巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ハーバード大、史上初の無神論者チャプレン選出。(by ロバート・バロン司教)

f:id:Kinuko:20211207185910j:plain

出典

 

Robert Barron, Catholic bishop: Harvard jumped the shark with atheist ‘chaplain,’ New York Post, Aug, 2021(拙訳)

 

ハーバード大学が史上初の無神論者のチャプレンを選出したというニュースがたった今飛び込んできました。「えっ、無神論者のチャプレン?!」 そう、その通り。ヒューマニスト・ラビと自称するグレッグ・エプシュタイン氏が、アイビーリーグ宗教諸団体のチャプレン長に選ばれたのです。

 

エプシュタイン氏は、ハーバード大学で未信者や宗教を持たない求道者に奉仕してきた方で、「敬虔な無神論者」と言われています。そんな彼が今後、アメリカ一流諸大学のチャプレン達の指揮をとることになります。

 

f:id:Kinuko:20211207190132j:plain

出典

 

彼はニューヨーク・タイムズ紙に、「もはやどのような宗教的伝統にも属していないが、それでも善良な人間であることや倫理的な生活を送ることの意味について、会話やサポートを必要としている人々が増えています」と語っています。世界中の宗教諸伝統を代表する専門的コミュニティーであるハーバード大学の様々なチャプレン達は、全会一致でエプシュタイン氏を代表に選出しました。

 

カトリックの司教として私は、多くの若者が無信仰や宗教離れに陥っていることは否定しません。現に今、アメリカ人の5人に1人が「自分はスピリチュアルだが宗教的ではない」と答えており、世論調査によると、こういった層には若く、高学歴で、リベラルな人々が多いとされています。

 

もちろん、教会はこういった層に手を差し伸べるべきであり、哲学討論会、倫理的・精神的な問題について学生が議論するフォーラムなどを主催すべきでしょう。そして仮にハーバード大学がこういった各種フォーラムを統轄すべく一人の未信者の方を任命するならば、何の異論もありません。

 

私の心を悩ませているのは、この人物を選んだハーバード大学宗教指導者たちの完全にして惨めな降伏です。無神論者がチャプレン、――つまりチャペルで宗教的礼拝を総括する指導者として認証されるのであればその時、「宗教」はもはや何の意味も持たなくなってしまっている訳です。

 

このような状況になるまでには長い歳月が必要でした。宗教を自分の道徳心や感情を向上させるための友好的おしゃべりのレベルにまで歪めてしまうという、こういったエリートによる歪曲は、18世紀末から19世紀初頭にかけ著述活動を行なったドイツの哲学者二人に源流を辿ることができるでしょう。

 

イマヌエル・カントは、真の宗教とは、教義や教条、祈りや典礼とは無関係である。信仰とは、道徳を身につけることであると考えていました。カントの教えの大衆的バージョンは、「僕たちがいい人でありさえすれば、何を信じるかは究極的には問題ではない」という言葉に代表されるように、今日でも健在です。

 

カントと同時代のフリードリッヒ・シュライエルマッハーは、宗教とは教義の集合体ではなく、絶対的な依存心であり、彼の言葉を借りれば「無限に対する感覚と味覚」であるとしています。偉大な哲学者である G・W・F・ヘーゲルは、このような宗教のセンチメンタル化を嘲笑し、「もしシュライエルマッハーが正しいなら、私の犬は完璧なキリスト教徒だ!」と言っています。

 

私が言いたいのは、教義の相対化が、2世紀を経て着実に進んだ結果、今日のハーバード大学の状況に至ったということです。最も基本的な教義である「神への信仰」さえももはや重要ではないのです。神を信じなくても、あなたは依然として完全に「宗教的」であることが可能だと。

 

しかし、これはとてもナンセンスなことです。カトリックの聖職者として私は、全知全能で愛に満ちた神を信じています。神は無から全宇宙を生み出し、全宇宙を支え、自らの元に引き寄せておられます。この神は、イスラエルの民を選び、神の律法、契約、預言、神殿を授けられました。時が満ちると、神はナザレのイエスという1世紀のユダヤ人において受肉され、ローマの十字架上で死に、死からよみがえられ、今やすべての人をご自身のロードシップの下に置くよう招いておられます。

 

これらのことについて、反論がありますか。それならどうぞ。肯定しても、否定しても、議論してもいい。信仰人である私のことを馬鹿呼ばわりしてもいい。しかし誰がなんと言おうと、それが宗教であることは否定できないのです。もちろん、宗教によって教義上の主張はさまざまに異なりますが、少なくとも、それらは神の存在を肯定しています。(仏教の一部は例外かもしれませんが、それは原則を証左するところの例外です)。

 

エプシュタイン氏自身はきっと良い方なのだと思います。彼個人に対し私は少しも問題はありません。しかし、彼を選んだハーバード大学の宗教指導者たちに私は言いたい。少しは自尊心を持てと。チャプレンであることは、神を崇拝することと関係があり、――あなたはそのことを恥じるべきではありません。

 

ー終わりー

 

Οὐ γὰρ ἐπαισχύνομαι τὸ εὐαγγέλιον τοῦ χριστοῦ· δύναμις γὰρ θεοῦ ἐστιν εἰς σωτηρίαν παντὶ τῷ πιστεύοντι, Ἰουδαίῳ τε πρῶτον καὶ Ἕλληνι. 

わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。ローマ1章16節

 

www.youtube.com