巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「アングリカン主義に別れを告げなければならないと悟った日、私は号泣した。」――聖公会を愛した元聖公会神学者の回想記

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米国聖公会(All Saints Episcopal Church Frederick Maryland)写真

 

目次

 

Perry Robinson, Why I am not an Episcopalian, Energetic Procession, 2010 (抄訳)

 

生い立ち

 

私は元聖公会信者です。

生後カトリック教会で幼児洗礼を受けましたが、(家族が聖公会に移った関係で)思春期に至るまで聖公会で育ちました。その後、日曜日には聖公会に通い、金曜日はカルバリー・チャペルのユース・グループ主催のバイブル・スタディーに参加していました。

 

17歳になった頃、私はマイケル・ホートンやキム・リドルバーガーといった改革派神学者たちの著作や講演に親しむようになり、その後、何年にも渡って改革派信者になりました。それからしばらくしてより高教会的なアングリカン見解に移行し、自分が生まれ育った教会環境に戻ることにし、こうしてAnglican Catholic Church(ACC)に落ち着くことにしました。幸いなことにそこで私は将来妻となる女性に出会いました。彼女もまた生涯にわたる聖公会信者でしたが、彼女の家族は自分よりも早い時期に米国聖公会(TEC; The Episcopal Church)を去り、当時新しく形成されつつあったACCに加入していました。その後、数回にわたるACCおよび聖公会継続派の内部分裂を経験し、また、告白者聖マクシモスの教えを通し自分のキリスト論が深化していく中にあって、妻と私は正教会に受け容れられました。

 

‟別の宗教”

 

ある日、私は他のブログの中で、離教した元バプテスト信者が、米国聖公会を通し ‟キリスト教” に回帰したという記事を読みました。記事の中で彼は三位一体教理の「再形成」についての自分の考えを述べていました。しかし実際にはそれは「再形成」というよりはむしろ、三位一体論に対する彼の拒絶でした。記事は、古典的ユニタリアン主義者や現代リベラル主義者の間に見受けられる典型的養子論的キリスト論を展開していました。それによると、イエスは神性ないしは‟霊”に対しよりオープンな人間でした。それゆえ、人は彼を介して‟神”ないしは‟霊”と交信し、‟社会正義”へと鼓舞されていくとされています。

 

20年位前だったら、エピスコパリアン(米国聖公会信者)であり且つ、歴史的意味における"professing christian"に出会う可能性はまだあったと思います。その当時、彼らは聖書が霊感された書であり、キリストが死から蘇られたこと、そしてキリスト教信条に書かれてあるその他の神学的告白内容を信じていました。米国聖公会(TEC)脱出劇があった今、もはや当時のそういった面影はほとんど残っていないだろうと思います。

 

現在、‟自分はエピスコパリアン(Episcopalians)です”と言っている人々と出会う際、私は彼らが実際にキリスト教を信奉している人々だとはもはや期待していません。それは米国聖公会(TEC)の中で現在支配的なあの‟別の宗教”です。そして先ほど言及した記事はその実例です。用語自体はキリスト教的なのですが、それらの用語の意味はキリスト教とはかけ離れています。米国聖公会の説教においては今でも伝統的キリスト教用語や言い回しが使われていますが、残念ながらその中にキリスト教的内容は不在です。

 

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”christa”像

 

今やキリスト教用語という皮袋の中に、左翼的政治的理念や学術イデオロギーが流し込まれ、それらは大概、なんらかの形において、より古い型のグノーシス主義誤謬を荷造りし直したものに過ぎません。それゆえにTEC内において教会美術の分野における明らかなシフトがあり、それらは従来の像的(figural)なものから象徴的なものへと変貌し続けているのです。もしも身体というのがさして重要でないのなら(というのも彼らによると、受肉も復活も‟文化的シンボル”に過ぎないのですから。)、どんなシンボルも与えられた範囲の中で、多かれ少なかれどれも皆、良いものということになるでしょう。この‟別の宗教”は、より古いイマージュの修正版として自らを表現しています。

 

それで最近では、エピスコパリアンの方と出会い、キリスト教のことが話題にのぼった際、私はTECが行なったり言明したりしている内容がキリスト教的なのか否かということについて議論しないようにしています。というのも現在の米国聖公会(TEC)は実質、ユニタリアン団体だからです。聖職者であれ信徒であれ、この団体の忠実なメンバーとなり、且つ、キリスト教に関するほとんどすべての教理を否定することも可能です。

 

モルモン教徒の学友とのディスカッション

 

用語の再定義への動きはあまり有効ではありません。なぜなら、言葉の意味というのは少なくとも部分的に、歴史的用法、そして代表的・権威的諸資料により確立されているからです。私たちがどんな種類の意味論を支持していようとそれには関係なく、人というのは好き勝手に用語の意味を変えることはできません。

 

一つ実例を挙げましょう。ある院生対象のセミナーで末日聖徒イエス・キリスト教徒(モルモン教徒)である院生と同席したことがありました。私たちは分析哲学的神学に関連する神に関する教理についてディスカッションしていました。しばらくすると彼は腹を立て、「他の人たちが用いている○○という用語や諸見解はキリスト教的なものと認められているのに、なぜ自分のそれは認証されていないのか」と言ってきました。曰く、モルモン教徒としての自分の諸見解もキリスト教的なものであると。私が「いや、あなたの言うところのそれらの用語はやはりキリスト教的ではないと思います」と応答すると、彼はその用語の傘下に彼の諸見解を包含しないという私の権利に挑戦をかけてきました。

 

その日の朝、私たちは共に認識論に関する講座に参加し、コンテクスト主義についてディスカッションしていました。コンテクスト主義というのはおおざっぱに言いますと、知識に関する諸基準はコンテクスト(文脈)によって変わるというテーゼのことをいいます。

 

私はモルモン教徒の学友に言いました。「仮に僕が認識論におけるコンテクスト主義者だったとしよう。でも僕は知識における諸基準が変わるとは考えていないのだ。」「それじゃあ、君はコンテクスト主義者ではないよ。」彼は答えました。「だってコンテクスト主義というこの用語が意味しているのはそういう考えではないからだ。」彼は続けて言いました。「用語の意味はその言葉を先に使い始めた人々およびそれが専門的哲学者たちによってどのような用いられ方をしているのかによって確立される。それゆえ、君が今提示したような意味合いでこの用語を用いている人はコンテクスト主義者ではそもそもなく、彼らはその用語の意味を知らないだけでなく、自然諸言語がどのように機能しているのかについても無知か、あるいは嘘をついているってことになる。」そう、まさにその通り!

 

「自分たちの教会はキリスト教団体である」もしくは「自分たちは信仰告白をしているクリスチャンである」と公言している米国聖公会の人々のケースにおいても同様のことが言えるかと思います。ひとたび人々が用語を定義してかかるや、意味論的奇術・曲芸が公然と行われるようになります。彼らの立場と古典的ユニタリアン主義を隔てている唯一の主要相違は、どちらがより見栄えがいいかということくらいでしょう。(そして勿論、最近ではこの境界線でさえもぼやけてきています。)

 

どんどん「排他的」になってゆくインクルーシビティ(包括性)

 

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米国聖公会(出典

 

多くの理由により、キリスト者アイデンティティーに関するこの問題を突き詰めて考えることは重要だと思います。この文脈において自分がキリスト者であると言っている人々は、(彼らがそれに加担しているか否かに拘らず)自らがこれまでこしらえてきた偶像の問題に直面せざるを得ず、また被ってきた欺きの問題に直面せざるを得ないでしょう。弁証学的な面から言うと、彼らは「~~の見解は違う風にも解釈できます」という具合に、別の方向から議論することに慣れっこになっています。

 

しかしながら彼らが無意識に自らを置いてしまっているところの立場は、もはやそれがクリスチャンであるという特色をなんら身に帯びていない立場です。倫理的なテーマに関し彼らが言明する内容は、その他の世俗イデオロギーや非キリスト教伝統(ユダヤ教、イスラム教、神道等)によっても言明されています。イエスに関する言明もしかりです。それによるとイエスというのは多かれ少なかれまぐれ当たり的人物であり、それで彼は当時生きていた他の男たちよりも‟霊”に対しよりオープンだったのだと。他の諸文化には彼ら自身の重要人物がおり、西洋文化の中にいるエピスコパリアンには彼ら自身の重要人物("イエス")がいるというわけです。

 

ニカイア信条やその他のキリスト教典礼・シンボルを使用しているというだけでは、当該団体がクリスチャンであるかどうかを見分ける指標にはなりません。というのもリベラル派はそれらの信条がなにか別のことを意味していると主張した上で、それらの信条をより ‟インクルーシブ” なものに仕立てるべく、異なる意味を染み込ませてきたからです。それで人はキリスト教信仰の中身を全部否定しつつ、信条を用い、その団体の良きメンバーとなることもできます。

 

しかしこれこそインクルーシビティ(包括性)の持つ隠れた問題です。次第にインクルーシビティは既成の意味に対し徹底して排他的(exclusive)になってゆき、ついにはそれらの用語はそれ以前に確立されていた意味をもはや保持しなくなり、キリスト教的な意味合いをなんら含意しない代物へとなっていきます。それゆえに、そういった諸団体をキリスト教団体と捉えるべき理由はもはや何もなくなっていきます。そういった条件下にあって、サタンの教会の会員がエピスコパリアンであってはいけないという理由はあるでしょうか。

 

こうして遅かれ早かれ、分別ある人々は、「こういった見解にあっては、別にどこかの ‟教会” の会員にならなくても、何でも自分の好きなように信じることができるんだ」ということを悟るようになります。日曜の朝寝ていたって別にいい。そして寄付は他の組織や慈善団体にすればいい。‟教会”に当てる時間を、審美的により‟満たされる”なにかのために使った方がいいのではないか。なぜ毎日曜日に、人々が大昔のキリスト教用語やオブジェを使うのを眺めつつ、キリスト教のまね事をし続け、献金し続ける必要があるのだろう。

 

リベラル諸運動の特性

 

そしてこれが、リベラル派諸団体が衰退していく原因の一つです。これらの団体は現代のユニタリアン諸団体と同様、あまりにインクルーシブになり過ぎた結果、極度に変わった人たちの同好会的な集まりと化し、実質、あらゆる結束力を失ってしまっています。こういった諸団体からは改宗者は起されず、後の世代のための再生産的アウトプットもはかばかしくありません。

 

それゆえに神学的に言って、リベラル諸運動は伝統的諸団体に寄生する存在です。彼らは積極的に起き立ちて、典礼を造り出し、深いコミットメントの中で人々をひとつに凝集させるような世界観を持つ、社会的に強く結びついた団体を生み出す力を欠いています。彼らは満たしではなく欠けを表現しています。

 

率直に申し上げますと、どのみちキリスト教を捨てるのなら、彼らはもう少し実直な態度をとった上で、潔く地元にあるユニタリアン教会に転会していただきたくねがいます。そしてお願いですからもうこれ以上、聖公会を滅茶苦茶にしないでください。彼らが行なっていることは深刻に不正直だと思われてなりません。

 

米国聖公会(TEC)の中で現在も尚、キリスト教諸教理を信じている少数の信仰者たちの抱えている問題はより深刻です。ここそこに現在も抵抗グループがあり、彼らは「少なくともこの教区においては自分たちはれっきとしたクリスチャンだ」と自らを慰めています。それはその通りでしょう。あなたの教区牧師は処女降誕や復活の教理等に関し完全に正統見解を持っているかもしれません。しかし問われるべきは次の問いです。――私の神父は誰たちとコミュニオン関係にあるのかと。

 

子どもの頃、堅信の準備を手伝ってくれていたTECの神父が、アリウス論争の文脈におけるキリストの人格(ペルソナ)や三位一体について熱心に語り聞かせてくれました。彼がアタナシオスの勇伝を生き生きと語ってくれたおかげでティーンの自分にとって聖アタナシオスは英雄になりました。そして年齢を重ね、神学的に研鑽を積んでいき、アタナシオスに対する知識と敬意が増す中で、いよいよ米国聖公会(TEC)にとどまり続けることの問題を自覚し始めました。

 

聖アタナシオスは公然たる異端者たちと共に聖体拝領することを拒んだだけでなく、彼らと共に御拝領することで自分はその異端に加担することになると考えていたのです。こういった原則は東方キリスト教の伝統に限られているわけではなく、西方英語圏のキリスト教(宗教改革の前も後も)の中でも長い歴史を有しつつ存在してきました。

 

苦しく困難な選択

 

結果として、私たち聖公会信者は選択を迫られ、その決断は実に苦しく困難なものです。どうか私の記事を日和見主義的なものと勘違いしないでください。これらの方々が現在通らされている修羅場を私も通ってきました。これだけたくさんの霊的宝を提供してくれた自分たちの伝統を去らなければならないというのがどれだけ辛いことなのか私もよく分かります。

 

ここで私たちが経験している痛みは、家族の死に直面した時の苦しみ・痛みに非常に似通っています。かつて在りし日のアングリカン主義の幻影を追いかけるのをついに諦めた時、私は駐車場に止めた車の中で、号泣しました。――何時間も泣きました。そういった状態の中に置かれている人々は選択をしなければならず、そうするために、彼らは否が応にもアングリカン主義を後にしなければならないのです。

 

そして勿論これは、その他転会可能なアングリカン系のオールターナティブがないということを含意しています。私は聖公会継続派の諸教会をもはやオールターナティブだとはみなしていません。私はさまざまな次元においてかなりの時間を継続派の信仰者たちと共に過ごしてきました。彼らはTEC内で生じている同様の諸問題を繰り返し、あるいは、規模があまりに小さすぎてセクト・グループになるか、ある場合においては、個人崇拝的傾向さえみられました。その結果、これらのグループの一部は、適性に問題がある元聖職者たちを引き寄せてしまいました。もちろん、継続派諸グループの聖職者の皆が皆そうであると言っているわけではありません。ですが、私の経験では、そういった傾向はなきにしもあらずでした。

 

残された諸選択は実質、以下のようなものになるかと思います。もしもあなたがルター主義に惹かれているのなら、より保守的なルーテル教会(ルーテル教会ミズーリ・シノド(LCMS)など)に行くことができるでしょう。ただし、ルーテル教会ミズーリ・シノドも現在、典礼的アイデンティティー危機を通らされています。(”楽しいポップ礼拝” それとも ”典礼”?――どうやら ”楽しいポップ礼拝組” が勝ちつつあるようです。)また、ルター主義によって提唱されている独特の神学的諸主張という問題もあります。長老派教会に関しても同様のことが言えるかと思います。

 

そうなりますと、後はもう、ローマか正教しかないということになります。本記事ではローマと正教に関する詳しい取り組みはしません。以前、ここに書いたからです。前述しましたように、重要なのは、ひとたび決断するや、あなたは自分が改宗した先の人になる選択をしたということです。改宗した先のカトリック教会や正教会の中で不満を募らせたエピスコパリアンになるのはあなたにとって不幸です。

 

あなたは一つのものを後にし、選び取ったもう一つの選択肢を受容する必要があります。そしてこれが意味しているのは、仮に米国聖公会(TEC)に何も問題がなかった場合であっても、私は尚も同じ決断をするということに対する心からの確信がなければならないということです。こういった確信があるなら、最終的にどのコミュニオンに落ち着いたとしても、あなたはそれなりに安定性と平安を得ることができるでしょう。そしてこれはあなたにとってもあなたの周りにいる人々にとっても幸いなことだと思います。

 

ー終わりー

 

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