巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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列車の中の神学——マルチ信仰談義【シリーズ④ 倫理性について】(by マイケル・ロフトン)

シリーズ① 永遠の刑罰について】【シリーズ② 聖書正典について】【シリーズ③ 教導権について】からの続きです。

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出典

 

Michael Lofton, Theology on a Train: A Multi-Faith Dialogue, Jan, 2019(拙訳)

 

ルーテル派信者:確かに私たちは教義上の諸問題を抱えているかもしれません。ですが、至高存在を認めない無神論者であるあなたには、何が善で何が悪であるかを認識する方法がないではありませんか。

 

無神論者:いや、ありますよ。何が善であり何が悪であるのかは社会が決定する。

 

ルーテル派:それでは、ナチスが・ドイツが「最終的解決(=ユダヤ人抹殺計画;"Final Solution")は善である」と決定したことは正しかったのでしょうか。

 

無神論者:ほら来た、ゴドウィンの法則だ!*1

 

メシアニック・ジュー:ルーテル派であるあなたの口からユダヤ人問題に関するナチスの最終的解決のことが引き合いに出されたことはなんとも奇妙です。だって、あなたの教派の創始者であるマルティン・ルターは筋金入りの反セム主義者だったではありませんか。*2

 

ルーテル派:この問題に関し私たちルーテル派信者はルターに同意していません。彼もまた誤りを免れない不完全な人間であり、当時の文化の落とし子だったのです。

 

メシアニック・ジュー:じゃあ、教会史の中で反セム主義を信奉したその他の人々はどうなるのですか。

 

ルーテル派:ここで覚えておかなければならないのは、教会史における多くの人々は反セム主義(anti-Semitic)だったのではなく、反ユダヤ教(anti-Judaism)だったということです。キリスト降臨以降、彼らはユダヤ教に反発していたようには、ユダヤ人自身に対し反発していたわけではありませんでした。

 

無神論者:それじゃあ、十字軍はどうなるのか。

 

カトリック教徒A:十字軍問題は大概の場合、誇張されています。十字軍というのは主としてイスラムに対する応答であり、カトリック教会自体は決して十字軍遠征時におけるユダヤ人迫害を是認していたわけではありません。事実、多くの教皇はユダヤ人を守るための諸法令を制定していたのです。

 

無神論者:ああ、さっきまで話に加わっていたあのムスリム紳士が今も列車に乗っていたらなあ。彼がこの問題に関しどう答えるのか是非聞いてみたかった。おっと、話が脱線してしまったようだな。

 

カトリックA:「何が倫理的で何が非倫理的であるのかを人は自然法および超自然的啓示によって知ることができる」というのが私たちの主張です。それから聖トマス・アクィナスによると、神の存在証明の一つの証拠は次のようになります。——もしも私たちが善 / 悪、より良い / より悪いの感覚を持っているのなら、その時、あなたのその理解は、ある至高善(ultimate good)によって測られていなければならないということになります。至高善というのはあらゆる善の土台であり尺度です。*3

 

カント哲学者:至高善なるものが存在するということをあなたはいかにして知ることができるのですか。この主張は「私たちは因果性(causality)を知ることができる」ということを要求しますが、私たちの心(mind:精神)の外側にある世界の全て——すなわち本体的領域(noumenal realm)——は、私たちの心を通してのみ認識され得ます。ですから、因果関係なるものが存在するのか否かを私たちは知ることができません。なぜなら、それは皆、私たちの主観的心に基づく主観的なものにすぎないからです。

 

カトリックA:実在論者として、そして聖トマスおよびアリストテレスの信奉者として私は申し上げたい*4。私たちの諸感覚は信頼のおけるものであり、ある物が(その内においてそしてそれ自体において)いかなるものであるかを私たちに告げる諸感覚を疑う根拠はどこにもないと。ですから私たちは因果性を認識することができ、私の論点は尚も耐久するわけです。

しかしカント主義者であるあなたの場合は違います。因果性が本当にリアルであるかを知ることができないと言うのなら、あなたには何かが善であるとか悪であるとかそういう事が全く言えなくなりますよね。そうすると人間存在としてあなたはいかにして機能し得るというのでしょう。

 

カント哲学者:何が善であるか私は認識できます。定言命法(categorical imperative)ゆえです。定言命法というのは何かというと、「この世には欠くことのできないある種の事柄があり、もしもそれが欠くことのできない必須のものであるのなら、私たちには倫理性に関する観念を所有している」という考え方です。*5

神がこの定言命法の創造者ですから、私たちは依然として神の存在証明の切り札としてこれを主張することができます。それから、あなたは、人が客観的因果性を信じないのなら、その人は人間として機能し得ないのではないかと問いかけていますが、ちょっと意味を解しかねます。

 

カトリックA:ほら、まさに今、あなたは因果性からの議論を用いたではありませんか。違いますか。神は定言命法をお造りになった。だから私たちは神を探し求めるべくそれを用いることができます。

それから、人間として機能し得るのか、、という問いかけの部分ですが、私が意味していたのは次のようなことです。仮に今この瞬間、私があなたの顔面にパンチを食らわせ、あなたの財布を奪ったとします。その時、あなたは間違いなく、自分が本当に金銭を所有していたということを自覚しているはずです。それは‟本体的領域におけるなにやら未知なる物体”などではなかったはずです。

それだけではありません。あなたが因果性がリアルであることを信じていないとしましょう。それなら今私たちが乗っているこの列車の前方にあなたは身を投げ出そうとし、且つ、自分の身には何も起こらないと言えますか。ほら、あなただって「人間の諸感覚は一般に信頼のおけるものであり、因果性がリアルであることを認識し得る」という前提により機能しているじゃありませんか。

 

無神論者:おお、話が面白くなってきたぞ。

 

スンニ派ムスリムB:イスラム教徒して私も、人間が倫理性を認識し得るということに同意しています。それから神が倫理性の土台であるということにも。無神論者であるあなたは、倫理性を判断する上でかなり深刻な問題を抱えていると思いますが・・

 

長老派:ですが、この点においてイスラム教徒たちは無神論者たち以上に深刻な問題を持っているはずです。なぜならイスラムは神が移り気な(capricious)存在であると説いているからです。

 

スンニ派ムスリムB:そういうならあなたがたキリスト教の神だって全能ではありませんよ。なぜなら神はご自身の律法を変えることなどできませんから。

 

長老派:神の全能性というのは、神が自己矛盾し得るとか、変更不可能な倫理諸律法が神のご性質に基づいているとか、そういう事を意味しているのではありません。

 

無神論者:イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、ユダヤ教徒であれ、あなたがたは皆、「人々をパレスティナの地から駆逐すべく、男も女も子供も殺戮するよう神がイスラエルの民に命じた」ということを信じており、その神が「善なる神」であると言っていますよね。訳が分からない。 

あっ、ここが私の停車駅だ。もうおさらばしなくては。願わくばまたあなたがたと議論を続けたい。ここは私の通勤ルートでもあり、あなたがたの内の何人かの顔にはすでに馴染みがあるしな。それではまた。

 

ー終わりー

 

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*1:訳注:ゴドウィンの法則(Godwin's Law)またはゴドウィンのヒトラー類比の法則(Godwin's rule of Hitler analogies)は、オンラインの議論が(そのテーマや対象範囲に関わらず)十分に長引いたとき、遅かれ早かれ、誰かが別の誰かや何かをアドルフ・ヒトラーや彼の悪事になぞらえるようになることを指す、インターネットの格言です。この類比が持ち出された時点でその議論や対話が打ち切られることもしばしばあります。(参照

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*2:訳注:

mainichi.jp

*3:訳注:

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*4:訳注: 

 

David Bradshaw, Aristotle East and West: Metaphysics and the Division of ChristendomCambridge University Press, 2004

  

リチャード・E・ルーベンスタイン『中世の覚醒-アリストテレス再発見から知の革命へ』ちくま学芸文庫、2018年 

神学論争の陰で近代科学の芽がそだってきた逆説(書評)

12世紀にレコンキスタが進みトレドがキリスト教徒の手に落ちると、そこには西欧世界ではほぼ失われたアリストテレスの著作が揃っていた。著者によれば当時の西欧世界は社会的に相対的安定期にあり知識を渇望していたので、この古代の哲学者の著作を競ってラテン語訳し、その写本は、パリやシチリアなど当時の文化の他の中心地に流布していった。

アリストテレスは前4世紀のギリシアの哲学者で、プラトンの弟子でありアレクサンダー大王の家庭教師も務めたとされる人物である。彼の基本的な考えは、現世は良きもので探求すべき価値があり、そして宇宙は永遠であるというものだった。これに対して、プラトンによればこの世は仮のもので真に大切なのは現実の背後にあるイデアの世界である、また宇宙には始まりと終わりがあるとする。この両者でどちらが、世界の神による創造や最後の審判を信じ、この世は苦しいもので救いを来世に求めるキリスト教の世界観によく合うかといえば、それはプラトンであろう。そのため、4-5世紀の教父アウグスチヌスはプラトン的な哲学をもとにキリスト教神学を打ち立てた。

しかし、12世紀にはキリスト教をアリストテレス的哲学を援用して再統合しようとする一連の人たちが現れてきた。その一部は彼の自然哲学ー森羅万象の現実の出来事を理解しようとするものーに惹かれたのだろう。まず、最初にアベラールが普遍論争の中で唯名論的主張(個別の事物こそ大事)をなし、反対派と論争した。この唯名論という考え方自体が非プラトン的でアリストテレス的である。さらに2世紀の間、ロジャー・ベーコンやアルベルトゥスらの論客らが登場し論争は続くが状況は変化する。異端とされたカタリ派は正統に対しアリストテレス哲学で武装して反論をしてきたのだ。その結果、正統の中でも異端審問に熱心だったドミニコ会が積極的にアリストテレス哲学を学び反論する必要を理解した。その中での巨人が、トマス・アクィナスである(神学大全)。これらの神学者はいずれも信仰を疑うことなどなかったが、彼らの論は、信仰の世界と自然哲学の世界(理性)を分離し、その距離を広げることに結果的にはなっていった。ちょうど、現実の西欧世界で教皇権が世俗の王の権威に打ち負かされつつあったように。この流れを決定的にしたのが、オッカムのウイリアムやドゥンス・スコトゥスである。アリストテレス哲学の導入は、結局理神論や汎神論へと道を開くことになり、彼らの反対者はその点で正しかったのだ。つまり、科学革命ではアリストテレスの自然哲学を打倒することがその内実を占めていたのだが、それ以前、つまり近代科学の芽を育てたのはアリストテレスの自然哲学だったのだ。ビュリダンのインペトゥスが力学の端緒だったように、この神学論争の中でアリストテレスを否定もしながら科学は育っていった。引用元

www.youtube.com

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*5:訳注:「定言命法」って何?☞断言的に(=無条件的に)命令すること。カントはこれだけが道徳の規準になると考えました。これと対比されるのが「仮言命法」(hypothetical imperative)と言われるものです。このサイトの著者の方は、定言命法と仮言命法を次のように分かりやすく説明しておられます。 

定言命法(断言命法):(いいからとにかく)「…しろ」

仮言命法(仮定命法):「~が欲しいなら、…しろ」

www.philosophyguides.org

kotento.com