巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「マリヤを褒め、マルタをたしなめた時(ルカ10:38-42)、イエスは当時の家父長制文化が女性たちに課していた社会通念を覆し、ひっくり返されたのです」という主張はどうでしょうか。

                                     f:id:Kinuko:20170104165520p:plain

 

 女性の行動範囲は、主に家庭であり、彼女は「不貞から守られるべきでした。その結果、女性は会話において啓発するようなものは殆ど持っておらず、公の生活における誘惑に立ち向かう備えが殆どできていない人間であるかのように扱われました。」

  しかし、イエスのマリヤとの関わり方は、当時一般に見られた態度と真っ向から対立しました。当時の伝統は女性が律法を学ぶことを許さず、仕えることが彼女たちに期待されていました。

 「誰かの足元に座る」という表現は学徒の姿勢です。マルタは明らかにマリヤを必要としていたのに、マリヤがマルタの給仕の手伝いをしないでイエスの足元に座ったとき、イエスは優先順位を逆転させました

 「『家事における女性の立場』『教育における女性の立場』のどちらかを選ぶとき・・・イエスは女性の『主婦の立場』を第一のものではないと結論づけました。イエスは申命記 31:12の『民を、男も、女も、子どもも・・・主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行なうためである』という最初の教えに立ち返られました。ルカ 11:27~28」

Aida Spencer, Beyond the Curse (1985), 60-61 

 この個所の目的は、イエスの母が幸いであるということを否定することではなく、幸いであることの理由を母であることから信仰者であることに変えることにありました

 

世界福音同盟女性委員会出版 「性差によるのか、賜物によるのか(Gender or Giftedness by Lynn Smith)」p 28 (傍線、強調点はブログ管理人によります。)

 

      f:id:Kinuko:20170111011223p:plain

      マリヤとマルタ

 

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 5

 

アイダ・スペンサーはマリヤとマルタについて次のように言っています。

 

f:id:Kinuko:20161221213117p:plain

 イエスは、当時のユダヤ人の生活における優先順位や、そういった優先順位ゆえに生じる諸結果を完全にひっくり返されました。イエスは、女性たちがトーラーを学ぶことから免除されてはいないと考えておられたばかりでなく、彼女たちが神の律法を学ぶことこそ一番大切なことだと考えておられました、、

 マルタとマリヤの例に代表されているように、「家事における女性の立場」と「教育における女性の立場」のどちらかを選ぶとき、、イエスは、女性の「主婦の立場」を第一のものではないと結論づけました

 明らかにイエスは、男性たちをラビ学校に送り出すよりも、女性たちをラビ学校に送り出す方が、より良い価値を得られると考えていたのです。

Spencer, Beyond the Curse (1985), 60-61.

 

(同様に、サラ・サムナーも次のように言っています。「イエスは、女学徒を受け入れた史上初のラビでした。」Men and Women in the Church [2003], 125)

 

回答1.

イエスは確かに、一部の社会通念を覆されました。しかし聖句は、イエスがすべての社会通念を覆されたとは言っていません。

 

イエスが女性たちに教え、神学的な問いに関し、彼女たちと公に対話をなさったことはすばらしいことだと思います(ヨハネ4章など)。しかし、それだから、イエスは男女の役割についての「すべての」ユダヤ教信条や慣習を覆されたのでしょうか?いいえ、そうではありません!そういう主張は、例えて言えば、次のようなものです。

 

.イエスは、「目には目を」(マタイ5:38-42)にみられるような、報復行為に関するユダヤ的社会通念を覆されました。

.それゆえ、イエスは、「以後、どんな犯罪者であっても、処罰してはならない」とお命じになりました。

 

こういった言い分は間違っています。なぜなら、これは特定の事項(=個人的報復行為をしてはいけない)を取り上げ、それを一般的原則(=犯罪者を一切処罰してはならない)にまで押し広げてしまっているからです。そして後者の原則について、イエスは何も教えておられませんでした。こういった言い分は、イエスの教えに何かを「付け加える」ことです。

 

それと同じように、女性たちに対する幾つかの不当なユダヤ教諸規制を覆すにあたっても、イエスは男性リーダーシップに関する「すべての」ユダヤ教思想ないしは「すべての」旧約思想を覆しひっくり返すようなことはなさいませんでした。

 

回答2.

この対等主義見解は、そこに存在しない思想を、聖句の中に無理に読み込ませようとするものです。

 

マリヤとマルタの実際の話は以下の通りです。

 

ルカ10:38-42

38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。

39  彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた

40  ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

41  主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。

42  しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 

イエスは、マリヤが主のみことばに聞き入っていたことを褒めました。が、スペンサーの主張する、いわゆる「ラビの学校」に行くことについては何もおっしゃっていません。

 

主はご自身の弟子たちをどこかの学校に送り出すことをされず(弟子たちは『無学な、普通の人』(使徒4:13)でした)、また、マリヤをどこかの学校に送り出すこともなさいませんでした。

 

ですから、イエスは、マリヤがご自身のことばに聞き入っていたことを確かに褒めたのですが、スペンサーは、独自の解釈により、これを「正式な神学教育」として間違って解釈しています。筆者注:私は正式な神学教育が悪いと言っているわけではありません。私自身、この23年、神学校で教えてきました。また男性と同じく女性も正式な神学教育を受けることに問題はないと考えています。しかしながら、それを推奨するのに、ここの聖書箇所(イエスがマリヤに教えられた箇所)から論じるというのはあまり説得力がないように思われ、また、スペンサーはここで間違いなく、聖句が正当化する範囲以上のこと(つまり、「女性にとって、専業主婦を目指すよりは、神学を学ぶ方が優っている」という広範囲な一般化)を主張しています。どちらがより良いかということは、各人に与えられた神の特別な召命によります。)

 

この聖書箇所では、「教育における女性の役割」が「主婦としての女性の役割」よりも重要であるなど、そのような事は全く言っていません。スペンサーとサムナーは、そこに存在しないなにかを無理に聖句の中に読み込もうとしています。

 

この種の議論に関連した他の間違いとして挙げられるのが、「イエスの足元に座るというのは、マリヤにとってある種の特別な地位を意味するのだ」といった主張です。ルース・タッカーと、ウォルター・リーフェルド(Walt Liefeld)は次のように言っています。

 

f:id:Kinuko:20170111012441p:plain

 

 イエスが当時のラビの慣習をはるかに超え、この女性(マリヤ)が弟子の立場に就くことをお許しになったという事は一般的に受諾されています。

 これは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」というルカの描写からも明らかに暗示されています。こういった体勢は、ラビ文学の中に描かれています、、、そしてパウロは自分が「ガマリエルの足元で」教えを受けたと言っています。

Tucker and Liefeld, Daughters of the Church (1987), 26.

 

そしてタッカーとリーフェルドは、人々がラビたちの足もとに座り学んでいる例を、ミシュナーのアボット(賢者の道徳的格言集)1.4から引用しています。

 

訳者注:その箇所を日本語訳します。以下、ミシュナーのנזיקין (ネズィキーン, Nezikin)9.アボット(4b)

4b Yosi ben Yoezer of Tzeredah said: Let your house be a meetinghouse for the sages and sit amid the dust of their feet and drink in their words with thirst.

4b ツェレダのヨスィ・ベン・ヨーゼルは言った。「あなたの家を賢者たちのための集会場にし、彼らの足のちりの間に座り、渇きをもって彼らの言葉に聞き入るように。」)

 

しかし、ユダヤ社会の誰もがラビたちから学んでいたわけですから、この引用句の一体何がマリヤに関するなにか特別なことを証拠立てているのか不明瞭です。ここでの誤りは、初歩的な論理の誤謬です。一般的な例を一つ挙げてみましょう。

 

1.すべてのロックフェラーはお金持ちである。

2.あの男はお金持ちだ。

3.よって、彼はロックフェラーである。

 

結論が間違っています。なぜなら、その男とはビル・ゲイツとかそういう他のお金持ちであるかもしれないからです。それと同じように、上記の著作家たちは次のような議論を展開しています。

 

1.ラビの生徒たちが、ラビの足元に座っていた。

2.マリヤはイエスの足元に座っていた。

3.よって、マリヤは、「ラビの学校」に在籍するイエスの学徒である。

 

しかしながら、人が普通に、教えてくれる人の足元に座っていることを取り上げた上で、対等主義の人々は――そこの聖句が立証する範囲を超え――上記のような主張を繰り広げているのです。

 

ここの聖句はシンプルに、「マリヤがイエスの足元に座り、イエスから学んでいた」ということを言っています。