巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

教会の「女司祭」?(by C・S・ルイス、1948年)

f:id:Kinuko:20211202171850j:plain

 

C.S. Lewis, Priestesses in the Church?(拙訳)

 

「舞踏会だってもっとちがった様式ならとてもいいと思うわ。」キャロライン・ビングリー嬢は言った。「舞踏会のふつうのやりかたは退屈でがまんができないほどよ。踊りのかわりに会話を主にするものならもっと合理的だけどね。」

 

「それはずっと合理的だろうね。」兄は答えた。「しかしそれではあまり舞踏会らしくないではないか。」

―――――

 

f:id:Kinuko:20211202184501j:plain

出典

 

〔作品の中で〕嬢はその後沈黙したとなっている。が見方によっては、ジェイン・オースティンが、ビングリーをして自身の立場をフルに弁明せしめなかった、ということが言えるかもしれない。彼は識別(distinguo)をもって返答すべきだった。

 

ある意味、会話はより合理的である。なぜなら、会話が理性だけを行使し得るのに対し、踊りはそうではないからだ。しかしながら理性以外のその他の諸権能を用いること自体はまったく非合理ではない。実際、ある場合において、そしてある目的においては、真の非合理性はむしろ理性以外のものを一切用いようとしない人たちの側にこそ見い出される。

 

純粋なる三段論法を行使することによって馬をならそうとしたり、詩を書こうとしたり、子を生もうとしたりする人は、非合理な人間である。とはいえ三段論法はそれ自体、そういった諸成果によって要求されている諸活動よりも、より合理的活動ではあるが。誤った場所において、あえて理詰めで考えないこと、あるいは理詰めで考えることのみに自分自身を制限しないことは合理的である。そして人がより合理的であればあるほど、彼はその事を熟知している。

 

―――――

 

こういったコメントに『高慢と偏見』に対する批判の意味合いはない。実は、「女性たちも司祭職に就くことができる」との声明を出すよう、英国国教会が現在〔1948年〕助言を受けているとのことを耳にし、それで冒頭の内容が頭に浮かんだまでのことだ。とは言え、教会当局がこういった提案を真剣に検討する可能性はまずないだろうと聞いている。

 

現在この時点において英国国教会がこういった革命的ステップを踏み、自らをキリスト教の過去から切り離し、そしてわれわれの間に女性司祭職なるものを確立することによりその他のキリスト諸教会との間の亀裂をさらに深刻化させる行為は、ほとんどふしだら的不謹慎だといっていい。そして英国国教会自身、〔女性司祭職の〕実施により、自らズタズタに引き裂かれていくことだろう。当該提案に対する私の懸念はより理論的な類のものである。ここで問われている問題は ‟司祭職における革命” という事以上により深遠なるものである。

 

女性たちが司祭になることを望んでいる人々に対し私は敬意を持っている。彼らは真摯で敬虔で良識ある(sensible)人たちだと思う。実際、ある意味において彼らはあまりに良識的すぎるのだ。この点における彼らと私の意見の相違は、ビングリーと彼の妹の間の意見の相違に似ているかもしれない。提案されている内容はわれわれをずっと合理的にするかもしれないが、「しかしそれではあまり教会らしくないではないか。」 

 

一見したところ(キャロライン嬢のいう意味における)あらゆる合理性は〔女性司祭推進派〕革新者たちの側に味方している感がある。現にわれわれは司祭不足の問題を抱えている。それに、かつて男性にしかできないとみなされていたあらゆる種類の職業を実は女性たちも見事にやってのけることができるということをわれわれは見い出してきた。ゆえに当該提案を好まない人々の中で、「女性たちは敬虔さ、情熱、学び、その他牧会職に必要なあらゆるものについて男性たちよりも能力に劣っている」と言っている人は皆無なのである。

 

もしも女性たちがその他数多くの職種と同じように、男性と同一の仕事がこなせるのなら、伝統によって生み出された偏見以外の一体何が、司祭職に流れ込み得る巨大な埋蔵量を利用するのを禁じているのだろう――。そしてこういった常識の洪水に対し、反対者たち(その多くは女性)はまず言葉に言い表せない嫌悪感や彼ら自身分析が難しいある種の不快感を感じるかもしれない。

 

こういった反応が女性蔑視から生じたものではないということは歴史からも明らかであろう。中世の人々は、一人の女性に対する尊敬の念を、彼らの目には聖母がほとんど「三位一体の第4の人格」と映っているのではないかと思われるほどにまで高めた。

 

f:id:Kinuko:20211202173909j:plain

 

しかし、私の知る限り、かくまで高められた乙女マリアであってさえ、あらゆる時代にあって「聖職」に相当するものは帰せられたことは決してなかった。全救いはEcce accilla(ほんとうに私は〔主の〕はしためです)という彼女の言葉によって為された決断に依っている。マリアは9カ月の間、永遠なるロゴスと想像も及ばないほど親密な形で結び付いており、彼女は十字架の下にたたずんでいた。しかしまた彼女は最後の晩餐の時にも、ペンテコステにおける聖霊降臨の際にもその場には居合わせなかった。それが聖書の記録である。また、地域的・一時的な事情で女性が沈黙と私生活に追いやられたと言って、それを脇に追いやることはできない。当時も女性の説教者はいた。ある人には4人の娘がいたが、彼女たちは皆「預言」、つまり説教をしていた。旧約聖書の時代にも預言者はいた。女預言者である。女司祭ではない。

 

ここで常識的な改革者はかく問いたがるだろう。「女性たちが説教できるのなら、彼女たちがその他の司祭業務をこなせないということがあろうか。いや、きっとこなせる」と。この問いは私の側の不快感を深化させるのだ。

 

われわれと論敵たちを本当の意味で分け隔てているのは、彼らとわれらが其々「司祭」という語に与えている意味の違いにあるだろう。女性たちの管理能力、助言者としての彼女たちの機転および同情心、‟慰問”における彼女たちの国民的才能について論敵たちが(正しくも)語れば語るほど尚一層のこと、われわれは、本当に問われなければならない中核的問題がなおざりにされていることを感じるのである。

 

われわれにとり司祭というのは主として〈代表 representative〉であり、しかも二重の〈代表〉である。――神に対しわれわれを表し(represent)、 われわれに対し神を表すところの二重〈代表〉である。

 

教会の中で目にするものがまさにその事をわれわれに教えている。司祭は、われわれに背を向けて東方を向き、われわれのために神に語りかけることもあれば、われわれに向き合って神のために私たちに語りかけることもある。

 

 

f:id:Kinuko:20211202180830j:plain

出典

 

 

女性が前者を行うことに異論はないが、問題なのは後者だ。しかし、なぜ?なぜ女性がこのような意味で神を代表してはいけないのか。理由はもちろん、女性が男性よりも聖性や慈善性に欠け、愚かであるととかそういうものではない。その意味で彼女は男性と同じく「神のようで」あり得、ある女性はある男性よりもはるかにそうである可能性もある。にも拘らず女性が「神を代表し得ない」というこの意味はおそらくわれわれがこの事を逆の方向からみる時、より明瞭になってくるだろうと思う。

 

仮に改革者が「善良な女性は神のようだ」と言うのを止め、その代りに「神は善良な女性のようだ」と言い始めたとする。仮に改革者が「われわれの御父」と唱えるのと全く同じ様で「天にましますわれらの御母よ」と祈ることができると言い始めたとする。仮に改革者が、「受肉は男性の形態と同様、女性の形態をも取ることができ」、「三位一体神の第二格は、御子と呼ばれているのと同じ様で御娘とも呼ばれるのだ」と提案したとする。そして仮に、神秘的婚姻が逆転させられ、教会が「花婿」でキリストが「花嫁」であるという提案がなされたとする。これら全ては、「司祭が神を表象しているのと同様、女性も神を表し得る」という主張に関わっているように思われてならない。

 

上記に挙げたこれらすべての仮定が実行に移された場合、われわれが異なる宗教の領域に入っていくことは間違いない。女神たちは勿論これまで崇拝されてきた。多くの諸宗教には昔も今も女司祭たちがいる。しかしそれらはキリスト教とかなり異なる性格の宗教である。

 

常識的に考えれば、神学的な言葉をすべて女性的な性に変えるという考えが、多くのキリスト教徒に与える不快感や恐怖感を無視しこう問いかけるだろう。「なぜいけないのか?神は実際には生物学的な存在ではなく、性別もないのだから、「彼」と言おうが「彼女」と言おうが、「父」と言おうが「母」と言おうが、「息子」と言おうが「娘」と言おうが、一向に構わないではないか。」

 

しかしながらキリスト者は神ご自身がわれわれにいかに神のことを語るべきなのか教えてくださったと考えている。「神のことをどう呼ぼうと構わない」と言うことはすなわち、①すべての男性心象(imagery)は霊感されていない、起源において単に人間的なものに過ぎない、もしくは、②男性心象は霊感されてはいるが、それはかなり恣意的で非本質的なものである、と言っているのと同様である。

 

これはいかにしても容認し得ない見解である。そして仮にこれが容認し得るのなら、それはキリスト教女司祭是認のための議論ではなく、むしろキリスト教攻撃の議論である。

 

それはまた間違いなく、心象 (imagery) に対する浅薄な見方に基づいている。宗教のことに言及せずともわれわれは私的経験から像(image)と理解(apprehension)は、常識が認める以上に互いに分かち難く結び合っているいることを知っている。

 

幼い時から「天にまします御母に向かってお祈りしなさい」と教えられてきた子供は、後に、キリスト教徒の子供とは抜本的に異なる宗教生活を営むことになるだろう。像(image)と理解が有機的一致のうちにあるように、キリスト者にとり、人間の身体と魂もまた有機的一致のうちにあるのである。

 

 

f:id:Kinuko:20211202182715j:plain

 出典

 

 

革新者たちは「性というのは霊的生活にとり、表面的なものでありさして重要なものではない」ということをここで本当に言わんとしているのである。ある職業に男女が平等に就くことができるというのは、その職業の目的のためには性別は関係ないということだ。われわれはその文脈の中で、両者をニュートラルな存在として扱っているのである。

 

国家がより一層、ミツバチ箱やアリ塚のような様に変容していくにつれ、中性的存在として扱い得る労働者がますます必要になってくるだろう。世俗生活においてこれはもはや避けられないだろう。しかしながらキリスト者生活においてわれわれは現実に戻る必要がある。キリスト者生活においてわれわれは同質的なユニットではなく、一つの神秘的みからだを構成する互いに異なり且つ相補的な有機体である。

 

ナンバーンハム嬢は「男女の平等(equality)は、キリスト教の原則である」と主張している。しかしながらそういう主張をしている箇所を、聖書の中にも、教父文書にも、フッカー全集にも、『共通祈祷書』の中にも見いだすことができない。しかしこれは私の主要論点ではない。

 

要点はこうである。すなわち、ここでいう「平等」というのが「交換可能("interchangeable")」を意味しない限り、「平等」は、女性司祭是認論に何の役にも立たないということなのだ。そして、対等な者が交換可能であることを意味する(カウンターや同一の機械のような)一種の平等は、人間の間では、法的なフィクションである。それは有用な法的フィクションかもしれない。しかし、教会ではそういったフィクションに背を向けなければならない。

 

性が創造された理由の一つは、神に関する隠された事柄が私たちに表象されるためである。 そして人間の結婚の諸機能の一つは、キリストと教会の間の結合の本質を表すことにある。神がわれわれの本性のキャンバスに描いてくださった、生きた意味ある図形を単なる幾何学的像であるかのように勝手に転換させるような権威をわれわれ人間は持っていない。

 

これがコモン・センスの呼ぶところの‟神秘的”である。その通り。教会は啓示の担い手だと主張している。そして仮に教会のこの主張が誤りなのだとしたら、その際、われわれは女司祭をこしらえることを望まず、むしろ司祭を廃止することを望むだろう。逆に教会のこの主張が真であるのなら、われわれは教会の中に、――未信者たちが非合理と呼び、信者たちが合理と呼ぶ――ある要素を見出してしかるべきだろう。

 

そこに、われわれの理性に相反してはいないものの、理性にとって不透明ななにかが存在してしかるべきだ。――そう、自然的次元における性と感覚の諸事実が不透明であるように。そしてこれこそ真の問題である。英国国教会は、今後も自らがこの不透明な要素を保持していこうとする時においてのみ、教会として存続していくことができるだろう。反対にわれわれがそれを捨て去るとしたら、そして ‟啓蒙された常識” という法廷における分別および利便性の諸基準によって正当化され得るものだけしか残していかないのだとしたら――、その時、かの古の亡霊である〈自然宗教〉が啓示に取って代わることになるだろう。

 

男として、キリスト教が私の性別(=男性)に据えている特権や負担を主張しなければならないのは辛い。われわれ男性たちに備えられている場を満たすに当たり、――自分たちの実際的そして歴史的個別性において――、われら男性の大半がいかに不出来であるのか、私は痛烈に認識している。だが軍隊の諺にあるように、「君は軍服を着ている人にではなく軍服に敬礼するのだ。」男性ユニフォームを着用している者のみが(キリストの再臨の時まで、暫定的に)教会に対し主を表象している。なぜならわれわれは皆、集合的にも個別的にも、主にとって女性形だからである。

 

われわれ男性たちはしばし非常に劣悪な司祭となり得る。なぜならわれわれが十分に男性的でないからである。だがそうであるからといって、全く男性的でない人たちを呼び込むことは全く治癒策ではない。

 

ある男は非常に劣悪な夫であるかもしれない。だがそうであるからといって、夫婦の役割を逆転させようとすることによってそれらの諸問題に解決をもたらすことはできない。ダンスにおける彼の男役は全くひどいものであるかもしれない。が、それに対する解決策は彼がより一層熱心にダンス教室に通うことであって、ダンス・ホールがそれ以後、男女の性別区分を無視し、すべての踊り手を中性として取り扱うことにあるのではない。そういった提案はもちろん、顕著に合理的、文明的、啓蒙的であることだろう。が、ここでもまた言おう。「しかしそれではあまり舞踏会らしくないではないか。」

 

f:id:Kinuko:20211202184735j:plain

出典

 

そして教会と舞踏会のこのパラレル関係は、ある人々が考えているほど空想的なものではない。教会は、――それが工場や政党に似ているよりもむしろ、舞踏会のようであるべきだ。あるいは、もっと厳密に言えば、それらは円周部にあり、教会は中心部にあり、舞踏会はその中間にある。

 

工場や政党は人工的に作られたものであり、人間の具体的な全体像を扱っているわけではない。そしてもちろんここで私は「人工的」という言葉を軽蔑的な意味で用いているのではない。そういった人工物は必要である。しかしそれらが自分たちの作ったものであるからこそ、われわれは好きなように、それらを切り混ぜ、解体し、実験に用いることができるのだ。しかし舞踏会は人間の全体に関わる自然なもの、つまり求愛を様式化するために存在している。それゆえそれらをむやみに入れ替えたり、いじくったりすることはできない。

 

教会にあっては、われわれはさらに奥の方に入っていく。なぜならわれわれは、自然に関する単なる諸事実としてではなく、――完全に人には制御不能であり且つ、われわれの直接的知識をほぼ超越している諸現実の生きた畏るべき影として――、男性および女性を取り扱っているからである。あるいはこう言えるかもしれない。われわれが〈それら〉に対処しているのではなく、(今後われわれがいじくり回すなら、すぐに明らかにされるだろうが)、まさしく〈それら〉こそがわれわれに対処しているのだと。

 

ー終わりー