巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

悩める神学生たちへの励ましの手紙――現代正教神学の諸潮流をどう捉えればいいのか?【マシュー・ベーカー神父遺稿集】

f:id:Kinuko:20211210195311j:plain

 

Fr. Matthew Baker (♰2015), Ways of Modern Orthodox Theology, Letter to Students of St Tikhon's Seminary, September 20, 2014, in Faith Seeking Understanding (2021) 拙訳

 

確かに考えさせられることが多いですね。

聖伝についての説明を誰かから聞くとき、あなたは、――ある方策的諸選択や強調がなされた――1つの解釈を聞いているのだということを覚えておくといいと思います。

(方策的諸選択や強調が、説明する当人によってなされていない場合は、彼の先生達や彼に影響を与えた人々によってなされているとみていいでしょう。)

 

どんな人であってもある種の「輪止め」を選択するのを回避することはできません。そして私たちはそれぞれ皆、自らの選択している「輪止め」を通し、その他すべてのものを読み、解釈しているのです。

 

また、過去を解釈する際の選択や強調点は、通常、解釈する側の現代的な関心事やニーズに対応しています。それらは少なくとも、過去のこと及び解釈される諸資料や聖伝についてと同様、現在のこと、そして解釈者のことについても多くを物語っています。そして、前世紀から受け継がれてきた正教神学の中には、聖伝に対する数多くの様々な解釈が存在し、それらは互いに競い合っています。

 

例えば、最も影響力のあるウラジーミル・ロースキイの説明を見てみますと、彼は正教会の聖伝全体を二つの視座ーー、すなわち「偽ディオニュシオス集成」と「聖グレゴリオス・パラマス」を通して読む傾向があるのがわかります。いや、むしろ一つの視座と言った方がいいかもしれません。つまりパラマスによって解釈されたディオニュシオス集成です。

 

特にロースキイの『The Vision of God』を読めば、彼が、14世紀以前の正教会の聖伝全体をパラマスのプロローグとして提示していることがわかるでしょう。そしてロースキイは、それ以前の聖師父たちのすべてのカテゴリーを、自らのパラマス解釈の条件に強硬に当てはめています。

 

それには理由があります。ロースキイは当時ネオ・トミズム全盛のフランスにいて、その状況に反応していたのです。彼はローマ・カトリックに対して正教会伝統を自己定義することを求めていました。だからこそ、彼は正教会神学を東方教父のみに限定し、それを「合理主義的」西方に反立するところの「神秘的」東方として提示するという選択をしたのです。すなわち、『キリスト教東方の神秘思想』です。

 

この時代のローマ・カトリック教徒の多くは、トマス・アクィナスを、それまでの伝統の中で価値のあるものすべての綜合として扱っていました。ロースキイはそれに応え、アクィナスが新トマス派のために持っていた役割像にパラマスを置こうとしました。

 

これに対応して、認識論、アポファティシズム(否定主義)と恩寵、ウーシア/エネルゲイアの区別、あるいはその欠如の問題――が、正教伝統に関する彼の提示全体の重要なレンズ / テーマ的中心思想 / 構造的枠組みとなっています。

 

彼は実際に「キリスト中心主義」という言葉を西方に対する批判のポイントとして使っています。また、彼の大著全体の中で、ユーカリストについてはたった一度しか言及されていないのも特徴的です。しかし、これら一連の「動き」は解釈上の選択であり、その他もろもろの諸選択と同様、それらは必ずしも必然的なものではなく、聖伝全体から求められるものでもありません(私の意見では、格段正当化されるものでもありません)。

 

その他幾多の神学者たちをここでロースキイと対比させることができます。そしてその度に私たちは異なる諸選択を見出すことになるでしょう。

 

例えばフロロフスキーは、ディオニュシウスやパラマス、ウーシア・エネルゲイア、アポファティシズムではなく、キリスト論や救済史、特にカルケドンのキリスト論を中心に据え、そこから正教神学の全体像を導き出すことができるとしています。

 

どの場合においても同じ聖師父たちがそこにいるのですが、それらは異なる基軸を参照しつつ解釈されているのです。フロロフスキーは根本的にキリスト中心主義で、神学における理性の役割を高く評価し、ロースキイよりもはるかに歴史的、秘跡的、ユーカリスト的、教会共同体的な強調をしています。フロロフスキーはまた自身を東方教父のみに制限してはいません。例えば、アウグスティヌスは彼のお気に入りの一人であり、彼の教会論にとって最大の教父的資料となっています。

 

過去の聖伝の解釈に関しては、それこそ様々な神学者の様々な例を無数に挙げることができるでしょう。

 

ロマニデスは、ロースキイよりもキリスト中心的ですが、ロースキイの中にあるある種の諸傾向をさらに過激化させ、ついにはビザンチン的な「ペンテコスタリズム」や長老中心主義(elderism)、極端なアンチ西洋主義などを受容するに至りました。その意味で、彼が後年、聖体礼儀をほとんど執り行わなくなったのも無理からぬことだと思います。

 

一方、シュメーマンとズィズィウーラスにとっては、修徳的聖師父たちよりはむしろユーカリスト典礼が彼らに枠組みを提供するものとなっています。ズィズィウーラスは、主教についての聖イグナティオスの教えおよび、典礼に関する教父の神秘的(mystagogical)解釈の伝統全体(例えば、エルサレムのキュリロスやマクシモス)を、正教神学の中心に据えています。

 

ソフロニー(サハロフ)神父は、もちろん自分の長老や修徳的聖師父たちから霊感を得ていますが、より詳しく調べてみると、彼の教義的な枠組みはロースキイおよび、実際にはブルガーコフからも引き出されていることがわかります。

 

ブルガーコフの(非難されている)ソフィオロジーのすべてを採用しているわけではありませんが、ブルガーコフは実際、ソフロニー神父のケノティズム諸思想(聖師父たちには見られない、永遠のケノーシスとしての三位一体思想を含む)、「『わたしはある(I AM)』という者」としてのペルソナ思想、そしてGodforsakennessという彼の概念の源になっています。こういった諸思想は、ドイツ観念論やモスクワの聖フィラレート、ルター派神学にも影響を与えています。

 

あるいは、もっと最近の例を挙げましょう。ジョン・ベーアは上記のいずれにもあまり依拠していません。その代り彼は聖伝全体を聖エイレナイオスの読みを通して読む傾向があり、神学を聖書の釈義として強調しています。

ーーーーー

 

それゆえ、個々の聖師父を含め、正教神学を提示する人に接する場合、あなたは今自分が一つの解釈に触れつつあるということを認識しておいた方がいいということです。その中で聖伝のある側面が強調され、他の諸側面は脇の方に取り残され・・・そしてこれは、神学的、文化的、哲学的、個人的様々な懸念や影響の下で起こっているのです。

 

大部分において、これは不可避であると同時に、良いことでもあると思います。フロロフスキーが言ったように、教義において多様性の余地はないが、神学には多様性の余地があると。イヴェロンのヴァシレイオス長老は、「聖人の数だけ神学がある」と言っています。この多様性は、ニーズや諸文脈の多様性に対応しているのです。

 

しかし、私が提案したいのは、還元主義にも気をつけなければならないということです。すなわち、聖伝の一つの要素が重要であると言うことは(たとえ最も貴重なものであっても)、それが唯一の要素であるとか、他のすべての要素を判断する基準であるとかいう意味に取ってはならないということです。その基準は、キリストご自身にのみ帰せられます。

 

キリスト者生活はリスクと自由その両方を包含しており、優れた神学は私たちをこのリスクから解放するものではありませんし、そうすべきでもありません。諸指針はありますが、成熟していくにつれ私たちは徐々にそれらを見極め、選択することが求められます。自動的に真理が保証されるような、そのような絶対確実な方法は存在しません。

 

しかしともあれ、私たちは、すべてを単一の要素に集約しようとするのではなくあくまでもオープンエンドな方法で、教会全体および聖伝のすべての領域と共に考えていくよう、最善を尽くし邁進していきたいものです。

 

この手紙がお役に立ちましたら幸いです。

 

マシュー