巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

清い魂

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出典

 

スワン・サンナ兄の証ビデオを観ました。スワンは、インド北西部(ミャンマーとの国境沿い)の山岳地方に生まれます。(マニプール地方に住むゾミ族)。バプテスト教会牧師であった父親が米国カンザス州にある神学校で学ぶことになったのを機に、スワンは生後まもなく家族と共に米国に移り、カンザス州で育ちます。

 

ティーンの頃、一時期不可知論者になりますが、16歳の時、英国の哲学者・美学者であるロジャー・スクルートン卿(1944-2020)と文通を始め、この頃、リベラル左派から(政治的・倫理的・宗教的)保守主義に転換します。スクルートンの2009年ドキュメンタリー「なぜ美しさが重要であるのか(Why Beauty Matters?)」は当時高校生であったスワン青年の心を強く揺さぶり、そこから彼は美の本質、美の源泉を追究し始めます。またこの時期、学校の授業で三島由紀夫の『潮騒』を読み、同じアジア人男性としての三島の美学、男性観、死生観などに格別の関心を抱きます。(そしてMishima in Loveという小作品を書きました。)

 

大学入学後、中世政治思想史のクラスでチャールズ・テイラーの『世俗の時代』を読み、プロテスタントである自分の宗教的バックグランドが揺るがされる経験をします。またこの時期、トマス・アクィナスの著述を読み始め、彼の神学や哲学が現代世界においても適用可能であることを知ります。

 

その後スワンは教皇制に関する研究を始め、カトリック教会が主がお建てになった教会であると確信するに至り、バプテストである家族との涙の確執があったものの、2020年、カトリックに改宗しました。

 

初めて御聖体を拝領した時、口の中でホスチアが裂ける音がしました。その時、スワンはそれが十字架につけられしイエス・キリストの肉が自分の罪のために裂かれる音であったことを知ります。彼の中で自分の人生すべてをキリストに捧げたいという献身の思いが燃え上がりました。

 

「主よ、私は肉においても霊においても父親になりたいのです。どうすればいいでしょうか。結婚を望むべきでしょうか、それとも独身者として献身すべきでしょうか。」御聖体を拝領したスワンはその時、「キリスト様とこのような形で一つに結ばれるのなら私はもう他に何もいらない。結婚でさえも必要でない。私はやはり献身したい」と心が定まりました。

 

現在21歳の彼はドミニコ会入会を希望しており、御心なら大学卒業後、当会に入会し、献身者という形で教会に仕えていきたいという願いを持っているそうです。

 

彼の証を聞いていて、トマス・ア・ケンピスの次の一句が思い出されました。「二つの翼によって人はこの世のものからあげられる。すなわち、純真と純潔である。純真はわれわれの意図のうちに、純潔はわれわれの愛情のうちになくてはならぬ。純真は神に向かい、純潔は神を捉えて味わう。」

 

また三谷隆正の次の言葉も思い出されました。「人生に於いて一番貴い事は、正直である事、誠実真摯、真理を追うて倦まないこと、自己一個に屈託しない事である。道の為めの勇猛心、それにも勝って立派な力強い堂々たる偉観があらうか。『もはや我活けるに非ず。キリスト我に在りて活けるなり。』さう謂うことのできたパウロの総身にはどんなにか力が溢れ勇気が漲った事であらう。自己に死なんとの野心の胸中に高鳴りするを覚える時、なんだか飛び出して天下に絶叫したいやうな勇奮を余も感じる。余の野心は是以外にない、あらしめたくない。己を完き献物として神の聖壇に上すこと、真理の為めに一切の私を投じ尽くして了ふ事、余は是以上の偉業を考へ得ない。余は是以上の野心を持ち得ない。又持ち得たくない。」

 

私はスワンのように教皇制・教会史・神学・聖書釈義を究めているわけではありません。聖書的予型論を基盤にした彼の教皇制弁証および釈義には素人目にも一貫性と深さ、そして凄みがあります。私は私なりの最善を尽くした結果として正教会にいますが、そしてこの御采配に深く感謝していますが、今後も学んでいかなければならないこと、修正しなければならないこと、成長してゆかなければならない点はそれこそ無限にあります。

 

自分もスワンの模範に倣い、置かれた場所で、知性を尽くし思いを尽くし心を尽くして主なる神を愛し、開かれた心と思いをもって真理探究の旅を続けていきたいです。

 

ー終わりー