Puritan Worship(引用元)
キリスト教礼拝のあり方はそもそも誰が決めるのでしょうか。神(ロゴス)でしょうか、それとも、人間でしょうか。そして何を基準にそれらは決定・是認・導入、あるいは拒絶されるのでしょうか。また、導入されたものが、信者の良心につまずきを与える時、個人や教会はどのような対応をすることが望ましいのでしょうか。
自分の人生の中、そして周囲で起こっているさまざまな出来事を通し、私の中でこういった素朴な問いが芽生えてきました。
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R・B・カイパー著、山崎順治訳『聖書の教会観―キリストの栄光のからだ―』より抜粋
The Glorious Body of Christ: Unity and Division by R. B. Kuiper (1886-1966)
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キリストの教会の霊的一致は、否定できない現実です。それは一つのからだ、すなわちキリストの神秘的な唯一のからだです。
この霊的個体性である一致を破るものは何もありません。ほとんど無数に近い分派と教派に分かれた、外見的に絶望的な教会の分離ですらも、それを破ることはできません。一方、教会の現在の分割が、その一致をはななだしく〈不鮮明〉にしていることも認めなければなりません。それは、悲しい事実です。教会は、この悪をいやすために、打って一丸となって努力すべきではないでしょうか。
これに対して、要約すると三つの姿勢があります。それは、①極端な教派主義(Extreme Denominationalism)、②極端な合同主義(Extreme Unionism)、③現実主義的理想主義(realistic idealism)の三つです。
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The Glorious Body of Christ: Unity and Diversity by R. B. Kuiper (1886-1966)
R.B. Kuiper
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数年前、ウェンデル・ウィルキーが「世界は一つ」と題するベスト・セラーとなった書物を書きました。それは、全世界の平和共存を説いていました。彼の願望は、まことに賞賛に価するものでしたが、その著は単純すぎて、皮相的な楽観主義のそしりを免れませんでした。彼は、全般的に言って、人間性の腐敗を十分に認識していません。特に、マルクスの共産主義の無神論を考慮に入れていません。今日、世界は一つになることから遠く離れています。聖書は、神が新天新地をたてられる時まで一つになることはない、と語ります。
キリスト教会の現状も、ほとんど世界のそれと同じように、哀れな有様に見えます。すべて見たところ、それは、内輪もめして引き裂かれた家のようです。ポーチから落ちて、粉々に砕けた、美しい植木鉢のようです。爆撃で破壊され、がれきの山となってしまった大建築のようです。
信じられないと思われるかもしれませんが、イエス・キリストの教会は、現実に一つです。
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先日の記事に関し、親愛なる姉妹の方から、次のような真摯なご質問を受けました。
「私の母教会もワーシップによる賛美のみを歌っていたので、私は讃美歌を全く知らないのです。ワーシップは全て駄目なのでしょうか?ワーシップの部類は全てNGだと思われますか?やはり讃美歌を覚えて賛美歌のみを歌った方がいいのか思案しています。けれど旧約聖書のどこかに『新しい賛美を歌え』というような言葉があって、ワーシップの中にもセーフのものもあるのではないかとも思います。その線引きはどのようにしたらいいのか教えて頂けたら嬉しいです。」
主に喜ばれる礼拝がどのようなものであるかを探求していらっしゃる兄弟姉妹のみなさんと共に、このように共に問題に向き合い、考察し、タックルすることができる恵みを感謝します。
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A.W. Tozer, The Wrath of God: What Is It? 全訳
人間の怒りというものに善なるものが含まれているケースはきわめて稀である。人間の怒りは清くない心の状態から生じるのがほとんど常であり、しばしそれは罵りや暴力につながっていく。癇癪持ちの人は気まぐれで危険であり、それゆえに、平和を好む善意の人々はたいてい、そういう人を避けようとする。
昨今、教会指導者たちの間にみられるのは、「怒り」を神のご人格から切り離し、神の怒りが言及されている聖書箇所を言い抜けることでなんとか神を「弁護」しようとする強い傾向である。その気持ちは理解できるが、しかし、神の包括的啓示の光に照らしてみた場合、そういった試みは弁解不可能なものである。
続きを読むおお御父よ、助けてください。
愛する人々に心とらわれ、
私たちの貧弱な愛が、自らの選び取ったこの人生を
拒んでしまうことのないように。
そして、彼らを失ってしまうことや
痛みへの恐れから
永遠の報いを
忘れてしまうことのないように。
続きを読むイスラム教徒の方々と接していて、「ああ、太刀打ちできない」と心に呻きを感じることが最近ますます多くなってきました。何に太刀打ちできないと感じているかといいますと、それは、聖なる神に対する彼らの真正なる恐れと畏敬の念に対してです。
私たちキリスト者にとってイエスは偉大なる神の御子です。その一方、イスラム教徒にとっては、イエスは預言者の一人に過ぎません。しかしながら現実を見ますと、皮肉なことに、近年、「神の子イエス」と「イエスのみことばの権威」が、神の民であるクリスチャンの間でないがしろにされ、ますます軽視傾向にあるのに対し、「預言者イエス」は、依然として非キリスト教徒(ムスリム)の間で重んじられ敬意をもって取り扱われています。
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