執筆者:ケビン・デヤング(Kevin DeYoung)
私は改革派教会で育ったのですが、他の多くのクリスチャンと同様、聖書学校に入るまで、「規制原理(Regulative Principle, 以下RP)」という言葉を一度も聞いたことがありませんでした。それは私のアイデンティティーの根幹には無いものだったのです。しかし時を経るにつれ、私はますますRPの存在をありがたく思い、感謝するようになっていきました。
簡単に言うと、RPは、「まことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみ心によって制限されている」(ウェストミンスター信仰基準第21章1項)ということを言っています。
言い換えると、公的礼拝というのは、私たちが聖書によって「これは妥当にして適切である」ということを指し示すことのできる諸要素によって構成されるべきですよ、という見方です。つまり、「さあ、神様が礼拝をお受けになりたい仕方で、この御方に礼拝を捧げましょう!」ということなのです。
しかし受け取り方を間違ったら、この原理は最悪の場合、信仰者の間に、たえまない摩擦と疑念を生じさせる結果に陥るでしょう。そしてクリスチャンたちは、例えば、「礼拝時に、献金のかごが正確にはどこに持っていかれるべきなのか」とか、「正確にはどんな種類の楽器が聖書的認証を得ているのか?」などといったことを見極めようとしてお互いを責め合うことになってしまいかねません。
私たちが「新約聖書というのは、神に喜ばれるただ一つのレビ記的な礼拝(liturgy)のレイアウトを提示しているのだ」と期待してしまうなら、その時、私たちは――聖書自身は回答する意図をもっていない――問いをむやみに問う行為をしていることになります。そして、そうなってしまうと、RPがそれ自体で一つの宗教になってしまう可能性さえあります。
しかし、RPの核心は、制限や制約にあるのではありません。その核心は、自由にあるのです。
1.文化的捕囚からの自由(Freedom from cultural captivity)
公同礼拝が、主として、自分たち自身の企画に委ねられる時、そこにすぐさま生じてくる現象は、「なんとしてでも最新の礼拝トレンドをフォローしておかねば!」という必死の努力です。こうして、教会の中で最も重要視される質や価値が、クリエイティビティー(創造性)、今日性、斬新性などになっていきます。
あるメガチャーチでのユースの集い(引用元)
しかし当然のことながら、流行というのは少し時が経つと廃(すた)れていきます。そのため、新世代の心を捕えるべく、私たちは是が非でも何か新しいことを始めなければならなくなります。あるいは、そこらへんに見切りをつけ、「団塊世代の教会」とか「X世代の教会」として、とりあえず落ち着き、それでまあ良しとするかという道をとる場合もあるでしょう。
2.好みや趣向をめぐっての絶え間ないいざこざからの自由(Freedom from constant battles over preferences)
RPの原理に対する尊重は、個々人の意見や趣向を完全に無視することにはつながりません。例えば、保守的な改革派のフレーム内においても、賛美を導く指導者たちの間で、音楽のスタイルや転調、音量、テンポ、その他多くの要素に関し、意見の不一致をみることがあり得ます。ですから、RPを尊重しても、やはり依然として、個々人の趣向をめぐっての不一致や衝突の可能性は残るでしょう。
ですが、この原理が尊重されることで、そういった不一致や対立が緩和されるというのは事実だと思います。何年も前のことですが、他の教会で、礼拝の形式を計画するセッションの席に居合わせたことがありました。
そこにおられた方々はさまざまな新しい発想をもち、それを披露していました。Cheersのテーマソングを開式で歌う方々、「労働者の日」に合わせ、作業服で登場され、どのような活動をされているのか紹介したりする方々等、皆それぞれ、自分たちにとって意義あると考えるものを提示していました。
RPは私たちが抱える問題すべてを解決する原理ではありませんが、それでもやはり、善意に満ちてはいるけれど的の外れた諸発想を捕まえる「ろ過器」的な役割を果たすと思います。
3.良心の自由(Freedom of conscience)
聖書外のさまざまな儀式や儀礼をもつカトリック教会と袂を分かち、新しく設立されたプロテスタント諸教会は、早々に「どのようにして神を礼拝するのがふさわしいのか?」という問題に取り組まなければなりませんでした。
その中のある人々は、カトリックのミサの中の多くの要素をそのまま保持することに特に問題は感じていませんでした。一方、別の人々は、そういった諸要素を、「誤った宗教的システム」とみなしました。そういった人々は、たといそれらの要素がそれ自体としては必ずしも有害なものではないとしても、自分たちがやっと脱出してきた昔のそういう儀礼やら諸要素やらに逆戻りしたくないと願っていたのです。
そしてこれこそが、RPを肝要とせしめる原動力だったのです。つまり「私たちは自分の教会のみなさんの良心につまずきや侵害を与えるような事は一切したくないのです」という願いです。
ある人々にとっては、ここに跪いたり、向こうの何かに口づけしたりする教会内での行為は「許容範囲内」と感じられるものかもしれません。しかしその行為を「偶像礼拝的」とみなす兄弟姉妹がいらっしゃったらどうでしょう?そして、そういう方々も、礼拝行為の一環として――聖書のどこにも命じられておらず、彼らの良心がそうすることを許さない――そういった諸行為に関与することが強要されるのでしょうか。
とはいっても、もちろん、RPが尊重されたところで、私たちの皆が皆、同じ賛美を好きになったり、音楽の選択に納得するようになるわけではありません。しかし少なくとも、RPにより、私たちは皆、「御言葉によって明示されている事以外は何も(礼拝時に)求められたり、強要されたりしない」ということを知った上で安心して公同礼拝に集うことができます。
4.異文化への適用の自由(Freedom to be cross cultural)
残念なことですが、おそらく大半の人々が、「礼拝におけるRPの原理をもってしては、他の異文化への適用がかなり難しくなるだろう」と考えておられるだろうと察します。確かに、RPが、内容(本質;substance)だけでなく「様式・スタイル」までも指示しているのだと間違って受け取ってしまうのなら、それはそうだと思います。しかしながら実際には、RPは、「歌い、祈り、聖書を読み、説教し、(聖餐および洗礼という)サクラメントに与る」というシンプルな礼拝形態を意味しているのです。そしてこういった礼拝の内包する基本的骨子は、世界どこででも"OK"なわけです。
5.中心点にフォーカスを置くことのできる自由(Freedom to focus on the center)
みなさんと公同礼拝についてお話する時、私は、RP(規制原理)という言葉さえも普通は出しません。多くの人には聞きなれない用語であり、別のある人々にとっては恐ろしくさえ感じられるのかもしれないと配慮しているからです。そして、私はこの概念を別の角度から説明しようと思い、みなさんに次のような問いかけをしています。「聖書に記されているクリスチャン礼拝の中で、彼らは何をしていたでしょうか。」
「ええ。彼らは御言葉を歌っていました。」「御言葉を説教していました。」「御言葉で祈っていました。」「御言葉を読んでいました。」「彼らは(聖餐と洗礼という)サクラメントを聖書の中にみていました。」そうです。そして、そこには「彼らはドラマ・スキットを上演していました。」「彼らはペット動物への祝福祈祷を行なっていました。」「彼らはワーシップ・ダンスを上演していました。」という事は見い出されません。
それならば、私たちは彼らが確かに礼拝の中で行なっていた事すべてにフォーカスを当てていくことができるのではないでしょうか。そして、間違いなく神様をお喜ばせすることができ、かつ確実に初代教会で実践されていた礼拝内容(諸要素)をもっともっとより良いものにしていこうという方向で私たちは進んでいけるのではないでしょうか。
つまり、RPは、私たちが曇りのない良心で、礼拝のベーシックに戻る自由、そしてそこに留まる自由を提供しているのです!
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*重要追記があります。