新生した信仰者が懐疑や不可知論の沼に陥ることはあるのでしょうか。他の人の心や思考のかたちは目に見えないので客観的なことは何も言えませんが、私個人に関して言えば、そうだと告白せざるを得ません。この状態に陥ると魂は、必死の抵抗にも関わらず、うす暗い淵へ底へと足を引っ張られていきます。ダビデが「泥沼」(詩40:2)と表したあの場所にです。
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新生した信仰者が懐疑や不可知論の沼に陥ることはあるのでしょうか。他の人の心や思考のかたちは目に見えないので客観的なことは何も言えませんが、私個人に関して言えば、そうだと告白せざるを得ません。この状態に陥ると魂は、必死の抵抗にも関わらず、うす暗い淵へ底へと足を引っ張られていきます。ダビデが「泥沼」(詩40:2)と表したあの場所にです。
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R・B・カイパー著、山崎順治訳『聖書の教会観―キリストの栄光のからだ―』より抜粋
The Glorious Body of Christ: The Ideal of Visible Unity, by R. B. Kuiper (1886-1966)
目次
キリストの教会は、その内面的実在と同様に、理想的には外見的にも一つになるべきであるということは、否定できません。その意味で、初代教会に似るべきです。初代教会は、後の時代の教会の模範としての意義をもっています。
(訳者註:当時のローマ社会も、初代教会クリスチャンの偽りのない兄弟愛に注目し、「見よ。彼らはなんと互いに愛し合っていることか!」と感嘆の声を挙げていたとテルトゥリアヌスは記しています。Tertullian, Apology, chapter 39.
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礼拝は、「すべてのことにおいて、あなたが絶対的に第一の方であります」と神に正当な場所を与えるものです。また礼拝は、神に、その本質とみ業とのゆえに当然ささげまつるべき賛美とほまれと栄光をささげるものです。
「人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである」というのはまことに至言です。私たちクリスチャンは、三位一体の神と、創造・贖罪・新生に現されている主の聖なる属性とに想いをひそめる時、驚嘆と畏敬と敬慕と礼拝とにわれを忘れることでしょう。こうして信仰者は、これら一切を可能にしたもうたおかたにもろもろの栄光を帰すのです。
続きを読む執筆者:ケビン・デヤング(Kevin DeYoung)
私は改革派教会で育ったのですが、他の多くのクリスチャンと同様、聖書学校に入るまで、「規制原理(Regulative Principle, 以下RP)」という言葉を一度も聞いたことがありませんでした。それは私のアイデンティティーの根幹には無いものだったのです。しかし時を経るにつれ、私はますますRPの存在をありがたく思い、感謝するようになっていきました。
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礼拝の中における信仰の良心を守るべく、山中での集会を余儀なくされた英国の非国教徒たち。17世紀。(引用元)
Greg Price, Foundation for Reformation: The Regulative Principle of Worshipより抄訳
キリスト教会は、これまで何百年に渡り、礼拝に関する二つの根本的な問いを巡って議論し続けてきました。
最初の問いは、「いかにして神は礼拝をお受けになるのか?」です。つまり、神に礼拝を捧げるにあたり、何が適切にして主に受け入れられるあり方なのかという問いです。地上の諸王に関してでさえ、彼らに謁見する際には、なにがしかの「儀典・作法("protocol")」が守られなければなりません。
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