巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

女性叙階が不可能である理由について(by テーラー・マーシャル & ティモシー・ゴードン)

Catholic “Women Priests”: Can There Be a Discussion? – Catholic World Report

 

Taylor Marshall & Timothy Gordon, Pope Francis on Women Deaconesses: Can Women be Ordained? Amazon Synod, May 13, 2019(抄訳)

 

テーラー・マーシャル:なぜ女性の叙階は不可能なのでしょうか。この問いに関し、これから私はトマス・アクィナスの議論を用いつつ、みなさんにご説明したいと思います。

 

司祭が祭壇で、「これはわたしのからだです(This is my body)」と言う時、実際のところ、その言明はチャック神父やボブ神父によってなされているのではなく、それはキリストのペルソナにおいて(=in Persona Christi)なされているのです。つまり彼はキリストのペルソナの中にあります。

 

ですから、ここで言明される「わたしの・・」という言葉は、(「わたしの本」「わたしの机」などといった)所有を意味する一般的文法用法ではなく、それがミサの中でサクラメント的に用いられる時、まさにイエス・キリストなのです。そしてからだは以下に挙げる二つの型の内、どちらかの様相で来ます。1)男性の型、もしくは、2)女性の型、そのいずれかです。それゆえ、実体変化というこの偉大なる神秘を執り行う司祭は、男性でなければならないのです。

 

それでは仮にその司祭が女性ならどういうことになるのでしょうか。みなさん、思い出してください。キリストは花婿であり、教会は花嫁です。それは婚姻の関係であり、小羊の婚宴です。ですから、典礼の中で、花嫁は花婿と結ばれます。しかるに、ここで司祭が女性であった場合、彼女が「これはわたしのからだです」と言いーー女性のからだでもって、それを女性形の教会に捧げる時、そこで生じているのは、秘跡的レズビアン主義(sacramental lesbianism)です。ですから、司祭は男性でなければならないのです。

 

しかしある人々は言います。「いや、当時は、家父長制だった。そして家父長制は女性たちを祭司職からことごとく排除していたのだ*1」と。しかしそれは全く違います。試しに当時の異教諸宗教を調べてみてください。異教諸宗教は女性司祭を認めていました。異教ローマ人たちも女性司祭を認めていました。主イエス・キリストや使徒パウロ、使徒ペテロが地上を歩いていた時、彼らは異教宗教の女性司祭たちを目の当たりにしていました。実際、女性司祭というのは当時の異教文化の一部だったのです。(神託を授けていたデルフィーの女性司祭等。)

 

デルフィーの女性司祭ピュティア(出典

 

そんな中にあって旧約のユダヤ教およびその後カトリシズムだけがそれらの宗教慣習に対し、「No!」と言い、「司祭は神を表象しており、神は超越している。神はmasculineであり、それに対し被造物はfeminine、母なる自然である。それゆえ司祭(priesthood)は常に男性である。」と論じました。

 

この主張は古代にあって比類のないものでした。ですから、カトリシズムは当時の文化に自らを一致させていたのではなく、それどころか「男性のみ」の聖職制というのは当時にあって、まさしく対抗文化的(counter-cultural)なものでした。

 

ティモシー・ゴードン:叙階の問題を考える時、覚えておかねなければならないのが、「キリスト論」と「教会論」の間には常に相関性があるということです。キリストは花婿であり、教会はキリストの花嫁です。(エペソ5章)。

 

テーラー・マーシャル:この関係は、類比的(analogical)に捉えることができるでしょう。(⇒1215年の第四ラテラノ公会議。*2.)つまり、類比的に言って、キリストは、ーー私、テーラーが自分の妻に対して花婿である以上にーー花婿であるということです。言い換えますと、キリストの「花婿性」は、私やゴードンの「花婿性」に先行している、ということです。

 

ティモシー・ゴードン:司祭は、キリストの ‟名” において言明しているのではなく、キリストのペルソナにおいて行為しています。ですからこれは唯名論ではなく、存在論的代理人(ontological placeholder)です。そして、キリストのペルソナにおいて男性性は非常に重要です。イエス・キリストは三位一体の第二格ですが、それと同時に人間としての全き男性性をも有しておられました。

 

またある男性が結婚という召命に従って生きる時、類比的に言って、彼は教会の縮小図としての家庭の‟司祭”としての役割を果たしていることになります。また世帯(household)のかしらとしての男性は、世帯主(householder)であり、彼は、類比的に言って、司祭が教会の群れを牧しているように、妻と子供たちという群れを牧しています。そこにはかしら性(headship)があります。フェミニズムはそれらを否定しようとしますが、対等主義(egalitatianism)は邪悪であり、その誤は、「キリスト論」と「教会論」の相互関係性から証明されます。

 

ー終わりー

 

*1:訳注:

*2:訳注: