考えるのでしょうか。」 (p.143)

 

ここでの議論は次のようなものだと思われます。女性も男性も、○や△といった能力に関しては、女性であっても男性であっても変わらない。したがって、その能力に関し両者は同一である。もし、そのような能力に関して両者の間に違いがないのであれば、司祭としての諸能力に関しても違いはない。 したがって、女性は司祭になることが許されるべきです。女性叙階に反対する人たちが一貫しているならば、彼らは女性医師に反対するだろうが、そうはしていない。よって彼らは遂行的矛盾に陥っていると。

 

言葉を発したり、パンを切ったりする能力が司祭職を特徴づけるものであるという前提がまず問題だと私は思います。多くの理由により、司祭職の本質は、機能によって定義されるものではないように思われます。

 

第一に、キリストは機能によって定義されるものではないからです。カルケドン公会議によるキリスト論は、言うまでもなく機能的ではありません

 

第二に、もし祭司職が機能的に定義されていたら、年齢という他の方法で司祭職へのアクセスを制限することは正当化されないでしょう。 16歳の神父様を想像できますか。なぜ10歳ではいけないのでしょうか。年齢差別は性差別よりも罪が軽いのでしょうか。例えば、16歳の医師を訪ねることに人々が躊躇するのはなぜでしょうか。これまでにもそのような年齢の医師はいましたし、仮にいなかったとしても、現代医学の神童がいてはいけないという理由はないと思います。もっと直接的に言えば、カラスは男性も女性も同じように司祭になる可能性があると仮定していますが、この点が問題ではないでしょうか。つまり、彼女の疑問は循環論法的なのです。

 

かしら性(headship)

 

キリストは女性ではありません。カラスやその他の女性叙階支持者たちは、キリストが女性ではなかった理由や、キリストが女性であっても別におかしくはないという理由を説明するのに苦労しているのではないでしょうか。

 

「女のかしらは男、男のかしらはキリスト、キリストのかしらは神である」(1コリ11:3)と考えているかの恐ろしき聖パウロの教えを信奉している私は、この質問にどう答えるか分かっています。

 

そしてもちろん、キリストのかしらが御父であることは何の問題もありません。なぜなら、御子が御父に永遠に服従することは、両者の間に従属(subordination)や不平等があることを意味しないからです。御父が御子の源であることは、御子がヘテロウーシアないしはホモイウーシアであることを意味しません。

 

同様に、女性のかしらが男性であるということは、女性が男性よりも劣った本質を持っていることを含意しているわけではありません。厳密に言えば、恭順していることは従属していることと同じではありません。父は子よりもとこしえに偉大ですが、子よりもとこしえに優越しているわけではありません。恭順(subjection)は「支配」ではありません。

 

「ジェンダー」と「性別」

 

もうひとつ整理しておきたいのは、「ジェンダー」という語についてです。ジェンダーとは、大雑把に言えば、以下に挙げるように性別とは異なるものとされています。ジェンダーとは、心理的に自分をそうだと思っているものです。それは "耳の間" にあるものです。一方、性とは、生物学的に自分が何者であるかを示すもので、"足の間" にあるものです。上記の議論は、セクシュアリティーや人間本性が機能の面から定義されるべきであることを前提としており、それはちなみに中絶の正当化を裏付けるものでもあります。

 

なぜカラスが、現代人類学を正教神学の基準として想定し、それを取り入れる権利があると考えているのかは言及されていません。言うまでもなく、私はこのような人間セクシュアリティと人間性の理解の仕方を拒否します。

 

この方法では、セクシュアリティは主にそして最も重要な点として、身体の非目的論的使用として仮定されています。そして、それは非目的論的であるため、どのような使用もその他の使用と同様に正当なものとなります。これは、「自分は自分の体ではないので、体をどう使おうと別に構わない」というグノーシス主義的な信念を裏付けるものです。

 

それゆえにグノーシス主義者たちは女性叙階を支持してきたのです。より正確に言えば、彼らは、誰がどのような役割を果たすのかをくじ引きで決め、子供にも指導的役割を与えることを好んだのです。というのも、もしあなたが性別を基準に差別しないのだったら、なぜ年齢で差別する必要があろう。さあ、カラスが議論していることをさらに押し進め、いっそのことすべての人に司祭職を開放してはどうだろう――。

 

こうして性をペルソナから切り離すことで、結果的に(性的)罪が正当化され、人間本性が神的ロゴスや目的(telos)に反して個人的に使用されることになるのかその理由がお分かりいただけると思います。

 

異性愛は、様々なジェンダー諸指向の一つに過ぎないのではなく、また、事例的心理学的な証拠に反し、人は「指向」を持って生まれてくるわけでもありません。(この人たちはフロイトを読んだことがないのだろうか)。

 

話を戻しますと、司祭職を男性に限るという伝統的立場は、「ジェンダーで定義された」役割ではなく、性別に基づいています。あなたがどんな心理的機能障害に悩まされていようと、あなたはあなたの性別です。キリストは "ジェンダー "をご自分の身に負われたのではありません。

 

「なぜセオトコス(聖母マリア)は男性ではあり得なかったのか」

 

それゆえカラスは次に挙げるように、時代錯誤的かつ誤ったことを言っているのです。

 

「このようにジェンダーで定義されたものとして、賜物、機能、役割を強調することは、――セオトコス(Theotokos)という――一人の女性の機能や行動をすべての女性に当てはめて考えるときに、特に問題となります。セオトコス(聖母マリア)が12使徒の一人ではなかったからといって、女性が使徒になれないということではありません。実際、使徒パウロはローマ16:7でユニアを使徒として位置づけています......」。(p.150).

 

「セオトコスは唯一無二の存在であり、救いの経綸における彼女の役割は過去も現在も唯一無二のものです。すべての女性を同じカテゴリーに括ること、つまり、すべての女性がクリスチャン女性として、聖母マリアと同じように行動し奉仕しなければならないと前提することは、――キリストや特定の男性聖人に相対させる形でキリスト教男性には決して行われないことですが――、諸活動や賜物が多様な女性たちを列聖してきた教会の伝統を無視することであり、セオトコスを物をみなすと同時に、他のすべての女性を非人格化することに他なりません。」(p.151)

 

”使徒” ユニアについては、最近のTouchstoneの記事を参照していただきたいと思います。*2。さて残りの部分については、まず読者の方々にご自身の経験に照らして考えていただきたいと思います。私はこれまで多くの教会を訪問してきました。そのうちのいくつかの教会(コプト教会、ロシア教会、一部のギリシャ教会)は男女別席です。男性たちが片方に立ち、女性がもう片方側に立ちます。90年代初頭にコプト教皇シェヌーダがコプト教区を聖別するのを見たとき、まさしくそうでした。(この経験がない方は残念ですね。)

 

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コプト教会(出典*3

 

さて、ここには何かがあります。それは男女の違いを強調するもので、見れば「わかる」ものです。女性が適切な「被り物」を身につけていれば、なおさらです。これは、「男女平等」を叫ぶ人たちには理解できないことです。

 

伝統的な立場は、セオトコスと女性に関し、男性とキリストに関してと同様、還元主義的な方法で動いているわけではありません。セオトコスを女性の模範とすることは、女性を物とみなすことにはなりません。それどころか、カラスがやっている仕方でセオトコスを女性の模範として限定することは、セオトコスを女性から切り離すことになります。それは、神を宿す者(God bearer)であることが女性であることと偶発的にしか関係していないことを暗示しており、それゆえ何かが間違っているように思われます。

 

それゆえ「なぜキリストは女性ではあり得なかったのか」という反論が今度は、「なぜセオトコスは男性ではあり得なかったのか」という形で出てくるのです。結局のところ、性別が偶発的なものであるならば、なぜセオトコスは男であってはいけないのでしょうか。役割が完全に個人的なものであり、自然的なものではないとしたら、なぜいけないのでしょうか。ここにおいて再び、物事をただひたすら用途や機能の観点から捉えるやり方がぶり返すことになります。(読者の方はかの唯名論を記憶されたし。)

 

さらに、伝統的な立場は女性を非人格化するものではありません。なぜならそれは、どれほど女性たちががマリア的性質を顕しているかに還元されるものではないからです。女性聖人たちの活動の多様性は、マリア的性質の明確なる個的体現がただ一つの活動に還元されることを示唆していません。自分はキリストに従うべきと言う時、それは、キリストが地上で行った固有の行為だけを、キリストが行ったやり方で行なうことを意味してはいないのと同様です。

 

司祭職の男性限定性を「受肉」に基づいて取り扱うことはできない?!

 

さてこれまでのことは、まだ序の口に過ぎません。伝統的な議論を正面から攻撃しつつ、カラスはこう書いています。

 

「さらに重要なことに、正教の受肉的救済論を鑑みると、キリストの男性性の重要性に基づいた神学的議論は、女性に関する正教救済論にとって悲惨な結果をもたらすということです。 結局のところ、神学者聖グレゴリーが述べたように、「(身に)負われていないものは癒されない」(キリストが私たちの堕落した死すべき人間の性質を回復するためにそれを身に負われたことを指している)のであれば、――つまり、もしキリストの男性性がかくまで女性の人間性から彼を区別し、女性が彼のイコンになることができないのであれば――、女性の人間性は一体どのようにして救われるのでしょう。」(pp.155-156)

 

現在、カラスが展開している議論は、「司祭職の男性限定性を受肉に基づいてモデル化することはできない」というものです。なぜなら、キリストが男性でしかない以上、女性は人間ではないということになるからです。この議論には混乱があり、幾多の間違いがあると思います。

 

まず、この議論の意味するところを考えてみてください。それは、女性がまずもって司祭になれるというだけでなく、キリストが受肉においてすべての被造物を贖ったのだから、誰であっても何であっても司祭になれるということです。これは、一部の気の狂ったフランシスコ会士たちにとっては受容可能な結論かもしれませんが、分別ある人々にとっては明白なる帰謬法(reductio)です。さらに、この結論は、キリストが両性具有であったか、あるいはキリストが男性性をご自身に位格的に(enhypostatically)結合させていなかったことを示唆しています。*4

 

つまり、セクシュアライズ化されたネストリウス主義になってしまうのです。まさに21世紀にふさわしい、‟アイデンティティ・ヘテロドクシー” です。キリストは性によって分裂しています。男性のキリストがいて、神的/総称的な人間としてのキリストがいるのですが、前者は後者にとって偶発的な重要性と関係性があるだけです。そして、この ‟性差なき総称的人間性を構成するものが一体何ぞや” という問いに関し、女性叙階支持派からの説明は今もってなされないままになっています。

 

それどころか、キリストが昇天の際に身体の一部を落とされなかったことを考えると、キリストは今もって男性であり、実際、好むと好まざるとにかかわらず、主は永遠の男性(everlasting man)なのです(エペソ1:3、10)。モルモン教の教祖ジョセフ・スミス氏の不朽なる ‟名言” に、「それが気に入らないのなら、とにかくそれを我慢するしかないのだ」というのがあります。

 

キリストの男性性は永遠であり、且つ、それはご自身に位格的に結合されているゆえ、女性の完全な人間性を肯定するためには、衝撃的な神学的道を肯定するしかないように思われます。そう、私たちは、創世記に書かれているように、女は男の中にその源を持っている、あるいは恐るべきかの聖パウロが言うように、女のかしらは男である、ということを忠実に受け入れる必要があるということです。

 

キリストは、両性に共通なもの、そして一方の性に固有のものを身に負われました。つまりそれは、キリストが両性具有であることを否定しつつ、且つ、キリストが人間本性をご自身の神的ペルソナに取り込んだことで女性もまた贖われる――ということを肯定しているのです。そしてこのことは、女性が自分の性に適した方法でキリストを「表象(image)」できることを意味しますが、司祭職に関してはそうではありません。司祭職は、キリストの神的ペルソナに関するものであり、その中に主はご自身の性別を取り込まれたのです。*5

 

論より証拠――伝統の意義――

 

経験的なレベルで言えば、私の知る限り、正教会で女性叙階を提唱する人たちのほとんどは、実際にナマの経験をしたことがありません。彼らは、自分たちのセオリーが実行に移された場合、それが具体的にどのように機能するのか、理論的にも実際的にもどのような諸結果をもたらすのかを確かめるべく、女性叙階が実施されているコミュニオンに一度たりとも身を置いたことがないのです。

 

ルーテル派、長老派、聖公会では実例がごまんとあります。私は米国聖公会でこの問題に直面しましたが、それは神学的にも精神的にも惨事でした。ひとたび彼らが伝統の壁や指標を壊すのに成功するや、神学が ‟誰でも入場自由” の ‟何でもあり” 状態になります。

 

 

ローマ・カトリック分離派(非公認)団体ARCW ‟叙階式”にてダンスする‟女性司祭たち”

 

 

そして挙句の果てには、かつての伝統が排斥・禁止されるようになり、進化がヘテロドクシーを通り越してクワッカドクシー(いんちき教)の域まで進んでいくようになるのです。が、正教会内で女性叙階を推進している人たちはこういった諸教会にいたことがありません。女性叙階に踏み切った諸教会はいずれも現在、消滅の道に向かい下降斜面を滑り続けています。論より証拠です。*6

 

伝統に関して言えば、私は「立証責任は革新者にのみある」との聖公会神学者フェリックス・チロットの説を支持します。そのため、教会は挑戦を受けても、自分のやり方を明確に主張する必要はありません。それが伝統の意義の一つです。伝統の宗教は、次のような意味での理性の宗教ではありません。つまり、教会の教義は三段論法の産物ではなく、存在作用素の性質熟考の結果でもなく、S5におけるモダリティの性質をどのように清算するかの熟考結果でもないということです。

 

伝統は理性を治める主人であり、その逆ではありません。キリスト教はその意味では理性の宗教ではありません。したがって、伝統的な立場に明確な論拠がないことは問題ではありません。その必要はないのです。私たちがいつも「そのように」してきたのであれば、それで十分なのです。

 

それが不服ですか。それなら、女性を叙階しているキリスト教諸団体はすでにたくさんありますので、推進派の皆さんはそういった諸教会に自由に参加することができます。私は、女性叙階支持者の方々が実際にそのような団体に行って、1年ほどその中で過ごすことを強くお勧めします。でもまあ、彼らがそうするとは思えませんが。。

 

ー終わりー

 

*1:訳注:

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*2:訳注:

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*3:訳注:私の通っているギリシア正教会では向かって右側に男性信者たちが座り、左側に女性信者たちが座っています。

*4:訳注:

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*5:訳注:「なぜ女性の叙階は不可能なのでしょうか。・・司祭が祭壇で、「これはわたしのからだです(This is my body)」と言う時、実際のところ、その言明はチャック神父やボブ神父によってなされているのではなく、それはキリストのペルソナにおいて(=in Persona Christi)なされているのです。つまり彼はキリストのペルソナの中にあります。

 ですから、ここで言明される「わたしの・・」という言葉は、(「わたしの本」「わたしの机」などといった)所有を意味する一般的文法用法ではなく、それがミサの中でサクラメント的に用いられる時、まさにイエス・キリストなのです。そしてからだは以下に挙げる二つの型の内、どちらかの様相で来ます。1)男性の型、もしくは、2)女性の型、そのいずれかです。それゆえ、実体変化というこの偉大なる神秘を執り行う司祭は、男性でなければならないのです。

 それでは仮にその司祭が女性ならどういうことになるのでしょうか。みなさん、思い出してください。キリストは花婿であり、教会は花嫁です。それは婚姻の関係であり、小羊の婚宴です。ですから、典礼の中で、花嫁は花婿と結ばれます。しかるに、ここで司祭が女性であった場合、彼女が「これはわたしのからだです」と言い――女性のからだでもって、それを女性形の教会に捧げる時、そこで生じているのは、秘跡的レズビアン主義(sacramental lesbianism)です。ですから、司祭は男性でなければならないのです。」(引用元).

*6:訳注:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com