巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

中世~近現代における正教徒のトマス・アクィナス受容/批判について(マークス・プレステッド教授へのインタビュー)

f:id:Kinuko:20211123233703j:plain

 

2015年にオックスフォード大学出版局から出版されたマークス・プレステッド著『Orthodox Readings of Aquinas(アクィナスに関する正教徒たちの読解)』の内容に関し、ロフトン師(東方典礼カトリック)が、ウィスコンシン州マーケット大学プレステッド教授(東方正教)にインタビューしています。以下のような問いです。

 

-アクィナスはギリシア教父やギリシア東方をどのようにみていたのか。

-アクィナスはラテンーギリシア教会大分裂をどのようにみていたのか。

-グレゴリオス・パラマスはアクィナスをどのようにみていたのか。

-中世ビザンツ知識人たちのアクィナス観(ディミトリオス・キドネス、ニカイアのテオファン、ニコラス・カバシラス等)はどうだったのか。

-エフェソスのマルコスはアクィナスをどのようにみていたのか。

-ゲナディオス・スコラリオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)のアクィナス観はどうであったか。*1

-アクィナスに対する現代期におけるギリシア側・ロシア側の反応はどうだったか。

-「ビザンティン・トマス主義者」とは何か?等

 

プロテスタント世界でもトマス・アクィナス観は一様ではありません。(例:トマスに否定的なフランシス・シェーファーとトマスに肯定的なR・C・スプロールの意見対立などはその代表例)。本インタビューを通し気づかされるのは、中世ビザンツ世界においてもアクィナスは賛成・反対それぞれ強い反応を引き起こしながら(批判的・部分的に)受容されてきたということです。

 

本書の書評でも指摘されているように、20世紀正教思想家の間で、「合理主義的ラテン西方」に反立するところの「神秘主義的東方」というダイコトミーが打ち出され、「西方」と「東方」のキリスト教がいかに違い、いかに「東方」の方が優れているのかという論調が流行しました。が、そういった二分法ポレミックスは比較的新しい現象であり、その源は、19世紀のスラボフィル(スラブ派)*2の打ち出した「西方 vs 東方」ダイコトミーにあり、パリに亡命したロシア正教神学者たちを通しその他の正教世界に広まっていったとプレステッド教授は解説しています。

 

このインタビューの中で興味深かった点は、

①「ヘシュカスト論争は、パラマスに代表される正教と、アクィナスに代表されるスコラ的西方間の論争であった。」「パラマスは反トマス、それに対する論敵カラブリアのバルラームはトマス主義であった」というネット正教ポレミックスの通説は史実に反しており、間違い。(実際には論敵バルラームは反トマス主義であり、彼はトマスが‟合理主義的”であることを批判していました。)

②アクィナスの‟スコラ主義”を批判している人々でさえも、彼ら自身、自らの教説を提示するのにスコラ主義から採用したメソッドを用いている。(エフェソスの聖マルコスは三位一体論弁証のために三段論法を駆使しており、聖パラマスも、アリストテレスの三段論法を否定してはならないと説いている等。)さらに、実際には、スコラ的メソッドは本来東方キリスト教世界の遺産であり、後に、ダマスコの聖イオアンネスを介し西方で受容されるようになったという内容が述べられています。

③そうは言っても尚、フィリオクェおよび教皇制を巡る西方と東方の理解の違いは厳として存在し、この問題を軽く扱うことはできない。

「正教は~~という点でローマと違う」「正教は~~という点でプロテスタンティズムと違う」という「私は○○ではない」という否定型自己定義および、誤った熱情から生じている「西洋からの汚染」に関する言説は、正教の公同性および普遍性と矛盾している。こういった態度は強さというよりは、むしろ弱さの現れであり、私たち正教クリスチャンはこういった20世紀潮流を乗り越え、今後アクィナス神学に対しても公明正大な取り組み・批評をしていくべきであるとプレステッド教授は語っています。

 

ー終わりー

 

追記)

しかしながらブランソン教授(分析哲学者、ロシア正教)は、インタビュービデオの中で中世のビザンティン-トミズム現象を、フロロフスキーのいう正教の「バビロン補囚」故に起こったものとして否定的な評価をされている風でした。おそらくトミズムやスコラ学をめぐるプレステッド教授とブランソン教授の捉え方は異なっており、意見の相違があるように思われます。どちらの捉え方が正教の主流なのかは分かりません。

*1:関連論文上柿智生著〈論説〉「コンスタンティノープル陥落後の総主教ゲナディオス二世のヘレニズム」史林(2012)PDF

A Latin’s Lamentation over Gennadios Scholarios,” Eirenikon, 2008.

Fr. Christiaan Kappes, Rehabilitating a Patriarch, Byzantine Thomism, and Ecumenical Theology,Eclectic Orthodoxy, 2016

*2:スラボフィル(Славянофилы/Slavyanofilï, Slavophiles)19世紀ロシアの思想家集団。スラブ派と訳されます。彼らは1840年代から50年代にかけて、ザーパドニキ(西欧派)に対抗し、ロシアには西ヨーロッパ社会とは異なる独自の発達の道があると主張しました。彼らの大部分は地主貴族の出身で官職につくこともなく、最初はエラーギン家、スベルビェーエフ家、パブロフ家などのサロンに集まって論議し、のちには雑誌『モスクワ人』に依拠してその論陣を張りました。また彼らはピョートル1世(大帝)の改革を否定し、ロシアには昔から農村共同体(ミール)があって、住民はそのなかで平和で自治的な生活を送ってきたと指摘し、西ヨーロッパのような階級闘争はロシアには存在しないと主張しました。また、西ヨーロッパにおいては、カトリックは人為的に統一を保とうとするあまり、内面的自発性を失い、一方プロテスタントは個人の自由を強調するあまり、個人主義へ逸脱してしまったと批判。信徒間の愛と和合を説く正教は、これらのものよりはるかに勝るもので、その教義もより純粋だと論じました。この派を代表する思想家としては、宗教面でのホミャコフ、哲学の分野でのイワン・キレエフスキー、社会評論や社会活動(農奴解放)で活躍したアクサーコフ兄弟やサマーリンらがいます。参照