巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

三位一体と聖伝(Tradition)(by セラフィム・ハミルトン師)

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出典

Seraphim Hamilton, Trinity and Tradition, Apologia Pro Ortho Doxa (拙訳)

 

 

スタニロエ神父は、超自然的な啓示の三つの源――教会、聖書、聖伝――について語っています。私はこれらを御父、御子、御霊(聖神)と関連づけたいと思います。

 

教会は、聖書と聖伝両方の担い手であり、教会は常に聖伝の中で聖書を通しエネルゲイアを与えています。同じことが御父、御子、御霊にも当てはまります。御子と御霊は、聖エイレナイオスが教示しているように、御父の「二つの手」です。エネルゲイア的発出(energetic procession)を理解することにより、聖書と聖伝の関係がより明確にされるでしょう。

 

御父は、御自身のペルソナ(位格)の表現として、永遠に御子をお生みになります。そのため、御父は常に御子を通して行為し、またエネルゲイアを与えておられます。しかし、神学者聖グレゴリウスは、神の本性において孤独と分裂(二重性に含意される)の両方が克服されなければならないと説いています。

 

その結果、聖霊も御父から永遠に発出します。神的エネルゲイア(諸活動)は、神の本性に内在する力を永遠に実現したものであり、エネルゲイアは交わり(communion)の中に存在します。それゆえ、父は永遠に御霊を通して御子にご自身の愛を送ります。御子も同様に、聖霊によって御父の愛を返します。

 

したがって、聖霊は常にキリストの像(image)で輝いています。聖霊は「御子性の霊」であり、常に御子の刻印を帯びています。キリストも同様に、常に聖霊を通して輝きを放っています。キリストは、御子の霊を通し、そして御子の霊を通してのみ、私たちにご自身を伝えます。これが、「エネルゲイア的発出」の教義の意味するところです。御霊は、父と子の間の相互交わりを表現しています。

 

では、これを聖書と聖伝に当てはめてみましょう。聖書は、神的ロゴスの完璧なテクスト表現です。しかし、聖書は教会の中で働く聖霊によってのみ私たちに伝えられます。御霊が聖伝に対応していると考えるとき、聖書が必然的に聖伝の光の中で私たちにもたらされることに理解がいきます。聖書は聖伝の中で私たちに表現されます。同様に、聖伝は常に聖書で輝いています。聖書が聖伝を通し私たちにもたらされたように、私たちもまた聖伝を通して聖書に戻るのです。

 

つまりどういうことかといいますと、聖伝とは、私たちが聖書を理解するための解釈学的姿勢であるということです。聖伝は、聖書に取って代わることはできませんし、今後も決してそうなることはありません。私たちがキリストを見つめることによって御父と御霊を理解するように、私たちは聖書を研究することによって教会の教えを理解しなければなりません。

 

聖伝を通して聖書を受け取った私たちは、また、聖伝を通して聖書に戻ります。ゆえに、私たちは常に聖書の神学の意味合いを深めていくのです。聖伝は化石ではなく、教会の中にある神的エネルゲイアです。ゆえに、私たちは常に聖書の神学の意味合いを深めていくのです。

 

聖書は、聖伝という形で私たちにもたらされ、私たちがその同じ聖伝を通して聖書に戻るとき、聖伝は深められます。そして後世に継承されるべくさらに深い形で私たちに戻ってくるのです。これが、キリスト教教義発展のための神学的根拠です。実に聖書は、すべての教義が流れ出る源です。

 

ー終わりー

 

「聖書に記述されている人物や出来事の真実性を疑うときは、使徒が言うように『すべての聖書は神の霊感によって与えられたもの』であり、したがって真実であることを思い出しなさい。またたしかに誰が見ても実話ではない比喩的な言語で書かれてあるたとえ話も含まれているが、聖書には空想上の人物、寓話、物語などは含まれていない。

 神の言葉の全体は、単一にして全体的かつ不可分の真理である。もしその中の物語、文、言葉を真実ではないと認めるならば、その時あなたは聖書の全体性における真理と、その根源的真理である神ご自身に対して罪を犯すことになるのである。『わたしは真理である』と主は仰せられた。『汝の御言葉は真理なり』とイエス・キリストは父なる神に言われた。このように、聖書の全体を真理と考えなさい。そこに述べられていることはすべて実際に起こったか、あるいは今まさに起こりつつあるのである。」
クロンシュタットの聖イオアン