巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「旧約聖書にみられる女性への抑圧や虐待は、男性かしら性(male headship / "家父長制")によって引き起こされたものであり、よって、男性のかしら性が『誤り』であることを示しています」という見解についてご一緒に考えてみましょう。【後篇】

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     家族に聖書を読み聞かせる父親

 

 Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 4

前篇からのつづきです。)

回答2.

このアプローチは、偏ったフィルターを課し、それは旧約聖書に対する誤った解釈へと人々を導く結果をもたらします。

 

対等主義的聖句フィルタリングを表にすると以下のようになります。

 

例1

①もしも聖句が、、

―卓越した女性たちの肯定的事例(例:ミリアム、デボラ、フルダ)を提示しているのなら、

②その時、対等主義は、、

神は徐々に家父長体制を克服しておられる。なぜなら、神は男女間における対等な役割を打ち建てようとしておられるから、と解釈します。

③どうしてそれが正しいと分かる?

―なぜなら、男性リーダーシップというのは間違っているから。(聖句をフィルタリングするために用いられる前提。)

 

例2.

①もしも聖句が、、

―女性抑圧の否定的事例(たとえば、強姦、一夫多妻制、姦淫、恣意的離婚)を提示しているのなら、

②その時、対等主義は、、

神は家父長制の悪をお示しになっている。なぜなら、神は男女間における対等な役割を打ち建てようとしておられるから、と解釈します。

③どうしてそれが正しいと分かる?

なぜなら、男性リーダーシップというのは間違っているから。(聖句をフィルタリングするために用いられる前提。)

 

しかし、より良いアプローチというのは、聖書の聖句が実際に言っていることにあくまで固持することです。次の表を見てください。

 

例1.

①もしも聖句が、、

―卓越した女性リーダーたちの肯定的事例(例:ミリアム、デボラ、フルダ)を提示しているのなら、

②その時、より良い解釈は、、

―神は、男性リーダーシップの文脈の中にあって、女性たちの尊いミニストリ―を是認しておられる、と解釈します。

③どうしてそれが正しいと分かる?

聖書は男性リーダーシップが悪だと決して言っておらず、むしろそれを是認している。(参:1ペテロ3:5-6、また男性だけが祭司・王になるべきだという普遍的パターン)

 

例2.

①もしも聖句が、、

―女性抑圧の否定的事例(たとえば、強姦、一夫多妻制、姦淫、恣意的離婚)を提示しているのなら、

②その時、より良い解釈は、、

―神は、男性リーダーシップの乱用・悪用がもたらす悪を示しておられる。私たちは、聖書が実際に言っていることを固持すべきと捉えます。

③どうしてそれが正しいと分かる?

聖書は強姦や姦淫を断罪している(申22:25-27、出20:17)が、男性リーダーシップ自体はけっして断罪していない。

 

これに関連する具体例として挙げられるのはダビデ王がバテシェバと姦淫し、自分の権力を乱用したことです(2サム11)。神は預言者ナタンを通してダビデを叱責され(2サム12:1-15)、その後、ダビデの家には災難が訪れました(2サム12:15-18:33)。

 

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            ダビデ王と預言者ナタン

 

しかしそうだからといって神は、「だから、男は王になってはいけないのだ」とか「これこそ男性リーダーシップの悪を表すものである」などとは言われませんでした。事実、ダビデはその後も王として在位し続け、ダビデの(娘ではなく)息子が王になるという約束を保ち続けてくださったのです(2サム7:12-16、1列1:39)。

 

回答3.

旧約聖書の中で一夫多妻制は容認されてはいたものの、神によって命じられてはいませんでした。

 

一夫多妻制が、創造のはじめに神によって立てられた一夫一婦制という神のご意図(創2:24)から離反したものであるという事に関し、私はビレジキアン、タッカー、その他の方々に同意しています。これは旧約聖書の中で神によって命じられたものではありませんが、明確に禁じられていたものでもありませんでした。新約聖書では、教会の長老や執事たちは、一夫多妻者であることは許されておらず(1テモテ3:2,12、テトス1:6の「ひとりの妻の夫」参照)、よって、〔一夫多妻制という〕慣習は、神の理想に相反するものであると見なされていました。

 

しかしながら、「旧約の一夫多妻制は、結婚における男性かしら性の悪を示している」という彼らの主張には同意しません。新約聖書は、男性かしら性を、ひとりの夫とひとりの妻の関係性において示しています(エペソ5:22-33)。それゆえ、一夫多妻制というのは男性かしら性のもたらす必然的結果ということは全く言えません。それは男性かしら性の乱用であり罪の結果ではあっても、男性かしら性ゆえの結果ではなかったのです。

 

回答4.

ギルバート・ビレジキアン氏は姦淫に関する旧約の律法を「不公平だ」と悪口しています。

 

「旧約聖書の中の男性リーダーシップが悪である」という主張に熱心になる余り、ギルバート・ビレジキアンは、旧約聖書に関し、不真実な言明を幾つかしています。彼の目指すところは、男性リーダーシップというのが姦淫に関し――男性に有利に働くような――「ダブルスタンダード」をもたらすという論点であり、彼は次のように言っています。

 

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「男女間におけるこのような立場(status)の違い、、これは不可避的に、性的行動の領域における不公平さを作り出します。このような不公平さは実際ほんとうに、申命記22:13-30に要約されているごとく、姦淫についての旧契約の律法(old-covenant legislation)の中に反映されています。」Bilezikian, Beyond Sex Roles, p64

 

彼はここで、姦淫に関する旧約聖書の律法、特に申命記22章は「不公平("inequities")だ」と言っています。しかしこれは人間が作り出した掟ではありません。これらはが、民に教えなさいとモーセに命じられた律法です(申6:1参)。

 

しかしながら、ビレジキアンは、イスラエルの民に与えられた神の掟の中に「不公平さ」があると言っています。曰く、神の掟は不公平だと。しかし、人はこのような事を言いながら、それでも尚、「神は公平で、正義なる方であり、神のことばは真実である」と告白することができるのでしょうか。

 

ビレジキアンは申命記22章に関する言及を続け、次のように言っています。

 

既婚男性は妻に対する統治者の立場にありますから、妻の不貞は彼の所有権侵害となりました。それは死をもって罰せられるべき犯罪でした。それゆえに、姦淫を犯した妻は殺されたのです。(22節)

 

それに対し、既婚女性は、夫に対して統治者の立場にありませんでしたので、彼に対しなんら権利を持っていませんでした。それゆえ、夫の姦淫行為は彼女に対する犯罪にはなりませんでした。その結果、旧契約の律法は、不貞の夫に対し、なんら処罰を規定していなかったのです。彼の婚外交渉は、妻に対する違法行為とはみなされなかったのです。(同著 p64-65)

 

しかし彼が引用したその同じ節はこう言っています。「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい」(申22:22)。それなのに、一体どうしてビレジキアンは、「旧契約の律法は、不貞の夫に対し、なんら処罰を規定していなかった」などと言っているのでしょうか。彼の言明は真実でありません。

 

また十戒の中にも次のように書いてあります。

 

「あなたは姦淫してはならない。あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」(出20:14、17)

 

旧約聖書の律法は姦淫を禁じています。それは姦淫へと導く、「あなたの隣人の妻」に対するむさぼりでさえも禁じています。ここで聖書は「あなたの隣人の夫」とは言わず「あなたの隣人の」と言っています。それはすなわち、この掟が直接、男性たちに向け出されているということです。(但し、これには妻が隣人の夫をむさぼってはならないという適用のされ方もあるいは可能でしょう。)

 

ビレジキアンは続けて言います。

 

こういった一面的で不公平な姦淫の定義により、男性の買春行為が許容される余地が生み出され、これが旧契約の民の歴史の中で、永続的な苦悩をもたらしたのです、、こういった売春行為が明確に断罪されたり、禁じられている箇所はどこにもありません。Bilezikian, Beyond Sex Roles, 65.

 

しかし、それは本当でしょうか。以下の聖句をお読みになってみてください。

 

あなたの娘に遊女のわざをさせて、これを汚してはならない。これはみだらな事が国に行われ、悪事が地に満ちないためである。(レビ19:29)

 

イスラエルの女子は神殿娼婦となってはならない。またイスラエルの男子は神殿男娼となってはならない。(申23:17)

 

娼婦の得た価または男娼の価をあなたの神、主の家に携えて行って、どんな誓願にも用いてはならない。これはともにあなたの神、主の憎まれるものだからである。(申23:18)

 

見よ、遊女の装いをした陰険な女が彼に会う。

若い人は直ちに女に従った、あたかも牛が、ほふり場に行くように、雄じかが、すみやかに捕えられ、

ついに、矢がその内臓を突き刺すように、鳥がすみやかに網にかかるように、彼は自分が命を失うようになることを知らない。

あなたの心を彼女の道に傾けてはならない、またその道に迷ってはならない。(箴7:10、22-23、25)

 

わが子よ、あなたの心をわたしに与え、あなたの目をわたしの道に注げ。

遊女は深い穴のごとく、みだらな女は狭い井戸のようだ。

彼女は盗びとのように人をうかがい、かつ世の人のうちに、不信実な者を多くする。(箴言23:26-28)

 

こういった聖句は、「売春行為が明確に断罪されたり、禁じられている箇所はどこにもありません。」というビレジキアンの言明と矛盾しており、それが不真実であることを示しています。それに加え、売春は、性的純潔さを守る神の根本的な掟を犯す行為です。「あなたは姦淫してはならない」(出20:14)。ですからもちろん、売春行為は禁じられているのです。旧約聖書の中の男性リーダーシップが悪であるように描き出そうとした結果、ビレジキアンは聖書に関し、真実でない言明をしています。