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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「三位一体の中で、御父もまた御子に恭順(submit)しているのです。ですから、御子との関係において、御父に固有の権威があるわけではないのです」という主張はどうでしょうか。【三位一体論とフェミニズム】後篇

                       

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 人間の友に向けられる中傷に対し、われわれは憤りを覚えている。

しかるになぜ、我々の神が、これほどまでに卑劣きわまりない中傷をお受けになっている現状をみながら、われわれはここまで平気でいられるのだろう?

J・グレシャム・メイチェン

 

Wayne Grudem, Evangelical Feminism and Biblical Truth, chapter 10

 

回答2.

どの聖書箇所も、歴代のどのキリスト教著述家も、この三位一体「相互恭順」説を支持していません。これはひとえに、「結婚における相互恭順」という彼らの対等主義見解を正当化するべく作り出された対等主義の考案品(invention)です。

 

私の知る限り、キリスト教会史が始まって以来2000年余りに渡り、御父が御子に服従しているという三位一体「相互恭順説」を説いた正統著述家ないし教師は、未だかつて誰もいませんでした。また聖書のどこにも、御父が御子に従っているとか、御子が御父の上に権威を持っているということを示唆するような聖句は存在していません

 

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アタナシウス(298-373):初期キリスト教の教父。アレクサンドリアの司教。三位一体の教理のために人生を賭けた人。

 

もっとも、グレンツの指摘するルカ10:22のように、御父が相当の権威を御子に委託しておられることを示す箇所が数カ所存在することは確かにそうです。

 

ルカ10:22

すべての事は父からわたしに任せられています("handed over," 「渡されています」新改訳)。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません。(口語訳)

 

しかしこの聖句はむしろ、御父に対する御子の従順(恭順、従属、服従:subordination)をなお一層立証するものです。御子に対し権威を委任されたのは御父であり、それによって、人々が御子を通し御父を知るようになるためなのです。しかし、御子はこういった事を御父に渡す権威は持っておられず、御父がすべての事を御子に「渡され"handed over"」ました。(ここで言う「すべての事」とは、文脈から言っておそらく、メシアとしての主の役割と使命に関することだと推定されます。)

 

そしてこれはまた、ロイス・グルーエンラー(Royce Gruenler)の分析の根本的混乱でもあります。彼の主張に対し、ランディー・スティンソンは次のような洞察力に富んだ書評を書いています。

 

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 Randy L. Stinson(南部バプテスト神学校)

 

「御父は御子に服従している」というグルーエンラーの主張の一部は、彼のヨハネ5:22-23解釈に端を発しており、彼は、「御父がさばきを行なう責務を御子にお与えになっている。よって、ある意味、御父は御子の権威に従っておられる」と主張しています。

 しかし、これは委任された権威というものに対する正当な理解に立っていない見解です。委任する側は、自分の委任する人に自らを従属はさせません、、、

 グルーエンラーは、ヨハネの福音書における広義の文脈を誤解して受け取っています。福音書の中でのヨハネのより広義な意図は、御父への御子の依遵(dependence)と同時に、御父と御子の同等性(coequality)を示すことにありました。

Randy Stinson, "Does the Father Submit to the Son? A Critique of Royce Grudenler," in JBMW 6/2 (Fall 2001):16.

 

御子が御父に祈り、御父からになにかを求めておられることを指し示す他の諸聖句もあります(マタイ26:39、ヨハネ11:41-42、ヨハネ17:1-26)。昇天後でさえも、御子は私たちのために御父に祈っておられます(ローマ8:34、ヘブル7:25)。こういった言動は、御父が至高の権威を持っておられ、御子が御父に命令を下すのではなく、御父に要請するという関係に適合しています。

 

そしてスティンソンは、そういったヨハネの諸聖句に関するD・A・カーソンの次の応答文を引用しています。

 

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D.A. Carson

御父は命じ、送り出し、語り、委任され――御子にすべてを「見せること」によって、御子に対する御自身の愛を顕示しておられるため、〔それに応答し〕御子は御父が行なうことは何であれ、それをなさるのである。

 一方、御子は従い、御父がお示しになることだけを話し、御父がお命じになったことだけを行ない、遣わされた者としてこの世に来られた――そして、そのような従順により、御父に対するご自身の愛を顕示しておられるのである。

  お従いになる御子が、「御父に委任・任命した」という箇所はただの一か所も存在しない。そして、御父が御子に恭順した、ないしはご自身のことばや行ないに関し、これらを御子に依拠(dependent)していたと示唆するような箇所も皆無である

(同著p15, quoting D.A.Carson, The Difficult Doctrine of the Love of God (2000), 40.)

 

ヨハネの福音書の中の御父・御子の関係に関するグルーエンラーの主張はほとんど説得力を持っていません。

 

(グルーエンラーのこういったヨハネの福音書解釈は、次の事を認めたくないという彼の意思に強く影響されています。

――それはつまり、御父に対する御子の永遠の恭順が、(御父と御子間の)永遠の同等性と「矛盾なく両立し得る」という事です。そして彼は論稿の中ではっきりと、その事を認めたくない意思を表明しています(p.xiii-xviii)。

 対等主義の人々は言います。「人が平等ならば、その人たちが異なる役割を担っているということはあり得ない。そしてもし人が異なる役割を持っているならば、その人たちは平等ではあり得ない」と。そしてこれこそが、頻繁に出される対等主義見解の一形態なのです。)

 

このように1)聖書が一貫して、御父に対する御子の、永遠なる過去・現在、そして永遠なる未来における恭順を説いているにも拘らず、また、

2)御父が御子に恭順しているということを説いていた正統教師はこれまでキリスト教史上皆無であるという事実があるにも拘らず、さらに、

3)御父が御子の権威に恭順していたということを示す聖句も皆無であるにも拘らず、

 

結婚の中の「相互恭順」に対する対等主義の強烈なコミットメントはついに、彼らをして、(その主張をサポートすべく)「三位一体の神の中に『相互恭順』が存在する」という新しい教理をこしらえ発明せしめたのです。