巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

祭司職と男性性(masculinity)(by ステファン・デ・ヤング神父)

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Fr. Stephen De Young, Priesthood and Masculinity, The Whole Counsel, 2018(拙訳)

 

 

聖書における祭司職(priesthood)のテーマは、最初期の段階から始まっています。 創世記の最初の11章は、周囲の国々の文献や伝統を大いに参考にしていますが、そこに見られる異教的なテーマは常に変更され、場合によっては反転しています。

 

例えば、洪水物語は、創世記が書かれる前に古代中近東に様々な形で存在していました。そのため、創世記はこれらの記述を修正し、中近東の様々な神々に対し、聖書の真の神を弁明する役割を果たしています。これは、アダムの創造の物語そのものにも言えることです。古代中近東の異教文化圏では、神殿を建てることによって、天から神々を呼び寄せ、彼ら神々と会い、自らが望むように影響を与えることができると信じられていました。これらの神殿は、神々が宿ると信じられていた場所に応じて、山や園など、大きく2つのパターンに分かれていました。この時代の異教徒の神殿は、人工的な山(ジッグラト;Zigguratや人工的な園の形をしていました。 これらの神殿の中心となるのは、神の像であり、主に彫像でした。

 

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ウルのジッグラト復元図。三層構造で基壇上に月神ナンナルの至聖所がありました。基幹構造は日乾煉瓦、外壁は瀝青で仕上げられていました。(参照

 

創世記2章のアダム創造の物語は、こういった異教物語を完全に反転させたものです。 人間が神に会い、神を支配するために神殿を建てるのではなく、神ご自身が人間を創造し、人間と共にに住むための場所として園を作ります。人間が神のかたちを造るのではなく、神がご自身のかたちに従い人間を造り、園の中に住まわせるのです。(通常の翻訳では「園を耕す」とされています。)

 

なお、創世記11章のバベルの塔の話も、この理解に関連しています。 塔の高さが問題なのではなく、人類がジグラットを建設して、自分たちのやり方で神と会い、神を利用しようとしていることが問題なのであり、神はそういった行為を許しません。

 

しかし、アダムの仕事である耕作は、農業とは関係ありませんでした。エデンでの男と女の食べ物は、木の実であって、土地の産物ではありません。土地を耕して食物を生産し、生活しなければならないというのは、罪に陥った結果として描かれています(創世記3:17-19)。むしろ、こういった園での活動は、――エデンの園が実際に神ご自身によって作られた神殿であることから――、祭司職でした。*1

 

園での祭司としてのアダムの役割の一つは、その場所の神聖さを守ることでしたが、アダムは失敗してしまったのです。追放に至らしめたのは女の罪ではなく、アダムの罪でした。というのもアダムの方にこそ祭司の任務が与えられていたからです。

 

中近東では、ケルビムは神殿を守る役割を果たしていました。それゆえ人が罪に陥った後、アダムに代わってケルビムが楽園を守る役割を担うことになり、それと同時にケルビムはもはや神に近づくことができなくなった堕落した男女からも楽園を守らなければならなくなったのです。

 

旧約聖書の残りの部分においては、神の礼拝が見られる時(イザヤ6章参照)、神との出会いが起こる時(律法の授与の時さえも、ガラ3:19、使徒7:53、ヘブ2:2参照)、それらはいずれも天使の仲介によって行われました。 正教会の典礼におけるアナフォラの祈りは、キリストの贖いの死によって、この直接的な働きが人間に回復されたという事実を黙想するものです。 この事実は、キリストの死に関する福音書の記述の中において、最も神聖な場所を守るケルビムの刺繍が施された幕が二つに裂かれる場面で描かれています(マタイ27:51、ルカ23:45)

 

律法が与えられるまでは、神に関係する「祭司」という別の階級は存在しませんでした。むしろ、最初の人間であるアダムに祭司職が与えられたように、父たちが祭司の役割を果たしていたのです。ノアは家族のためにいけにえを捧げました。アブラハム、イサク、ヤコブも同様です。ヨブは自分と自分の子供のために罪のための捧げ物をします。 モーセの義父エテロは家族のために祭司の役割を果たしています。父性、そして父性を通じた一般的な権威は、祭司職から成り立っていると考えられます。両者は同義語です。メルキゼデクは王として、その権威の下にあるすべての人に対して祭司として仕えています。 族長たちのいけにえは、血縁者だけでなく、使用人や雇用労働者など、彼らが権威を行使するすべての人のためのものでした。 男であるとは、霊的にも字義的にも父であることを意味しました。そして神の前で祭司として仕え、自分の権威の下にある人々のために神にとりなし、神のために彼らに語り、彼らを養育し、神に対し和解させることだったのです。

 

アロンの祭司制という祭職が出現したとき、それはモーセに対する罰として出現しました。 燃える柴からの、モーセの預言者としての召命は、出エジプト記の3章や4章の大半等を含め、聖書の後半に記述されている預言者たちの召命よりもかなり長いものです。

 

というのも、モーセは、主なる神と議論することにかなりの時間を費やし、エジプトに戻って主の命令通りに行動することを望んでもいなかったからです。――彼は、自分の話術のなさ、民やパロに何を言えばいいのかわからないこと、民が自分を信じてくれなかったらどうすればいいのかわからないことなどを何度も神に訴えていました。この議論のクライマックスで、神のモーセに対する怒りが燃え上がり、その時になって初めて神は、モーセのそばにアロンを遣わし、モーセの代わりに話をさせようと仰せられました(出エジプト記4:14)。

 

その結果、モーセの権限の一部はアロンに移譲されることになりました。その後モーセは、アロンを連れずにミディアンを出てエジプトに戻ろうとします。その途中で主が出会い、モーセを殺そうとされたことが語られています。しかし、モーセの妻であるチッポラが自らの手で二人の息子に割礼を施すことで解決がもたらされます(出エジプト4:24-26)。  

 

ここでのモーセの失敗は、自分の家族に対する父としてのそして祭司としての失敗です。この二つは切っても切り離せないものであり、それゆえ彼の祭司職はモーセから取り上げられ、アロンに与えられたのです。  このように、父としての失敗が同時に祭司としての失敗でもあるというテーマは、旧約聖書全体を通じて流れており(1サム2:12-36。エリの息子たちの例等)、新契約における司祭の家族について聖パウロが述べていることの根拠となっています(1テモ3:4-5、テト1:6)

 

新約聖書で最も引用されている旧約聖書の聖句は、詩篇110篇です。この詩篇は、メシアとしての王が敵のただ中にあって統治すべく即位する様を描いています(1-2節)。 しかし、この王は、メルキゼデクのように、祭司でもあります(4節)。ヘブライ人への手紙の多くは、この詩篇の黙想であり、イエス・キリストというペルソナにおいて、王権と祭司職に和解がもたらされたことが明らかにされています(ヘブライ2:17、4:14-16)。キリストの回復された完全な祭司職によって、アロンの祭司職は廃止されました(ヘブ7:11-28)

 

したがって、新契約における祭司職は、――祭司職が他の人類から奪われたことに基づく祭司職ではありません。司教職と長老職は、教会の中で父的権威を行使し、それゆえにキリストの祭司職を行使しています。なぜなら、祭司職と父性が再び一つに統合されたからです。  それゆえに教会自身、「王である祭司(royal priesthood)」(1ペト2:9)と描写され得るのです。

 

男性であることの意味は、霊的にも文字通りにも父であることです。 そして父親であることの意味は、祭司であることです。 男性性(masculinity)は祭司職です。 男性であるということは、神聖なものを守り、それを清らかに保つことです。そして自分自身のために、そして自分の権威の下にある人々のために、神の前で執り成し、教え、説き、正し、神のために彼らを和解させることなのです。  

 

このような理由から、聖パウロは、教会という共同体の中で父としての役割、つまり祭司としての役割を果たすために、どのような男性が聖別されるべきかをいとも容易に描写することができたのでした(1テモ3:1-2、テト1:5-6)

 

「女性の司祭」という発想は、聖書的に言えば、「結婚している独身者」という表現と同様、ありえない発想です。 それは不可能です。 すべての男性は、家族、職場、地域社会、そして教会共同体の中で祭司として仕えるようにキリストから召されています。

 

そして彼は、罪への堕落(創世記3:16)の結果である支配性、攻撃性、競争性など――、現代文化の中で一般的に男性性と関連付けられているこういった悪しき特徴から離れるよう召されています。 ゆえに、チッポラの場合のように、女性が〔本来男性が果たすべき〕このような役割を自分が果たさなければならないと感じる時、それは一般的に言って、男性たちが最も重要なこの使命を果たすことに失敗しているからなのです。

 

ー終わりー

 

ステファン・デ・ヤング神父

ウェストミンスター神学校(神学修士号)、アムリッジ大学(聖書学、博士号)。現、ルイジアナ州にある大天使ガブリエル正教会神父。

 

*1:訳注:エデンの園における祭司としてのアダムに関し、ウェストミンスター神学校G・K・ビール教授が聖書神学の視座から興味深い論文を書いておられます。

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