『トロイアの木馬の行進』、ジョヴァンニ・ドメニコ・ティエポロ画(出典)
目次
Trojan horse: Women deacons is how the Anglican communion got to women priests, 2018(抄訳)
「アングリカン女性助祭」の登場
20世紀に入り、〔女性洗礼志願者のバプテスマ付き添い人として機能を果たしていた初代教会期deaconessesとは異なる種類の〕新しい種類の女性助祭ーーアングリカン女性助祭ーーが舞台に登場してきました。
これは「トロイの木馬」でした。やがてこのトロイの木馬は、聖公会叙階秩序を破壊していくようになり、その結果、英国内だけでなく、全世界のアングリカン・コミュニオンにおいて英国国教会は年毎に荒らされていくようになりました。
英国及びスコットランドにおける「トロイの木馬」
アングリカン女性司祭制導入により、「聖公会コミュニオンがやがてローマ・カトリック教会と再統合するかもしれない」という多くのカトリックならびに聖公会信者たちの希望が粉砕されました。
またこの決定により、当時スコットランド聖公会司祭を務めていた私の夫を含めた多くの聖公会信者たちが、「自分たちの教会は本当にキリストの真の分枝なのだろうか?」と疑い始めました。
女性司祭(そして不可避的に、女性「主教」)の導入は、「女性助祭」の導入に続きました。
「『女性助祭』導入というあの最初の第一歩が、後に来る一連の重大な諸結果のはじまりだった」と夫のマークは回想しています。
夫は、1990年代の半ば、伝統主義聖公会グループForward in Faith Sctoland秘書官を務め、ロンドンで開かれた国際会合にも参加していました。その当時、「カトリック的志向」の聖公会信者にとっての主たる懸念は、「女性がpresbyterateに許可され始めた今、自分たちはどうすればよいのだろう?」というものでした。女性たちによって執行された秘跡は無効であると彼らは論じました。こうして聖公会の「秘跡に関する統合性」は消滅していきました。
「真の問いは、『女性が司祭になってもよいのか?』ではなかった」と夫は私に言います。「そうではなく、『そもそも女性が司祭になるということが可能なのか否か?』ーーこれこそが真に問われるべき問いだった。なぜなら、仮に女性が司祭になることが不可能であり、にも拘らず、私たちがとにもかくにも女性たちを叙階しようとしているのなら、司祭に保持されている秘跡は今後、彼女たちによって、効力なく無効的に執行されるようになるからだ」と。
「女性助祭」が導入される以前ーースコットランドでは1985年、英国では1987年ーー、「女性助祭」を推奨する人々のほとんどは「この動きは、女性司祭制を作り出すための試みではありませんよ」と聖公会信者に言い聞かせていました。ーーこれはあくまでも個別の事項であり、教会内で女性がいかに特定のミニストリーを行使するかに関するものです、と。
しかしながらいざ女性たちが聖公会助祭となるや、女性叙階を推進する人々は「自然の流れで」今度は、叙階の次なる段階ーーpresbyterate(司祭)ーーに前進することを望むようになりました。
「全ては、『女性が聖職者職に就くことができるか否か』にかかっている、ということを、聖公会内の女性助祭賛成派、反対派双方が認識していました。そして多くのカトリック教徒にとり、現在、論争になっている〔カトリック教会内における〕女性助祭の是非をめぐる問題が、過去のアングリカン事例に比例していることはきわめて明らかです。」
1994年、英国およびスコットランド聖公会において、女性が初めて司祭に叙階されました。その結果、教会に内的分裂が生じました。多くのアングロ・カトリック陣営の人々と同様、夫マークも、男性であれ女性であれ、女性叙階を支持するアングリカン聖職者の聖職執行を回避するよう努めました。また聖公会内の伝統派の人々は、女性を叙階していない主教たちによってのみ主教監督を受けるよう努めていました。
「この選択はスコットランドではすでに非常に難しいものでしたが、当時、英国においてはある状況下にあっては未だ保証されていました。」
「そして次なるステップが女性主教でした」とマークは言います。この災難に面し、マークのグループは「脱出プラン」の苦渋案を模索し始めました。選択肢①独立したアングリカン管区を作る。(後に管区ごと、ローマと再統合する可能性あり。)、選択肢②小さな諸グループや個々人の単位で、直接、ローマに改宗する。
こうして夫自身の脱出劇は、2008年になされ、彼はローマ・カトリック信者になりました。
ー終わりー
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