巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「引かれるべき一線」――女性叙階問題とキリスト論、そして教会の危機(by ペリー・ロビンソン師)

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(25th Anniversary of the Ordination of Women to the Priesthood - Diocese of London)

 

目次

 

女性叙階問題とキリスト論(by ペリー・ロビンソン師)

 

Perry Robinson, Anglicans in Exile, Energetic Procession, 2009(引用拙訳)

 

女性叙階問題について懸念されている方々もおられるでしょう。学術誌を読む限りにおいて申し上げますと、女性叙階賛成者の議論は次のように展開しています――。

 

「受肉においてキリストは、ご自身が贖うものに限り、それらをご自身の身に負われた。仮に司祭がキリストのイコンであり、それゆえに、司祭だけが男性であり得るのであったら、これが意味しているのは、受肉においてキリストは女性の本性をご自身の身に負われなかったということだ。つまり、女性は救いから排除されているということである。背理法により、司祭職が男性だけに限られているというのは馬鹿げている。なぜならその論は異端に依拠しているからである。」

 

上記の議論の抱えている問題はシンプルなものです。この種の議論の形態は無数にありますが、それらは以下に挙げる二つの主張の内のどちらか一つを前提しています。

主張①セクシュアリティーは人間本性にとって偶発的なものである。

主張②キリストの男性セクシュアリティーはキリストと位格的(ペルソナ的)には結びついていない。

 

主張①によれば、司祭職が男性だけに限られているのは人間であることに偶発的ななにかに基づいており、これは主張②に合致しています。すなわちキリストは、――人間本性に偶発的であるところの――ご自身の位格と結び付いていない、ということです。

 

フェミニストの観点でいくと、司祭職が男性だけに限られているのは、一時的欠陥のようなものに根付いています。それで彼らの考えによれば、こういった根拠を基に女性たちを司祭職から締め出すのは明らかに間違っています。なぜなら、それが含意しているのは、彼女たちが完全には人間ではないということだからです。フェミニストたちはこう考えています。――キリストが男性セクシュアリティーに位格的に結合しているのなら、それはつまり、男性セクシュアリティーこそが本質的に人間であるということを意味しているのだ、と。

 

これは間違いです。‟セクシュアリティーが人間本性に偶発的なものである”という見解は一種のオリゲネス主義であり、‟キリストが男性セクシュアリティーに位格的にご自身を結合させていない”という見解は一種のネストリウス主義です。ニカイア公会議以降、すべての教会公会議はそれゆえ、神学的にそして論理的に女性叙階を排除しています。

 

さらに、フェミニスト議論が含意しているのは、‟人間セクシュアリティーはキリストに結合してはおらず、それゆえそれは人間であることの本質ではない。よって男も女もキリストのイコンである資格は持っておらず、従って司祭になる資格もない”ということです。こういった構図において唯一合法的に司祭になれるのは、性別のない、無性な人間本性でしょう。(私はそのような無性の人間本性なるものを見たことがありません。)解決はキリストが人間に本質的であるところのものをご自身の身に負われているということの理解にあるでしょう。これが意味しているのは、主は両性に共通しているものを身に負われ、特に一方の性を身に負われたということです。(もしくは女性であるということは男性であるということと切り離して考えることはできない、という風にみることです。)

 

キリストの男性セクシュアリティーは真にご自身の位格(persona)と結合しており、それゆえにセクシュアリティーは人間であることに偶発的なものではなく、また、それゆえに、①女性は救いから締め出されている、②女性は叙階の許容対象である、ということを是とせず、それと同時にキリストは人間本性のすべてをご自分の身に負うことができたのです。

 

このテーマに関するホプコやウェア等を読む限り、こういった点を彼らは見落としていると思います。以上の理由により、正教会の女性叙階の可能性について私たちはそれほど心配する必要はないと思います。しかしそうは言え、女性叙階を是認している神学者たちもいるにはいます。自分の通う米国ギリシア正教会教区にも一人女性神学者がいて、彼女は女性叙階を推進しています。そして彼女の議論は、例によって‟人間セクシュアリティーは人間本性に偶発的なものである”という信条に基づいています。ですがすべての正教徒がこの事項に関し同一意見を持っていないということはたいした問題ではありません。なぜなら教会は民主主義ではないからです。

 

ニカイア公会議やその他の教義論争史をみても明らかなように、コンセンサスは絶対的に統一された同意を意味してはいません。‟教導権”の欠如はまた、教師の欠如や決定的に物事に解決を与える手段の欠如を含意してもいません。ただし、「規範的諸決定に到達する手段を正教徒は欠いている」ということが証左された時に限って、これらの心配は確かに正当化されるでしょうが今のところ、これは単なる空の主張に過ぎません。それゆえ、正教がアングリカン主義の二の舞を踏むことはないだろうと私は考えています。〔執筆時:2009年〕

 

「引かれるべき一線」(by ペリー・ロビンソン師)

 

2021年11月25日インタビュー〔58:50~音声書き出し〕

 

今世紀、キリスト教会にとっての最大課題は、教会アイデンティティーおよび教会戒規をめぐる問題でしょう。引かれるべき一線はあるのか。もしあるとしたら、それはどこに引かれるべきなのか――。

 

人間セクシュアリティーに関する一連の諸問題はすでに福音主義界を席巻しています。メインライン教団教派は軒並みすでに生命線が絶たれた状態にあると言っていいでしょう。破滅です。そして今後15年かそこらで、米国聖公会もまたこの地上から姿を消すだろうと言われています。英国国教会も同様の運命を辿ることになるでしょう。米国長老派諸教団、米国ルーテル諸教団もその最中にあります。

 

性的倫理に関するローマ教会の文書群はすばらしいですが、実際的には、ローマ教会も混乱しています。そして正教クリスチャンとして私はここではっきり明確にしておきたい。次なる敵のターゲットは正教会だということを。向こうで起こっていたことがこちらにも襲い掛かってくることを私は確信しています。

 

私見では、現在の米国ギリシア正教会は、1960年代頃の米国聖公会の状態にあります。つまり油断していると60年代以降、米国聖公会で起きたことが将来、米国ギリシア正教会でも起こるだろうということです。私たちはこの問題に対し本当に目を覚まさなければなりません。前述しましたように問われるべき問いは次のものです。

●あなたは(この人は教会員になれるのかなれないのかに関する)「一線」を持っていますか?もしこれに対するあなたの答えが「いいや、持っていない」のなら、もうおしまいです。あなたが優柔不断でぐずぐずしている間に、レインボー旗がまもなくあなたの教会にはためくことになるでしょう。

 

引かれるべき「一線」が引かれなければなりません。私にはもう正教コミュニオンの他に逃げ場はありません。ですからこの先何があろうとも自分の全運命はここにあり、私は最後まで戦うつもりでいます。そして私は仲間のクリスチャンたちに言いたい。目を覚ませと。

 

お遊びの時間は終わりました。今私たちは全員、何らかの形でこの〔霊的〕闘いに参戦しなければなりません。かつてキリスト教国家と呼ばれていた国々においても、今は、キリスト教のキの字も知らない世代が主流になりつつあります。「キリスト教的意識」なるものも過去の代物です。西洋文化のあらゆるレイヤーにおけるキリスト教的浸潤は玉ねぎの皮がむかれるように削ぎ落とされていくでしょう。

 

そしてそういった現代文化が、キリスト者であるあなたを今後もそのままにしておいてくれると思うなら、それはとんだ間違いです。あなたはホンモノの異教主義がどんなものであるかまだ知らないでしょう。文化的次元で実践に移されフルに顕現された異教主義の恐ろしい実態をあなたはまだ見たことがないでしょう。

 

・・・21世紀のキリスト者にとり、教会戒規は今後ますます大きな問題となってゆくでしょう。おそらくこれが教会生死の決定的分かれ目になると思います。私の見方は間違っているかもしれません。ですがこれが現代の状況を見据えた上での私の読みであり、見解です。

 

ー終わりー