巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

キリスト者の一致について(by C・S・ルイス)

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C・S・ルイス(1898-1963)

 

「それぞれの宗派伝統の中心部にいる人々――自分たちの特定コミュニオンにもっとも熱烈なる忠誠心を示している人々――は案外、互いに最も共通点が多いのだ。問題は、猛烈にアンチ・エキュメニカルなそういった人々がそのことに気づくのが至極困難なことにある。というのも彼らはあなたがたにアナテマ宣言を出し、‟お前たちがいかに間違っており、いかに劣悪であるか”ということを言い立てるのに忙しすぎるから。それで気づく暇がない。しかしながら、ほんの一瞬でもいい、あなたが、あなたに対する彼らのわめきを止めさせることができた暁には――、彼らは文化戦争における最大にして最良の同盟者たちをそこに見出すことができるに違いない。」*1

 

 

「シスマ(教会分裂)の原因がことごとく罪にあるのかどうか私には確信がない。勿論、罪なしのシスマというのは存在しないだろうが、しかし一つの命題が必然的にもう一つの命題につながるのかといったら、そうとは言い切れない。・・君らのトマス・モアとわれらのウィリアム・ティンダルについて私はどう考えればいいのだろう。君らのトマス・モアの全集と、それからわれらのウィリアム・ティンダルの全集を最近、私は読了した。両方共、実に聖なる人物であり、心の限りを尽くし神を愛してきた人たちのように私には思われた。まったく自分には両者のくつのひもを解く値うちもない。しかしそうであって尚、彼らは互いに意見を違わせている。そして(自分を悩ませ仰天させるのは)両者の不同意が彼らの悪徳や無知から生じているのではなく、むしろ彼らの美徳および信仰の深さから生じてきているように思えてならないことにある。つまりどういうことかというと、彼らが各々最善の状態であればあるほど、より一層彼らの間で意見が相違してしまうということなのだ。彼らの不一致に関する神の裁きは、あなたの思う以上に、より深遠に隠されたものであるように私には思われる。というのも神の裁きは実に深淵だからである。」*2

 

 

「明日、みこころなら私はアイルランドに渡ります。――わが生誕の地であり、景観の美やおだやかな天候という点ではもっとも麗しき避け所です。しかし、対立する信仰者同士の衝突、憎悪、内戦ゆえに、アイルランドはまたもっとも凄惨な地です。これなどは本当に、あなたがたの陣営とわれらの陣営が共に『どんな霊に導かれているのか知らない』ゆえに他ならないと思います。彼らは慈愛の欠如を真理への情熱と取り違え、相互に対する無知を正統性と取り間違っているのです。・・さあ、力の限りを尽くし、『多くの罪をおおう』慈愛の賜物が与えられるよう心を合わせ共に祈っていこうではありませんか。」*3

 

「『彼らがみな一つとなるため』という御言葉は自分の祈りの中で決して欠かしたことのない嘆願の祈りです。望まれている教義および秩序における一致が欠如している今この時だからこそ尚さら、愛のきずなが保たれるよう熱心に祈っていこうではありませんか。」*4

 

「自分がクリスチャンであると告白している全ての人は、現在引き裂かれ、バラバラになっている教会の再一致のために祈りを捧げる義務を要している。」*5

 

 

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C・S・ルイスの使っていた机と椅子(出典

 

 

「一キリスト者として私は、自分たちの間に存在する諸分裂が聖霊を悲しませ、キリストの御業が妨げられていることを深く認識している。論理学者として私は、二つの教会が相反する立場を主張する時、両者の間に和解はあり得ないことを認識している。

 私は長い間、未信者として生きてきたので、おそらく教会の中でずっと育ってきた人たちが見ていない視点を自分は持っているかもしれない。自分がキリスト教を恐れ嫌悪していた当時でさえ、私はキリスト教の持つ本質的一致(その分裂にも拘らず決して失われていないところの本質的一致)に感銘を受けていた。ダンテやバンヤン、トマス・アクィナス、ウィリアム・ローたちの著述から漂ってくる疑いようもなく同じ芳香を嗅ぎ分け、私は恐れおののいていたのだ。

 回心以来、外の世界に向かい、全てのクリスチャンが信じていることを伝えるのが自分に与えられし特別な責務となった感があった。論争は他の人たちに一任する。それは神学者たちの仕事だ。他方、あなたや私といった一般信者・信仰における一兵卒たちは、そういった諸議論に参加することよりはむしろ、祈りによって、そしてキリスト者生活においてすでに共有されている全てのものを他の人々と分かち合うことを通し、より良く和解の働きに貢献できるのではないかと思う。

 慈愛と意図における一致が私たちの間で強ければ、おそらく私たちの間に存在する教義的諸相違はより迅速に解決をみるだろう。そういった霊的一致なしには、宗教指導者たちの間の教義的同意は不毛な結果に終わるだけだろう。

 そうこうするうちに、自教会の中で最も忠実にキリスト者生活を送っている人は、他の諸教会の忠実な信者たちと霊的にもっとも親しく近い人だということが明らかにされていくことだろう。なぜなら、霊的世界の地理は、物理的世界のそれとは大きく異なっているからだ。後者の場合、それぞれの国は国境線において互いに接し合っている。それに対し、前者は、その中心部において互いに接し合っているから。それゆえ、霊的世界の地理においては、他のすべての国々と最も隔たったところにいるのは、それぞれの国の中にいる生ぬるく無関心な輩たち、ということになるのだ。」*6

 

 

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ルイスの家(出典

 

 

「読者の方々よ、ここで述べられている ‟精髄的 mere” キリスト教が、既存コミュニオンに存在する諸信条の〈代替品〉として提案されているわけではないということを理解していただきたい。――会衆主義やギリシア正教といった具体的諸宗派よりも‟精髄的”キリスト教の方が好ましい。よってこちらのバージョンを採用しよう、という具合に。

 ‟精髄的”キリスト教とは言ってみれば、ホールのような空間であり、そこにはいくつかの部屋につづく複数のドアがある。もし私が誰かをこのホールのところまで案内できたのだとしたら、本書の使命は達成されたわけである。しかし、暖炉の火や椅子や食事があるのは、ホールではなく、あくまでも各部屋の中である。

 ホールというのは待つための空間であり、そこから試しにさまざまなドアを開けてみることのできる空間ではあっても、住むための空間ではない。・・・そしてあなたが実際、自分の部屋に足を踏み入れた際、長い間待っただけのことはあった、その甲斐があったと思うことだろう。しかしあなたはそれを野営ではなく待機として捉えなければならない。

 光の照らしを求め、祈り続ける必要がある。そして勿論、ホールに待機している時でさえ、家全体に共通している掟を守る努力を始める必要があるだろう。そして何より、どのドアが真のドアなのかを問い続けなければならない。(どの部屋の絵や鏡板が一番自分の好みに合うかといった基準ではなく)。

 平易な言葉で言うなら、問いは『こういった種類の礼拝が自分の好みに合っているのだろうか』ではなく、『これらの諸教理は真理だろうか。ここに聖さはあるだろうか。わが良心はここに動いているだろうか。この戸をノックするのに躊躇している理由は、自分のプライドや単なる好み、ここにいる門番に対する個人的毛嫌いゆえなのかどうか』を巡るものでなければならない。

 自分自身の部屋に辿り着いた際、あなたは自分とは異なるドアを選択した人たちや、今もなおホールにいる人たちにやさしく接しなければならない。仮に彼らが間違っているのなら、それなら彼らは尚の事一層、あなたの祈りを必要としている。そして仮に彼らがあなたの敵であるなら、その際、あなたは彼らのために祈る責務がある。これは家全体に共通している掟の一つなのだ。」*7

 

ー終わりー

*1:引用元. 私訳

*2:Letters: C.S. Lewis / Don Giovanni Calabria [25 November 1947], 37, 39 私訳

*3:同上 [10 August 1953], 39 私訳

*4:同上71 私訳

*5:同上99 私訳

*6:Preface to the French edition of La Problem de la Souffrance, 1950 私訳

*7:Preface to Mere Christianity, New York: Macmillan, 1952, 11-12 私訳