Fr. Seraphim Rose, Father Sraphim Rose: His Life and Works(引用翻訳)
人はなぜ、快楽や幸福ではなく、むしろ痛みや苦しみを通し、事を学ぶのだろう。
それは、快楽や幸福がこの世に与えられたもので満足するよう人を慣らすのに対し、痛みや苦しみは、――この世の限界を超えた――より深い種類の幸福を求めるよう人を駆り立てるからだ。
私は今、苦しみの中にある。
そして、イエスの御名を呼び求めているーー。
必ずしも痛みを和らげるためではなく、このイエスが、苦しみの最中にあって私とともにおられ、御心が私のうちに成されるようにと願うゆえに。実に我々をしてこの世を超越せしめることを可能にするのはこの御方の内にある時である。
しかるに、快楽の中にあって私は主を呼び求めることはない。
その際、私は今あるもので満足し、これ以上なにも必要ないと思うだろう。快楽の哲学はなぜ成り立たないのだろうか。それは、快楽が無常かつ信頼できないものであるのに対し、一方の苦痛は避けられないものだから。
キリストは痛み苦しみの中で我々に語りかけ、それゆえ神は慈悲の内にそれらを与えたもう。そう、そして悪も。
――というのも、もしも我々の魂が渇望しているものが真に存在するのなら、我々はこれらのすべてに、その先にあるはずのものを遠望するからである。