巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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公平性・多様性・包括性は尊くも、絶対的価値ではない理由について(by ロバート・バロン司教)

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Bishop Robert Barron, Why Equity, Diversity and Inclusivity are Not Absolute Values, Nov, 2021(拙訳)

 

 

フランス革命後、「自由・平等・友愛」の三枚札が世俗社会の倫理的羅針盤として台頭しました。そしてそれと似たようなことが今日、「公平性(equity)、多様性(diversity)、包括性(inclusion) 」に関し起こっています。

 

少なくとも欧米のほとんどの有識者や社会運動家にとって、この三つの価値は基本的規範として、個人レベルでも組織レベルでも私たちの行動を導くべき、絶対的に価値ある自明の道徳的真理として機能しています。しかし、これは正ではあり得ません。なぜなら、そのような決定的役割を果たすものは、それ自体が善でなければならず、あらゆる状況において価値を有し、そしてそれは、より高い価値によって位置づけられ得ないからです。公平性、多様性、包括性いずれもそのような特権を享受しておらず、このことは容易に明示され得るでしょう。

 

まず、公平性(equity)について考えてみましょう。すべての人は尊厳において同一であり、等しく尊敬に値し、それゆえ、平等性を育むことは実際本当に高い道徳的価値です。この倫理的直観は、アメリカ独立宣言の中に埋め込まれています。「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」。したがって、すべての人が法の下において平等であるとみなされ、教育、経済、文化の各分野において可能な限り平等な機会を与えられることは、道徳上不可欠なことです。

 

それでは、それはすべてにおける平等ということになるのでしょうか。勿論、否です。人間社会の中で生じる多くの非平等――知能、創造性、技能、勇気、エネルギーなどにおける差異――は、自然に与えられたものであり、それらは残酷な形での平準化執行によってのみ解消されうるものです。そして、このような自然の非平等から生じるのは、人生のあらゆる領域における達成レベルの違いという、結果における劇的な非平等です。もちろん、こうした格差の中には偏見や不正の結果ゆえであるものもあり、そのような場合には、その誤りを正すため積極的な是正行動がとられるべきです。しかし、社会全体に対し一律に「結果における平等」を押し付けることは、結果として正義の大侵害をもたらすものであり、これらは最も全体主義的な政治体制によってのみ可能とされる種類のものです。

 

次に、多様性(diversity)について見てみましょう。哲学史上最も古い問題は、おそらく「一と多」、つまり、存在のあらゆるレベル における単一性と複数性の関係をいかにして明確に考えるかということです。

 

この40年ほどの間に、私たちはこの問題の「多」の側を非常に強調し、あらゆる機会に多様性、差異、創造性を称え、他方、単一性を”抑圧”として悪者扱いにする傾向があったと言ってよいでしょう。たしかに20世紀に生じた恐るべき全体主義の事実が、単一性には暗黒面があることを十分に証明しています。そして、文化的表現、個人的スタイル、思考様式、民族性などにおける多面性は、素晴らしく、豊かなものです。ですから、多様性を育むことは確かに道徳的な価値です。

 

しかし、それは絶対的な価値なのでしょうか。少し考えてみれば、それが否であることは明らかです。「多」が一方的に強調されるとき、私たちは自分たちを団結させ結びつけるべき価値観や実践を見失ってしまいます。このことは、今日、個人の価値観や真理を決定する権利が強調され、ついには自分自身のジェンダーやセクシュアリティを自分で決定するという段階にまでいっていること――を見れば明らかです。このような多様性に対する過度の重視は、私たち一人ひとりを自愛という孤島に閉じ込め、そこから絶え間ない争いが引き起こされてきます。私たちは口角泡を飛ばし「己の諸決定を尊重しろ、己のスタンスは寛容されるべき」と訴えていますが、その間にも互いの絆はすでに失われているのです。

 

最後に、包括性(inclusion)について。三つのうち、今日の世俗文化において最も重視されているのは、おそらくこの「包括性」でしょう。何が何でも、私たちは包括的であるべきだと。繰り返しますが、このスタンスには明らかに道徳的価値があります。私たちの誰もが、不当な排除、つまり、恣意的な社会的格差の反対側に置かれ「内輪」に入ることを許されないという感覚をなんらかの形で味わったことがあるはずです。それどころか、ある階層全体が、いや、ある人種や民族全体が、このような侮辱を受けてきたことは事実として疑う余地もありません。それゆえ、排除するのではなく受け入れ、壁を作るのではなくむしろ架け橋を作ることを求めるのは、全く理解できることであり、道徳的に賞賛に値することです。とはいえ、包括性は絶対的な価値や善ではあり得ません。

 

私たちはまず、包括性に関する難題に注意を向けるべきでしょう。人が包括されたいと思うとき、その人は特定の形態をとる集団や社会、経済、文化の一員になりたいと願っているわけです。例えば、米国に包摂されたいと願う移民は、アメリカ合衆国という一つの独特な政治社会に参加することを希望していることになります。エイブラハム・リンカーンの社会に包摂されたいと願う人は、非常に限定された共同体に入ることを求めています。つまり、その人は、少なくともある程度において、「排他的な」集団に包括されることを望んでいるのです!絶対的な、あるいは普遍的な包括性というのは、実のところ、運用上、矛盾しています。

 

この原則は、おそらく教会に関して最も明確に見ることができます。一方において、教会はすべての人に手を差し伸べることを意図しています。それは、サンピエトロ大聖堂の外にあるベルニーニの柱廊が象徴的に示唆しているとおりです。しかし同時に、教会は厳格な規則や諸期待、内部構造を持つ、はっきりと限定された社会でもあります。したがって、その性質上、教会は、ある種の思想や行動を排除しているのです。フランシス・ジョージ枢機卿はかつて、「教会ではすべての人が歓迎されるのか」と問われたことがあります。それに対し彼は、「はい、その通りです。しかしそれは、彼ら自身の条件ではなくあくまでもキリストの条件に基づいて、です 」と答えました。一言で言えば、正しく秩序づけられた共同体には、包括と排他の間に健全にして且つ不可欠な緊張関係が存在するのです。

 

さて世俗的な三大価値のどれもが絶対的なものではないことを示してきました。それでは私たちは一種の道徳的相対主義を受け入れざるを得ないのでしょうか。そうではありません。実際、他のあらゆる価値を位置づける最高の価値、すなわち、――すべての従属善(subordinate goods)が参加するところの――比類なき道徳的善は、明確に名づけることができるのです。

 

そう、それはであり、それは他者として、他者の善を願うものです。実にそれこそが神の本性であり本質です。公平性、多様性、包括性には価値があるのでしょうか?然り。――まさにそれらが愛の表現である限りにおいて。否。――それらが愛と対立している限りにおいて。このことを理解することは、私たちの社会が持つべきである倫理的ディスカッションにおいて、極めて重要なことです。

 

ー終わりー