明日、生まれてはじめて告解(εξομολόγηση, Confessio)に行きます。告解というのは、神父様の前で自分の犯してきた具体的な罪や過ちを告白する行為のことをいいます。
先週、あるシスターが親切心から(罪のリストを作成する助けになるようにと)メモ帳を渡してくださったのですが、家に戻り、いざ机に向かったもののなんだかとても怖くなってしまいました。次の日もその次の日もメモ帳を開こうとするのですがやっぱり怖くなり、そうするとそのメモ帳を見ること自体もおっかなくなってきて、三日目にはついにそのメモ帳を本棚の奥の方にしまいこんでしまいました。
他の方々はどうなのか分からないのですが、私の場合は罪を箇条書きにし、それを読み上げていくという風景が裁判所を想像させてしまうのです。被告席についている私の前にはその罪状に判決を下す裁判官(神父)が座っています。
でも幼き日の私の「告解」の風景はそれとはまるで違うものでした。私は小さい時から何か心に隠し事ややましい思いがあると夜眠ることができず、夜半にやさしい母の元に駈けこみ母の胸の中で泣きながら自分の罪深い思いを告白していました。それはとても親密で自然な「告解」でした。その場は裁判所というよりは癒しとゆるしが提供される安全なシェルターでした。
昨日、年配の姉妹にそのことを打ち明けると、「告解とはまさしく幼い日のあなたがお母さんの元に駈けこんだそれですよ。裁判所ではなく魂が癒されるセラピー・ルームなんですよ」と励ましてくださいました。そして罪を箇条書きにする人々がいるのはあくまでも忘れないようにとの便宜上の目的のためであって、「義務」や「強制」ではけっしてなく、あなたは明日なんにも書かずにそのままで行って大丈夫なんですよと肩を押してくださいました。
それを聞いてようやく「怖い」という感情が消えてゆき、厳格な裁判官のようにイメージされていた神父様が本当はやさしい魂のカウンセラーであり、私の良き理解者であるにちがいないという認識が生まれてきました。
教会のふところに秘跡があり、その中に罪を赦し洗い清めるバプテスマやΧρίσμα(chrismation, 傅膏、堅信)そして告解という「たましいの心療内科」までが太古より備えられているという事に私は神様の愛を感じます。
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造られたもので、神の前に隠れおおせるものは何ひとつなく、神の目にはすべてが裸でありさらけ出されている(ヘブル4:13)というのはまことの真実であり、「告解」と「赦し」という生涯にわたり続いてゆくであろうこの生のプロセスは、やがて一人ひとりが立たなければならない審判と永遠という視野の中でなされる天国の前味なのかもしれません。
またこの「告解」のサクラメントという神秘を想うとき、私は人間一人ひとりのかけがえのなさと尊厳を教えられます。身の周りにいる家族や友人、隣人は、罪によって原型を損われ傷ついている状態にあっても尚、神のかたちに造られた驚くべき存在であり、それゆえ、それらの方々の現在がどのようなものであれ、私たちは周囲の方々の人生と人格に対し最大の敬意を払うことが求められていると思います。
「他人の心に土足で踏み込む」という表現がありますが、それはもしかしたら「告解」サクラメントの不在から表出してくる垂直的・水平的「近さ」「遠さ」の不規則疾患なのかもしれません。その意味でもキリストの贖罪を通した秘跡というのは、人間が本来の人間らしさを取り戻してゆく治癒そのものだと言えるかもしれません。