巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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急進的フェミニズムと神なき「ジェンダー・パラダイム」の根源――アビゲイル・ファヴェール教授へのインタビュー

 

Radical feminism and the roots of the godless “gender paradigm”, The Catholic World Report, 2022.(私訳)

 

アビゲイル・ファヴェール教授の新著『ジェンダーの創世記: A Christian Theory』(イグナチオ出版、2022年)は、ジェンダー・イデオロギーおよびジェンダー・パラダイムの分析と批評を取り扱った本です。

 

トランスジェンダー運動のフェミニズム的ルーツ、「性」と「ジェンダー」の違い、創世記の重要性、トランスジェンダーに対するカトリック的対応のあり方などについて、ファヴェール教授はインタビューに応じてくださいました。

 

CWR:『ジェンダーの創世記』の序章には、あなたが原理主義プロテスタンティズムから福音主義フェミニズムに至る道のりの一端が描かれていますね。後者は「教会史の還元的で分裂した理解」および「つまみ食いを特徴とする素朴なフェミニズム」につながっているように思われます。20代当時のご自身を振り返ってみた時、ある種の原理主義[=原理主義プロテスタンティズム]を別の種類の原理主義[=福音主義フェミニズム]と交換した、というようなところがあったと思いますか。

 

アビゲイル・ファヴェール教授:ええ、その通りだと思いますが、ちょっと単純化しすぎているかもしれません。少なくとも思春期を迎えてからは、福音派で育った私は、信仰と懐疑の間をたえず行き来する、不安定なメリーゴーランドに乗っていたようなものでした。

一方、フェミニズムに関しては、私はどちらかといえばがっちりした「真の信者」でした。その啓蒙のために伝道にいそしみ、フェミニズムを弁証することに熱心でした。疑念や不快な疑問を抱く瞬間もあったかもしれませんが、ほとんどの場合、私はそれらを脇に追いやっていましたね。福音主義者として自分には、「もしこれが真実でなかったら?」という不安が絶えずつきまとっていました。それとは対照的に、ポストモダン・フェミニスト全盛期の私は、自分が何か間違っているのではないかという疑問を抱くことはありませんでした。

 

CWR:あなたがフェミニズムを受け入れ、そしてやがて離反していった様々な段階を語ることで、性とジェンダーについての議論の舞台が整いました。一般の読者にとって、フェミニズムの歴史や、そこにあるさまざまな哲学的・文化的流れをある程度理解しておくことは、やはり重要なことなのでしょうか。

 

アビゲイル・ファヴェール教授:そうですね、しっかり言明された世界観を持つことは有益であるばかりか、きわめて必須なことかもしれません。-そして世界観のレベルで他の諸主張や視点を評価する能力を養うことは、そのプロセスの一部です。もっともこれは大学院では教わりませんでしたけれども。大学院では私は暗黙のうちに、一つの世界観の視点(=この場合は世俗的ポストモダニズム)に立った教育を受けていました。一歩下がって冷静に「ここにある根本的な諸前提は何か」「それらはほんとうに真なのだろうか?」と自問するよう求められたことはついぞありませんでした。

 

ジェンダーに関する昨今の話題は、一見どこからともなく出てきたように見えますが、実はそれらは以前から起こっていたその他の文化的・哲学的シフトの結実なのです。そしてこの新しいジェンダー・パラダイムで当然とされている前提の多くは、実際にはほとんどの人が受け入れがたいと思う種類のものなのです。それで私はこの本を通し、ジェンダー理論の底辺を流れている世界観を知るための、ある種の入門書を提供したいなと思ったわけです。

 

CWR:あなたは「フェミニズムをあまりに性急に否定するのは危険だ」と言っていますね。またあなたは「カトリック・フェミニズム」なるものを提唱しているため、一部で批判されています。あなたの本はどういう点においてカトリック・フェミニズムを説明し、提示しているのでしょうか。それに対する誤解や 誤った認識はどのようなものがありますか。

 

アビゲイル・ファヴェール教授:人間というのはとかく反動的で全体化する(totalizing)思考に陥りがちです。フェミニズム運動は、さまざまな「波」の中で、現実的な諸問題、社会における女性たちの完全な尊厳の実現に対する現実的な障壁を目の当たりにし、それに対応してきました。反面それはまた、非常に現実的な問題や新たな障壁をも生み出してきました!

 

フェミニズム思想は、確固たる形而上学、つまり何が現実であるかについての自説を持っていませんでした。そのために、フェミニスト理論家たちはしばしば他の哲学諸体系に目を向けます。そうです、フェミニズムの視点やアプローチは実に多様で、リベラリズムやマルクス主義、ポストモダニズムといった他の哲学に接ぎ木されているのです。私は、カトリックの世界観に根ざしたフェミニズムの視点を持つことは可能だと思います。それは、女性の尊厳を育み祝福することに関心を持ち、尊厳が脅かされている部分に注目します。

 

CWR:読者の中には、あなたが(「宇宙(コスモス)」という章で)宇宙論と創世記に大きく焦点を当てていることに驚かれる方もいらっしゃると思います。その章で、どのような基本的な土台を提示しようとしているのですか?

 

アビゲイル・ファヴェール教授:起源物語は、単に私たちがどこから来たかを教えてくれるだけではありません。さらに重要なことに、私たちがいったい何者であるのか、そして私たちの究極の目的が何であるかがそこに明示されているからです。現代の社会は、「アイデンティティ」問題にやっきになっており、アイデンティティをしっかりとした意味のある土台に根付かせようとしています。

 

クリスチャンにとって、アイデンティティをめぐる議論は、『創世記』にある宇宙論から始めなければなりません。創世記の最初の3章には、カトリック人間学の要点が記されています。人間は肉体と魂の統合体であり、私たちは神のかたちに造られています。

 

さらに、私たちの男性性と女性性という性的な違いは、創造の最高の栄華であり、私たちが神の対人的(interpersonal)にして生命を与える愛をどのように比類なく表象するかを示す重要な一部なのです。その意味でも、キリスト教的なジェンダー論は、まずは『創世記』の中でしばらく時を過ごさなければならないでしょうね。

 

CWR:フェミニズムの "3つの波 "の歴史は複雑ですが、あなたは幾つかの重要な要素を紐解くことに骨を折っておられました。さて、それらの「波」の中で、最終的にジェンダーやトランス・イデオロギーをめぐる現在の論争につながった側面には一体どのようなものがあるでしょうか。

 

アビゲイル・ファヴェール 教授:先に述べましたように、フェミニズムの思想は基盤となる哲学に接ぎ木される傾向があります。フェミニズムの第一波は、政治的自由主義に接ぎ木されたもので、自由民主主義の条件の下での法的平等を問題にしていました。第二波のフェミニズムはマルクス主義思想の影響をより強く受け、第三波のフェミニズムはポストモダンに転じましたね。

 

一般的なレベルでは、今日のジェンダーに関する議論はこれら3つの哲学から多くを借用しつつ、それらをブレンドしてめくるめくカクテルにしていると言っていいかと思います。すなわち、権利および自律性への訴え(➡リベラリズム)、抑圧ベースのアイデンティティのカテゴリーへの訴え(➡マルクス主義)、現実の社会的構築とオープンエンドな自己定義への訴え(➡ポストモダニズム)です。

 

CWR:あなたは、今日のフェミニズムの「暗黙的世界観」は、「私がジェンダー・パラダイムと呼んでいるところのもの」であり、「何よりもまず、このパラダイムは神無きものです」と言っておられます。「ジェンダー・パラダイム」とは何ですか。こういったフェミニズムのどのような特質が、その神無き性格を明らかにしているのでしょうか。

 

アビゲイル・ファヴェール教授: ジェンダー・パラダイムとは、「真理」と「現実」を社会的権力の行使とみなすものです。

 

このパラダイムは、本来のあり方としての「自然」や「自然的なもの」「生まれつきのもの」への訴えを拒絶します。――神や創造主は存在せず、したがって私たちは創造された存在ではない。その代わりに、私たちは自分自身を作り上げていく。アイデンティティや意味を世界から受け取るのではなく、それを逆に世界に植え付けていくのだ。私たちの身体は真っ白な板であり、それは内在的な意味を持たない。私たちは、自らの自律性を侵害するところのいわゆる「生まれつき」の限界(“natural” limits)を克服すべくテクノロジーを駆使しなければならない、と。

 

CWR:この際、あえて質問させてください。「女性とは何ですか」。

 

アビゲイル・ファヴェール教授: 女性とは、自分の中に生命を宿す可能性を中心に全身が組織化された人間のことです。男性とは、他者の中に生命を誕生させる可能性を中心に全身が組織化された人間のことです。ここでの "可能性 "という言葉は重要です。たとえそれが実現できないとしても、可能性は存在するのです。この定義には、不妊の男女も入っています。実際、"不妊 "というカテゴリーそのものが、実現されていない固有の可能性を示唆しているのです。

 

女性であることは、生物学的なことにとどまりませんが、とは言えやはり必然的に生物学的な問題をはらんでいます。しかし、女性は人格的カテゴリーであり、――つまり全人格を指すため――、心理的、精神的、社会的、経験的な次元も持ち合わせています。より深いレベルにおいて、女性であること(そして男性であること)には秘跡的な意味があり、男性と女性という私たちの性的分化は、三位一体の神の象徴なのです。

 

CWR:「ジェンダー」という言葉はどのように生まれ、進化してきたのでしょうか。また、どのようにして「性」という言葉と切り離されるようになったのでしょうか(あるいは拮抗するようになったのでしょうか)。

 

アビゲイル・ファヴェール教授:1950年代半ば、心理学者のジョン・マネー*1が、「人間の性自認は生物学よりもむしろ社会化の問題である」という持論を明確にするために、言語学から「ジェンダー」という言葉を借用しました。彼は「ジェンダー役割」という言葉を作り、「ジェンダー」(性に付随する社会的表現や規範)と「性」そのものを区別しました。

 

第二波フェミニストたちはこの用語を採用し、またたく間に人文科学や社会科学を席巻することになります。この性/ジェンダーの分裂は、ある意味有益ではあったものの、最終的には身体と自己、femaleとwomanの間にくさびを打ち込むことになりました。フェミニズムのポストモダン的転回において、ジュディス・バトラーはジェンダーだけでなく性そのものもまた社会的構築物であると提唱することで、さらにその度合いを高めました。この動きは、性/ジェンダー区別における、不可解な逆転への道を開いたのです。それゆえに現代では、性は構築物にすぎず、「ジェンダー」つまり自分自身に対する主観的な感覚こそが真の「現実」だとされるようになっています。

 

CWR:なぜこれほどまでに "トランス" の人々が爆発的に増えているのだと思いますか。また、トランスジェンダーがこれほど広く受け入れられ、促進されているのはなぜだと思いますか。

 

アビゲイル・ファヴェール教授: 私たちは、様々な文化的傾向や疾患によってもたらされた複雑な現象を目の当たりにしているのだと思います。私たちが目にしているトランス同一性の "爆発的な増加 "のほとんどは若者の間で起こっており、これは斬新な現象です。私たちはまた、若者の間で広範な精神衛生上の危機も目の当たりにしています。そして、さまざまな複雑な種類の苦しみや苦悩が、――「身体を変えればあなたは幸せになれる」という――苦しみの原因や解決策を明らかにすると称するこの単純化された枠組みに注ぎ込まれているの です。

 

また、若者は無意識のうちに、女性らしさ、男性らしさについての否定的で還元的な物語に反発しているのだと思います。私たちのジェンダーに対する文化的理解は、ポルノによって形成され、男性は支配的な捕食者、女性は被害者という考え方がますます強まっています。

 

第三に、そしておそらく最も重要なことですが、この傾向はソーシャルメディアの台頭とともに急増し始めました。インターネットは実体のない流動的な世界であり、自分だけのアバターを構築することが可能です。さらに、ソーシャルメディアには、転換を万能薬として売り込み、若者が従うべきガイダンスや脚本を提供するインフルエンサーがあふれているのです。

 

CWR:いわゆる「トランスの専制」なるものに対応するだけでなく、私たちのセクシュアリティが神からの贈り物であることを人々に理解してもらうために、カトリック信者は何ができるでしょうか?

 

アビゲイル・ファヴェール教授:伝統的なジェンダーの固定観念をむやみに強化することによって、パニックに陥ったり過剰反応したりしないことです。その代わりに、具現化すること(embodiment)やからだの善性に焦点を移しましょう。若者が自分自身のユニークな個性を伸ばすのを助けると同時に、性自認の良さを肯定するのです。

 

言語に注意を払いましょう。現実に基づいたことばを使い、可能な限り、現実にそぐわないことばを使うよう要求された場合は、それを静かに拒否しましょう。ただし、ジェンダー理論という欠陥のある枠組みと、その枠組みにとらわれている現実の人々との区別を保つことにも注意することです。抽象的なアイデンティティのカテゴリーではなく、目の前にいる個人個人に焦点を当てた、愛に満ちた交流にしましょう。耳を傾け、愛し、求められたら真実を話す。そして忘れないでほしいのは、私たちはみな未完成であり、神は私たちに限りなく忍耐強く接してくださるということです。

 

CWR:最後に一言お願いします。

 

アビゲイル・ファヴェール教授:恐れないでください。それをいつも心に置いておきたいですね。

 

ー終わりー