巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

神の怒り(The Wrath of God)とは何か?by A・W・トーザー

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A.W. Tozer, The Wrath of God: What Is It? 全訳

 

人間の怒りというものに善なるものが含まれているケースはきわめて稀である。人間の怒りは清くない心の状態から生じるのがほとんど常であり、しばしそれは罵りや暴力につながっていく。癇癪持ちの人は気まぐれで危険であり、それゆえに、平和を好む善意の人々はたいてい、そういう人を避けようとする。

 

昨今、教会指導者たちの間にみられるのは、「怒り」を神のご人格から切り離し、神の怒りが言及されている聖書箇所を言い抜けることでなんとか神を「弁護」しようとする強い傾向である。その気持ちは理解できるが、しかし、神の包括的啓示の光に照らしてみた場合、そういった試みは弁解不可能なものである。

 

まず第一に、神は弁護を必要とされない。神を、自分たち人間のかたちに作り直そうと試みているこういった教師たちは、自分たちの方こそ、神のかたちに作り直していただくよう求めるのがよっぽど身の為になるだろう。聖書には「神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた」(出20:1)とあり、神がご自身に関しお定めになった啓示をわれわれの側が裁定し得るような、そのような独立した基準は存在しない。

 

現在、多くの人が、神の怒り(wrath of God)という教理を拒絶しているが、それは不信心(unbelief)という大きな範疇の中に属するものだと言っていい。そしてこの不信心は、キリスト教の聖典に対する疑いに源を発しているのである。

 

ある人が聖書の霊感に異議を唱え始めたとする。そうすると、興味深く時にゾッとするような逆転劇がこの人の内に起こってくるのである。そう、それ以後、彼は――御言葉に自分を裁いていただく代わりに――自らが御言葉を裁く立場に立つようになるのだ。そして、自分が何を信じるべきか御言葉に決定していただく代わりに、御言葉が何を説くべきか彼自身が決定を下していくようになる。こうして彼は自らのお気に召すままに、聖句を編集し、修正し、抹消し、加筆していく。しかしその際、彼はいつも御言葉の上段に座り――神の前に跪き御言葉によって自らを修正していく代わりに――御言葉を自らの趣向に合わせ修正していこうとするのである。

 

優しく繊細な解釈者は、主ご自身の御言葉に含蓄されている〔怒りの要素から〕神を保護しようと努めているが、それは全く不毛にして差し出がましい試みだと言わねばならない。

 

なぜそういった人々は今もなお、「ぼろぼろの宗教遺物」にしがみついているのだろう?本来潔いのは、きっぱりキリスト教信仰に別れを告げ、その他の古びた玩具類や子ども時代の疑わしい信心の類などと共に、そこを後にすることだろうと思うのだが、彼はそうしない。そして依然としてそこにとどまろうとするのである。そして彼は木を抹殺しつつも、依然として決して生ることはない実を待望しつつ、うらめしげに果樹園の周りをうろつき廻っているのだ。

 

たとい一か所であっても明瞭に聖書に言明されていることは何であれ、すべての信仰者の信仰を招くに十分な根拠を持って打ち建てられたものとして受け入れられるべきだろう。そして聖書の中で300回余りに渡り、御霊が神の怒りについて語っておられることに気づいたならば、我々は、この教えを潔く受け入れるか、それとも聖書をもろともに拒絶し去るか、そのどちらかに態度をはっきりさせるべきだと思う。そしてもしも、怒りというのが神にふさわしくないものであることを立証するような外的資料を我々が手に入れたのだとしたら、怒りを神の属性と言及するような聖書箇所は信用ならないものと結論づけなければならなくなるだろう。そしてもしも、300回余りに渡って言及されている聖書の一つの主題が間違っているのなら、その他の聖書の主題に関してもいったい誰がそれらを信用し得るだろう?

 

しかしながら教えをしっかり受けたキリスト者は、神の怒りが現実のものであること、そして、神の怒りは神の愛と同じく聖であり、神の愛と神の怒りの間に相反や不両立は存在しないことを知っているのである。そして彼は(堕落した被造物が知り得る範囲において)何が神の怒りで、何がそうでないのかを知っているのだ。

 

神の怒りを理解するに当たり、我々はそれを神の聖さに照らして見なければならない。神は聖なる方であり、聖さを、ご自身の宇宙の健全さを保つ倫理的必要条件として定められたのである。そしてこの世界における罪の一時的存在はこの事実をさらに強化しているのである。何であれ聖なるものは健全であり、それに反し、悪というのは倫理的病患であり、それは最終的に死に至る。この語の形成自体がその事実を物語っていると言っていい。つまり、holyという語はアングロ・サクソン語のhaligから派生しており、halは「健全、完全な」という意なのだ。もっとも語源への過度な言及は賢明ではないが、それでもやはりここには見過ごしてはならないある重要性が存在していると思う。

 

ご自身の宇宙に対する神の第一の関心は、その倫理的健全性、つまり聖潔にあるため、どんなものであれこれに相反するものは必然的に神の永遠なる不快(displeasure)の下に置かれることになる。

 

どこにおいても神の聖さが、聖くないものに直面する時、そこに衝突が生まれる。そしてこの衝突は、「聖さ」と「罪」という和解不可能にして互いに相反する両性質に起因しているのである。そして衝突の中における神の態度とご行為は、「主の怒り」である。ご自身の被造物を保護するべく、神はどんなものであれ被造物を破壊しようとするものを破壊しなければならない。破壊を鎮圧し、修復不可能な倫理的崩壊からこの世界を救うべく主が立ち上がる時、主は「怒っておられる」と表現されるのである。そして世界史における神の憤怒による裁きは皆、こういった保護を目的とする聖なる行為であったのだ。

 

神の聖さ、神の怒り、そして被造物の健全性は、それぞれ皆、分かちがたく結びついている。罪に対し神が怒りをお示しになるのは正しいばかりでなく、私としては、主がいかにしてそれ以外の行為をなすことができるのか理解に苦しむ。

 

神の怒りは、何であれ悪化・堕落させ、破壊するものに対する、完膚無きまでの神の《非寛容》である。母親が、わが子の命をむしばむジフテリアやポリオを憎むが如く、神は邪悪を憎んでおられる。

 

神の怒りは、倫理的腐敗がチェックされ、被造物の健全性が保たれるための防腐処理である。神が、切迫しているご自身の怒りを警告し、人に悔い改めと神の怒りからの回避を勧告する時、主は我々が理解できる言葉でそれを表現されるのだ。「来たるべき怒りから逃れよ」と。

 

「あなたがたの生活は邪悪であり、それが悪であるゆえに、あなたがたはわが被造物の倫理的健全性に対する敵である。わたしは何であれ、愛するこの世界を破壊するものを根絶せねばならない。あなたがたに対しわたしが怒りを持って立ち向かう前に悪から離れよ。わたしはお前を愛している。しかしお前の愛する罪を憎んでいる。わたしがあなたがたに裁きをもたらす前に、その邪悪な道から自らを分離せよ。」

 

「おお主よ、、激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。」(ハバクク3:2)