巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

クリスチャン・シオニズムーーハルマゲドンへのロードマップ? (by ステファン・サイザー他)

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「聖書はきわめて親イスラエルの書物である。もしクリスチャンが『私は聖書を信じている』と認めるなら、私は彼を親イスラエル支持者とすることができる。あるいは彼らの信仰を非難しなければならないことになる。」コーナーストーン教会主任牧師ジョン・ハジー(John Hagee)、ディスペンセーション主義キリスト教シオニスト指導者の一人。

 

目次

 

Stephen Sizer, Christian Zionism: Road-map to Armageddon? Part 2: The Bible and Christian Zionism(一部翻訳抜粋)

 

聖書とキリスト教シオニズム(ステファン・サイザー師)

 

キリスト教シオニズムは、基盤となるいくつかの神学的教義によって特徴づけられます。キリスト教シオニズムに特定される人々全員が次に挙げる特徴点すべてを保持しているとは限りませんし、また確信の度合いも均一ではありません。しかし次に挙げる諸点がキリスト教シオニズムをその他の諸運動から分け隔てている点の要約となるでしょう。

 

 ウルトラ「字義主義的」聖書解釈

 

『スコフィールド引照・注解付き聖書』を通し、サイラス・スコフィールドは、聖書をウルトラ字義主義的に読む読解法を一般普及させました。彼は次のように言っています。

 

「聖書預言に関し、『霊的』ないしは比喩的成就というのはただの一つも存在しない、、エルサレムは常にエルサレムであり、イスラエルは常にイスラエルであり、シオンは常にシオンである、、預言は決して霊的解釈を施されてはならず、それは常に『字義的』である。」*1*2

 

国際クリスチャンエンバシー(International Christian Embassy)のパトリック・グッドイナッフは、この立場を表す現代的実例を次のように提供しています。

 

「私たちはシンプルに聖書を信じています。そしてーー無効になっていないと私たちの理解しているーーこの聖書は、神がこの地を永遠の相続地としてユダヤ人に与えていることをきわめて明確にしています。」*3

 

①変遷しつづける「字義主義」

 

こういった「字義主義」は、未来主義者たちがーーここ数十年の間に東ヨーロッパやソビエト連邦で起こった劇的な地政学的変化と歩調を合わせようとする時ーー問題が生じてきます。ハル・リンゼイは、1981年、それから1994年、ロシアに関する聖書預言をしました。この二つの言明は互いに相反しているにも拘らず、リンゼイは(その当時)どちらともが聖書の中で予告されていたと主張していました。

 

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ハル・リンゼイ(Harold Lee "Hal" Lindsey、1929年11月23日 - )は、アメリカ合衆国のキリスト教教役者。ディスペンセーション主義前千年王国説、患難前携挙説の代表的な主張者。代表作のThe Late, Great Planet Earth「地球最後の日」(1970年)は、アメリカでベストセラーとなって、再臨待望運動を起こした。1973年には日本語にも訳され、ディスペンセーション主義前千年王国説、患難前携挙説を広めた。高木慶太の立場もリンゼイに近い。(ハル・リンゼイ - Wikipedia)

 

ロシアに関するハル・リンゼイの言明(1981年当時)

 

ハルマゲドンに向かう1980年のカウントダウン

「今日、ソ連人たちは、この地上での最強パワーであることは疑う余地がありません。ロシア人たちがいかに権力を掌握するに至ったかは、何千年も前に〔聖書の中に〕すでに予告されていました。さあ、ソ連の最近の歴史を見、そのことを確かめてみることにしましょう。」*4

 

紀元2000年、地球最後の日

「もはやロシアは世界の脅威ではなくなりましたが、それでも、ロシアは世界一級の軍事力を持つ局地的パワーであり、これはまさしくエゼキエル38章および39章で予告されていた通りです。」*5

 

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ロシアが列強としての地位を徐々に失い、且つ、共産圏ブロックが崩壊していったのに伴い、リンゼイは今度は、自身の強調点を「ロシア共産主義」(1970)から、「イスラム原理主義」(1994)にスイッチさせました。*6

 

1970年の「地球最後の日」当時は、脅威というのは「ロシア人勢力」からやって来るものとされていました。*7

 

それが1997年までには、「ロシアームスリムの勢力」と様変わりしています*8。刻一刻と変わり続ける中東情勢になんとか後れを取るまいと、1999年までに、リンゼイは、「この悪の枢軸は今や『ムスリムーロシア連合勢力』によって誘導されている」と主張するようになっていました。*9

 

②自己矛盾した「字義主義」

 

ディスペンセーション主義者は「私たちは一貫して聖書の平易にして『字義的』な解釈を行なっている」と主張していますが、時として彼らは互いに非常に異なり、且つ場合によっては相互矛盾しているような諸結論に達しています。実例を挙げましょう。黙示録9:13-19の解釈において、M・R・デハーンと、ハル・リンゼイは互いに矛盾し合っています。

 

M・R・デハーンの解釈(1946)

「黙示録9:13-21には、二億にも及ぶ騎兵の軍勢のことが描写されています、、これはデーモンのような恐ろしい実体で構成された超自然的軍隊に見えます。これらの軍隊は、悔い改めていない地上の人々に害を加えることを許されています。」*10

 

ハル・リンゼイの解釈(1973)

「黙示録9:14-15にある四人の御使いは、ユーフラテスの東から二億の兵士たちで構成される軍隊を動員するでしょう、、この『二億の騎兵の軍勢』は、その他の東欧連合と提携している、中国の赤軍兵士たちのことを指していると私は信じています。」*11

 

デハーンとティム・ラヘイ(『レフトビハインド』の著者)にとり、黙示録9章の二億は、「二億のデモニックな騎兵によって構成される超自然的軍勢」であるのに対し*12、ハル・リンゼイとシュイラー・イングリッシュ*13にとって、それらは字義通り、中国の赤軍兵士たちのことを指しています*14。リンゼイは、彼ら兵士の「軍馬」は、動員された弾道ミサイル発射装置士を象徴的に表していると指摘しています。*15

 

いずれの場合も、彼らそれぞれが自分の見解こそ、この聖句の「字義的」解釈だと主張しています。ウィリアム・ヘンドリクソンは、ヨハネの黙示録注解書の中で、こういった形態の聖書解釈法について、いくつかの疑問を投げかけています。

 

「当該する聖句のシンボルになにがしかの類似点を見い出すことのできる、日付、出来事、人物は、歴史上、無数にありますので、誰がその内の一つを選び取り、特定の日付/出来事/人物がこの特定のシンボルによって予告されていると断定できるのでしょうか?そういった聖書解釈法から生み出されるのは混沌です。何千という『解釈』が溢れているのですが、どれも確かではありません。こうして黙示録はかえって閉じられた書物となってしまいます。」*16

 

こういった聖書解釈法の抱えている根本的誤りは、それが、「イエスと使徒たちがいかに旧約聖書を再解釈したのか」という点を認めようとしていない、その拒絶にあります。例えば、イエスはレビ記的食物規定に関する律法を無効にされました。

 

マルコ7:18-19

イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」

 

清くない食べ物に関する幻により、神は「キリストにあって今や、ユダヤ人と異邦人の間には区別がなくなった」ということを悟らせようと使徒ペテロに特別に働きかけておられました。そうです、両者共に、神の国の中で同等に受け入れられているのです。

 

使徒10:13-15

13そして、彼に、「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい。」という声が聞こえた。

14 しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」

15 すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」

 

コルネリウスに会って初めて、ペテロは、幻の真意を理解し始めました。つまり、その時、彼は自分がユダヤ人と異邦人をどのように見なければならないのかについての幻の含意を悟り始めたのです。「そこでペテロは、口を開いてこういった。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。」(使10:34-35)

 

論理的に言って、もしも神がかたよったことをなさらないのなら、ユダヤ人が排他的地位を享受するということは考えられないということになります。聖書啓示の中におけるこういった漸進的動きは、ヘブル人への手紙の記者によって、より包括的に説明がなされています。

 

旧約聖書の啓示は往々にして、影、心象、預言という形をとって与えられました。それに対し、新契約においては、啓示は、本体、本質、そしてイエス・キリストにある成就の内にその完成をみています。

 

ヘブル8:13

神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。

ヘブル10:1

律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。

  

クリスチャンが、御言葉をクリスチャンの眼で読むことは基本中の基本であり、私たち信仰者は、新契約の光の中で旧契約を解釈するのであって、その逆ではありません。コロサイ人への手紙の中で、パウロは、予型論的解釈を用い、次のように説明しています。

 

コロサイ2:16-17

こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです

 

ですからここで焦点となっていることは、「旧契約の諸約束が、はたして『字義的』に理解されるべきなのか、それとも寓喩的に解釈されるべきか?」という問題ではないのです。(クリスチャン・シオニストたちはこの問題をそういう風に二極化させようとしています。)

 

そうではなく、真に問われるべきは、「旧約の諸約束は、はたして旧契約の"影"という観点の中で理解されるべきなのか、それとも、新契約の"本体"という観点の中で理解されるべきなのか」にあります。そしてこれが、クリスチャン・シオニストたちが繰り返し犯し続けている最も基本的な解釈的誤りです。

 

ユダヤ神殿の再建――ダニエル9章26-27節のディスペンセーション主義聖書解釈法

 

多くのクリスチャンたちは、ユダヤの神殿がもうじき再建されると確信しています。こういった未来の神殿再建に関し、最も頻繁に引用されるのは、ダニエル9:26-27です。

 

ダニエル9:26-27

26その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。

27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。

 

こういった釈義を正当化すべく、ディスペンセーション主義者は、ダニエル9:26(神殿の崩壊)と9:27(別の神殿再建を要求するとされている、それに続く冒涜)の間に、2000年間の「挿入」を差し挟まなければなりません(空白期挿入説)。しかしこの解釈は聖句の中で何ら立証がなされていないなにかです(空白期挿入説の疑問点と説明)。

 

ユダヤ神殿が再建されるという確信は、皮肉な事に、キリスト教シオニズムのアキレス腱となっています。なぜなら、それはまた不可避的に、「モーセ時代の犠牲制度の再導入」という部分と関連せざるを得ないからです。エゼキエル書に描写されている神殿は、動物のいけにえ奉納を前提しています。

 

サイラス・スコフィールドは『スコフィールド引照・注解付き聖書』の中で、「エゼキエル43:19で言及されているいけにえは、"memorial"(記念となる)いけにえになるだろう」と主張し、次のように言っています。

 

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サイラス・スコフィールド

 

「間違いなく、こういったいけにえは、十字架を振り返る記念的なものとなるだろう。なぜなら、旧契約下でのいけにえは、十字架を待望する予期的なものであったからである。どちらの事例においても、動物のいけにえは罪を取り除く力はない。ヘブル10:4;ローマ3:25」*17

 

しかしながら、ここの聖句では明確に、「罪のためのいけにえとして若い雄牛一頭」という言及がなされています。もしも、「これはただ単に"記念的"いけにえなのだ」と提示することにより、スコフィールドが、ここでの問題をごまかそうとしているのだとしたら、新版の『スコフィールド引照・注解付き聖書』の注釈は、その言い逃れをさらに進展させており、それにより、ディスペンセーション主義解釈体系全体の前提を自ら弱体化させています。注釈は次のようになっています。

 

「この箇所でのいけにえへの言及は、字義的に解釈されてはならない。そういったいけにえはすでに廃止されたという事をふまえ、この箇所はむしろ、贖われたイスラエルが、彼ら自身の土地で、そして千年王国期に再建される神殿の中で捧げる礼拝を示しているものと解釈されるべきである。エゼキエルの時代にユダヤ人になじみのあった用語がここでは用いられている。」*18

 

もしも、エゼキエル43章におけるこのいけにえの箇所が「字義的に」解釈される必要がないのだとするなら、「イスラエル」と「教会」の間における、彼らのウルトラ字義主義的区分法は崩壊します。ーーみずからの自己内矛盾によって損なわれながら。*19

 

再建された神殿に関するエゼキエルの幻の直接的文脈は、バビロン捕囚からユダヤ人の約束された帰還であって、なにか遠い先にある終末的出来事ではありません。もしそうだったのなら、イスラエル帰還を待望していた捕囚民にとってこの箇所は全く意味のないものになっていたことでしょう。

 

新約聖書において、神殿というのは、イエス・キリスト、個々のクリスチャン、そして公同的にはキリストのみからだ及び聖霊の宿り場としての教会を表す鮮明なるメタファーとして用いられています。(1 コリ 3:16-17; 2 コリ 6:16; エペソ 2:21; 1 コリ 6:19.)

 

そしてそれこそまさにイエスがヨハネ2章、4章で予告しておられたことなのです。

 

ヨハネ2:19-21

19イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」

20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」

21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。

 

イエスは神殿の崩壊のことを警告しておられましたが、それが再建されるという約束は一度たりともされたことはありませんでした。(ヨハネ2:19, マルコ 26:61, 27:40; マルコ14:58, 15:29.)

 

実際、ヘブル人への手紙の中で、記者はキリストの死と、神殿の崩壊との間にあるいけにえ奉納のことを、ーー天的なリアリティーの「写し」であり、「罪を思い出されるもの」であるけれども、完了されたキリストの御業とは違って罪を取り除くことはできないものとしてーー描写しています。

 

実際、「ユダヤの神殿がやがて再建される」と約束している新約聖句は、ただの一か所も存在しておらず、2000年間の「挿入句」が、〔ダニエル9:26節の〕「冒とく desecration」と〔27節の〕「破壊」の間に差し挟まれなればならない/あるいは十字架の出来事の後に、エルサレムの神殿が神のご目的の中で何か役割を果たすであろうと約束する新約聖句は、ただの一か所も存在していません。

 

それゆえに、キリスト教シオニストは、新約聖書の中で神殿が新しい意味を授与され、教会を表す心象となったことを無視し去らなければならなくなります。例えば、パウロは、エペソ人への手紙の中で、それらを、生ける新しい神殿だと表現しています。

 

エペソ2:19-21

19こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

2:21 この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮(a holy temple)となるのであり、

  

ペテロも同じ用語を使い、クリスチャンが神の新たな家(1ペテロ2:5)に築き上げられる様を表現しており、その中にあって、イエスは「尊い礎石」(1ペテロ2:6)です。

 

1ペテロ2:5

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

 

同様に、コリント人への手紙の中で、パウロは、神殿のことに言及しているイザヤ52:11を引用し、それを教会に適用しています。

 

2コリント6:16-17

神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ

  

聖書の漸進的啓示における動きは常に、より小さいものから、より大きいものへの移行です。それが逆行することは決してありません。新約聖書は繰り返し、「神殿」、「大祭司」、「いけにえ」といった旧約概念を、ーーイエス・キリストを指し示し、キリストの中にあって成就した「予型」ーーと見ています。(ヨハネ 1:14; 2:19-22; コロサイ 2:9.)

 

それゆえ、神殿再建を推進しているクリスチャンは、事実上、キリスト者以前の犠牲制度にUターン(逆行、退行)してしまっているわけですが、その犠牲制度は、完了されたキリストの御業によりすでに破棄され、不必要なものとみなされ、無効とされているのです。

 

神殿はほんの一時的な建築物に過ぎませんでした。そしてそれは、まことの神殿であられるイエス・キリストの贖いの御業を通し、神がすべての国の人々と共に住む日を予期する影であり型だったのです(ヨハネ1:14参)。

 

「ユダヤ人のための神のご目的」「教会のための神のご目的」という、恣意的にして二元論的区別をつけることを主張する事により、キリスト教シオニストは、新約聖書の「本質、実体」と並行して旧約聖書の「」を促進しようとしています。(コロサイ2:16-17、ヘブル10:1、5.)

 

そうすることにより、彼らは聖書が「すでに廃止された」と言っているものを再び復興させようとしています。そして、贖罪史における時計を過去に巻き戻そうとすることにより*20、彼らはキリスト教信仰をユダヤ主義化させつつあります。(ガラテヤ3:1-5、3:13-16、ヘブル8:13.)

 

ディスペンセーション主義キリスト教シオニズムについて(安黒務師)

 

ミクロの背景―「ディスペンセーション主義イスラエル論」のベクトル

 

次に、上記の神学的思索の細部のベクトルとして「ディスペンセーション主義」の起源と変遷 *21を扱う。これは、最も論争的なテーマといわれる「キリスト教シオニズム」の神学的基盤を構成している。

 

「ディスペンセーション主義」は、1800年代初期から中期の英国においてジョン・ネルソン・ダービーとプリマス・ブレザレン運動の下に出現した。*22

 

それは、リベラリズムとの闘争という時代状況の中で、霊感された書物としての聖書観が危機に瀕したときに、その防御の戦いにおいて「正の貢献」があった。しかし同時に「負の遺産」を生み出した。それは、もうひとつの極端に振れた振り子のように、そこに極端な字義主義を生起させ、極端な聖書解釈をもたらした *23。そして19世紀と20世紀前半に米国において、ディスペンセーション主義は多様化しつつ発展していった。

 

第一段階として「古典的ディスペンセーション主義」の立場は、「イスラエルと教会の間にある多くの相違点」を指摘し、「二つの異なった民に対する二つの別個の計画」の存在を主張した。

 

展開の第二段階として「改訂ディスペンセーション主義」の立場が登場し時代を画した。

 

展開の第三段階は「漸進的ディスペンセーション主義」として知られるものとして結実し、1980年代と1990年代に出現した。

 

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歓迎すべき大きな変化が起こり続けているが、「J.N.ダービーの遺伝子」とでも言うべき「民族としてのイスラエル」を軸にした理解は陰に陽に残されたままである *24今日、「イスラエルを軸とした」聖書理解とか、イスラエルを軸とした「神のマスタープラン」という強調がなされることがあるが、それらの多くは上記のディスペンセーション主義聖書解釈法に由来するものである。

 

使徒的イスラエル論とは何か

 

さて、マクロとミクロの背景説明を終えた今、次の課題を扱う準備が整った。前節において「使徒的聖書解釈」の原則を確認した。では、その原則に立脚した「使徒的イスラエル論」とは何なのか-これが第二の問いである。

 

旧約は「イスラエルの未来における救い」を見ている。しかし、新約はどうか。新約は、それらの預言が「教会において霊的に成就された」と解釈しているのか。あるいは旧約預言の字義通り「選民イスラエルのための未来を用意しておられる」と解釈しているのか。どちらなのか。

 

契約主義神学は前者の「教会を軸とした」イスラエル論をとり、ディスペンセーション主義神学は後者の「イスラエルを軸とした」イスラエル論をとる。

 

新約でこの課題について、最も詳しく述べている箇所はローマ人への手紙9-11章である。そのローマ人への手紙9章25節の旧約の文脈(ホセア書)では「イスラエルへの言及」である箇所の大部分が「異邦人からなるキリスト教会に適用」されている。これは、「メシヤ預言とキリスト論」の関係でみた「同じ聖書解釈の原則」が「イスラエルに関する預言と教会論」の間でもみられるということである。

 

ここで「旧約の諸概念」は解釈され、旧約では予見不可能なことが言われている。ホセア書からの引用がローマ人への手紙9章26節(ホセア書1章10節)にある。旧約の文脈では「字義通りのイスラエルに言及されている預言」であるが、新約では「(異邦人)教会に適用」されている。

 

ホセア書1章10節、2章23節の預言も「教会において霊的に成就」とされ、教会は「本質的イスラエル性」を内包する「霊的イスラエル」として理解されている。

 

アブラハムが「無割礼のときにもった信仰」の足跡は、ユダヤ人信仰者と異邦人信仰者の父となるためであったのであり、「信仰の内実」を有するアブラハムの子供が「霊的イスラエル」である。これは不可避の結論である(ローマ人への手紙4章16節, ガラテヤ書3章7節)。

 

ディスペンセーション主義者は、「霊的解釈」を最も危険視している。ジョン・ウォルヴォードは、それを「カトリック、リベラル、非ディスペンセーション系保守の特徴」*25とみている。

 

しかし、ラッドは「旧約において字義通りのイスラエルに言及されている約束を、新約聖書が霊的教会に適用しているという原則を見出すのであるから、霊的解釈を採用しなければならない」*26と断言する。ここに「使徒的イスラエル理解」の原則があり、「使徒的正統性」を判別する尺度が存在する。

 

キリスト教シオニズムの諸形態

 

さて、わたしたちは日本にいて、様々なかたちで「ユダヤ人への伝道や支援」に取り組む働き*27を目にし、また耳にする。

 

しかしキリスト教シオニズムには「どのような形態」があるのか知っているだろうか?

 

よく知らずに新しい教えや運動との関係を深め、後に教会や教派に混乱を起こす。そうならないため、それらの「神学と実践」の「輪郭と本質」を知っておきたい。今日の福音派のキリスト教シオニズムには、大別して「四つの相違する形態」がある。

 

それらは、「教会とイスラエルの関係、伝道、帰還、イスラエルの地、入植、エルサレム、神殿、ハルマゲドン」に関する神学的理解の相違を契機として生まれてきた。

 

それらには、

①契約主義的プレミレニアリズム*28 、

②メシヤニック・ディスペンセーション主義、

③黙示的ディスペンセーション主義、

④政治的ディスペンセーション主義の四つがある。」*29

  

ここでは特徴的な要素のみを取り上げる*30

 

第一に「契約主義的プレミレニアリズムヒグトンリガンCMJ, CWI)」はユダヤ人に対する「伝道」とパレスチナへの「帰還」を特徴とし、

 

第二に「メシヤニック・ディスペンセーション主義ローゼンブリックナーフルクテンバウムJFJ, AMFI)」はユダヤ人に対する「伝道」とともに、「二契約神学」のゆえに「神殿における実践」を含み、「ユダヤ教的礼拝の復活」をも引き受けている。

 

第三に「黙示的ディスペンセーション主義リンゼイエヴァンズラヘイDTS)」はハルマゲドンの熱望というかたちで「終末預言」と「中東の平和に関する悲観主義」の傾向が強い。

 

第四に「政治的ディスペンセーション主義ロバートソンファルウェルICEJ, BFP)」は、米国のイスラエルとの「軍事的かつ政治的結びつき」を強固に維持することへの傾倒と、ユダヤ人への「伝道の否認、楽観的な終末論、キリスト教の福音の再解釈」によって他と区別される。

 

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政治的ディスペンセーション主義にとって、「教会の目的とはイスラエルを支援し祝福する」ことである。なぜなら、ユダヤ人は「彼ら自身の契約を基盤にして神に受け入れられ」ており、ユダヤ人は「メシヤが再臨される時にメシヤを認める」ことになるからである。

 

「福音主義イスラエル論の座標軸」(注2)において評価すると、契約主義的プレミレニアリズムがキリスト教シオニズムの中で「最も正統的かつ穏健な形態」とみなされ、政治的ディスペンセーション主義は「最も問題を含む形態」であると思われる。

 

それぞれは、重なり合う部分を持つとともに、グループ内に様々なグラデーションある強調点を抱えており、その判別は代表者や唱道者等の発言や著作から、それぞれのグループの「特徴の輪郭」と「教えの本質」を判断することとなる*31 。

 

使徒的実践への「不適合」と「適合」の要素  

 

『福音主義イスラエル論: 神学的・社会学的一考察』(安黒 務著)より

 

使徒的実践に「適合しない要素」とは何か? 

 

わたしたちは、第一部において、使徒的聖書解釈法と使徒的イスラエル論理解が如何なるものであるのかを考察した。

 

そして、今、考察の焦点である「キリスト教シオニズム」の定義、起源と変遷、そして多様化を概観し、使徒的実践への「不適合」と「適合」の要素を考察する準備ができた。ここで、今日の「福音主義イスラエル論」において、使徒的実践に「適合しない要素」とは何か、と問いかける。

 

適合しない第一の要素は、「誤った領土的熱望」である。

 

使徒たちが新約においてメシヤとメシヤによる新しい普遍的な共同体においてユダヤ人が熱望してきたものが「成就」していると記しているにも関わらず、

 

キリスト教シオニズムは、ペンテコステ以前の初代の弟子たちのように、1世紀のユダヤ教が保持していた「領土的熱望」を抱き、イエスの王国の到来を「ユダヤ人の王国の回復の望み」の「延期」を意味していると信じ、旧約聖書を誤って読み込んでいる。

 

「使徒的聖書解釈」を記した新約において、それは「延期」ではなく、「成就」である。パーマー・ロバートソンは、神の諸目的のこの啓示の漸進性について、

「贖罪の歴史のプロセスにおいて、予型から現実へ、影から実体へと劇的に発展させられ、…かつて神の贖罪的働きの特別な局所的なものであった土地は、今、新しい契約の成就の時代において、土地は宇宙を含むものに拡大されてきた。…それゆえ、成就のこの時代において、古い契約のきわめて制限された形態への退歩・後退は期待されていない。実体は影に道を譲ってはならない」*32と述べている。

 

適合しない第二の要素は、「自民族中心的な民族主義」である。

 

使徒たちが、古代の旧約聖書に記された「ユダヤ人への祝福の約束が、イエス・キリストを通して「解釈」され「成就」されたと記しているにも関わらず、キリスト教シオニズムはそれらの約束を字義的かつ未来主義的に解釈し、「世俗的イスラエル国家」に適用している。

 

土着の古代オリエント東方教会を代表する中東教会協議会(MECC)は、そのような解釈と適用をするキリスト教シオニズムを、

「その運動はキリスト教の一致と宗教間の相互理解の運動を拒否し、…シオニストの神政政治と自民族中心的な民族主義のモデルを強制し、…福音と成功と軍国主義のイデオロギーの一体化された世界観をクリスチャンに供給している」*33と厳しく批判している。

 

適合しない第三の要素は、「信仰の内実の欠落した選民意識」である。使徒たちがキリストにある「開かれた民族のあり方」を提示しているにも関わらず、キリスト教シオニズムは旧約の光の下、誤った「民族的排他主義」を扇動している。

 

それが意味するものについてケネス・クラッグは、

「神はユダヤ人を選ばれ、土地は神の賜物でありユダヤ人のものであるとの言明には疑問を抱くことも反抗することもできない最終的なものとする判決があり、それらは、間違いなく聖書信仰のクリスチャンからもたらされている」*34 と批判している。

 

使徒たちがキリストにあってユダヤ人も異邦人(パレスチナ人)もないと語り、キリストにある者に相応しく公義を川のように流れさせることをすすめるのに対し、キリスト教シオニズムはそのような「誤った前提」をもって、中東の平和交渉の公正かつ持続的な成果の可能性を「妨害」し、ラビ的ユダヤ教への「無批判な寛容」を示し、イスラエルの政治的権利を「無制限に是認」し*35、パレスチナ人の悲劇と地域に根差しているキリスト教の共同体の苦境に対する「許し難い同情心の欠如」をさらし、福音の名前においてユダヤ人による「抑圧を正当化」してきた*36

 

それゆえ、究極的に、これらの不適合な実践を支えている神学的基盤の問題は二つの神学―「ディスペンセーション主義神学」と「契約主義神学」の間にある。*37

 

サイザーは言う、「一方は古い契約の影を、他方は新しい契約の実体を基盤としている。前者は、世界の救い主であるイエス・キリストを中心とする包括的な神学であるよりは、むしろその土地の中に存するユダヤ人に焦点を当てる排他的な神学となる。結果的に、それは民族を差別し、隔離し、戦争をすることに対する神学的な保証を提供する。…これは、新しい契約の中心に見出される正義・平和・和解についての包括的な神学に正反対のものである。」*38

 

使徒的実践に「適合する要素」とは何か

 

次に、今日の「福音主義イスラエル論」において、使徒的実践に「適合する要素」とは何か、を問う。

 

適合する第一の要素は「神の民理解」である。

 

「契約主義者」*39聖書の連続性・漸進性・有機的一体性の理解をもって、神は歴史を通じていつも「ひとつの民」とわたしたちの身代わりの犠牲としての主イエス・キリストという「ひとつの贖いの手段」のみを所有しておられたと教える。

 

それは、キリスト教シオニズムの「誤った選民意識」に基づく偏ったものではなく、契約主義的な前提を基盤とした「パレスチナ人とイスラエル人の闘争に対する聖書的アプローチ」は「両者の平和と安全」に向けて有益な形で機能し、祈りに導く理解である。

 

適合する第二の要素は、「ユダヤ人理解」である。ユダヤ人について、ローマ人への手紙9―11章のような箇所を基盤として、「ユダヤ人は神に愛されている」こと、そして神がキリスト教を誕生に導かれる際に「歴史上のユニークな役割」を達成したことを認め、そしてユダヤ人皆がイエスを「彼らのメシヤと認める日が到来」するよう祈っている。

 

それはキリスト教シオニズムの「誤った自民族中心的な民族主義」ではない理解であり、ユダヤ人とパレスチナ人双方が「本質的な意味・価値・尊厳をもって神の像・似姿に創造」されており、「自己決定の権利、安全かつ国際的に認知されている領域内で生きる権利を所有している」ことを認め合う理解である。

 

適合する第三の要素は、「教会理解」である。教会がキリストにおいて「刷新され回復されたイスラエル」であり、そして今それはあらゆる民族の人々を包含するかたちに広げられていると主張している。

J.R.W.ストットは、

(1)ユダヤ人のその土地への帰還についての旧約聖書の約束は、ユダヤ人の主への立ち帰りの約束に付随しているものである。世俗的で、信仰が伴っていない国家としてのイスラエルの成立を、旧約聖書の預言の成就であると理解することは困難である。

 

(2)土地に関する旧約聖書の約束は、新約聖書で繰り返されている箇所は皆無である。ローマ人への手紙11章は、きわめて多くのユダヤ人がキリストに立ち返るであろうという預言であり、土地に関しては言及されていないし、政治的存在としてのイスラエルへの言及もない。

 

(3)使徒たちによれば、旧約聖書の約束は、キリストとキリストにある、民族を超えた共同体において成就されている。新約聖書の著者は、アブラハムの子孫への約束を、イエス・キリストに適用している。使徒たちは、土地の約束そして相続されるべき土地のすべて、つまり乳と蜜の流れる地をイエス・キリストに適用している。それは、わたしたちの空腹を満たし、わたしたちの渇きを癒すのは、イエス・キリストにおいてなされるゆえである。ユダヤ民族主義への回帰は、イエスにおいて形成されている、民族を超えた共同体という新約聖書の捉え方とは相いれない」と述べている。*40

 

キリスト教シオニズムが根拠の薄弱な聖書的・神学的主張によって国家としてのイスラエルを正当化し、神聖化するのに対し、教会をそのように理解する契約主義は相互の認知と和解の上に、正義と平和についての聖書的原則を基盤とした国際的な平和への努力推進を強く支持する理解である。*41

 

サイザーは言う、「クリスチャンはキリスト教シオニズムの不適合な要素を否認することによって、ヤコブとエサウというイサクの子供たちのようなユダヤ人とアラブ人の生得権に対する戦いをやめさせ、その祝福の共有を開始するよう助けることができる。」*42

 

ー終わりー

 

「原理主義」と「福音主義」(宇田進師、東京基督教大学名誉教授、元ウェストミンスター神学校客員教授)

 

第1回 ファンダメンタリズムの原点は?

 

最近、日本のキリスト教界において、また一般のマスコミにおいても、「原理主義」ということが「今の」話題となっており、いろいろと論議されている。「キリスト教原理主義」とか、「イスラム教原理主義」は、最近よく目にし耳にする。

 

さらに、最近の文書(例・W・フート『原理主義―確かさへの逃避』邦訳2002)では、「ユダヤ教原理主義」(例・宗教シオニストの過激派)をはじめ、「カトリック原理主義」(例・法王ヨハネ・パウロ二世が後押ししている「オプス・デイ」と呼ばれている復古主義運動や第一バチカン公会議の教規と教令を重視する「デンツィンガー神学」と呼ばれている運動)や「ギリシャ正教原理主義」のような「原理主義」も取りあげられている。

 

今、オウム裁判が進行中だが、宗教学者の島田裕己氏は、『宗教の時代とはなんだったのか』(1997)の中で、オウムのテロリズムを仏教の「原理主義」と位置付けている。

 

以上のように、今日、「原理主義」という≪ラベル≫が実に広範囲に使われている事実に、むしろ驚きを感じる!

 

このたび、4回にわたり特に「キリスト教原理主義」について拙文をつづることになったが、正直言って≪戸惑い≫を覚えている。

 

その理由の一つは、日本のキリスト教界(メイン・ライン─主流派─、福音派とも)が、まず基礎的なこととして、アメリカ・キリスト教史における現象としての「ファンダメンタリズム」と「エバンジェリカル」(福音派―日本では前者とほとんど一緒くたに使われている)の≪実態≫を歴史的、神学的、文化・社会的の三面からはたしてきちっと理解しているかどうかという疑念である。

 

半世紀にわたって「メインライン」と「福音派」の両世界を遍歴してきた一人として、どうも、一部の神学エリート層によって作られた≪オピニオン≫と≪イメージ≫が先行・支配する形をとってきたのではないか、という印象を強く抱かせられている。この点についての真相はいかなるものであろうか?

 

一口に「キリスト教原理主義」と言っても実際には大テーマである。英・米では「プロ」「コン」両サイドからの膨大な量にのぼる文書・資料が出されているが、日本においては残念ながら非常に僅少かつ部分的なものにとどまったままである! 

 

はじめに、「原理主義」という語について、その歴史的由来を含めごく基礎的なことの確認からはじめたいと思う。

 

日本語の「原理主義」は、英語の「ファンダメンタリズム」(Fundamentalism)に対する≪最近≫の訳語である。それまでは、長い間「根本主義」が広く使われてきた。「根本主義」の最も古い使用例を、日本プロテスタントの黎明期の指導者植村正久の「宣言若しくは信条」(1924)の中に見いだすのである。

 

より最近のカトリック系の著者・ハロラン芙美子の『アメリカ精神の源』(1991)も同様である。ストレートに「ファンダメンタリズム」を用いるケースもある。激烈な酷評で知られるジェームズ・バー『ファンダメンタリズム―その聖書解釈と教理』(邦訳1982)がその例である。

 

次に「ファンダメンタリズム」と言う呼称のそもそもの起源であるが、それはアメリカ教会史の中に見いだされる。

 

1880年から1930年の時期に、アメリカ教会の中に一つの新しい動きが次第に顕著になってきた。それはドイツ神学主導によるもので、中身は≪近代精神≫(modernity)へ≪順応≫する形で展開されてきた≪新しいタイプのキリスト教バージョン≫の広がりであった。

 

これは「自由主義(リベラリズム)」と「近代主義(モダニズム)」(例S・マシューズ『近代主義の信仰』1924)と呼ばれた。

 

こうした新しい流れに直面した教会は、19世紀半ばまで支配的であった≪歴史的キリスト教≫(Historic Christianity─≪福音主義キリスト教≫とも呼ばれてきた)の保持と宣揚の必要を感じ、結束して行動を展開するという状況が発生したのである。

 

まず、1910年から15年にかけて、歴史的キリスト教の解説と弁証を目的としてThe Fundamentalsと呼ばれる12巻の文書(英国のジェームズ・オアや米国のウォーフィールドといった代表的神学者たちも執筆)が刊行された。これは三百万セット印刷された。

 

また、1910年には歴史的キリスト教の≪近代的な再解釈≫に直面したアメリカ合衆国長老教会(一般に≪北長老≫とも呼ばれる)は、大会において次の五教義をキリスト教信仰にとって≪ファンダメンタル≫(根本的)なものと確認した。

 

①キリスト教の≪規範原理≫としての聖書の霊感と無謬性、

②キリストの神性と密着している処女降誕、

③福音の核心である十字架におけるキリストの身代わりの贖罪、

④キリストの体の復活(キリストの人格とわざは≪実質原理≫と呼ばれてきた)、

⑤奇跡の真実性、

の五点がそれである。

 

第2回 マス・コミによる "恐るべきイメージ化" の現実

 

日常手にする≪新聞≫に対する購読者の信用は25パーセントにすぎない、という分析がある(西部邁『批評する精神』1978)。

 

かつて、『アメリカにおける民主主義』で知られるアレクシス・ド・トクヴィルは、≪多数派の専制≫を激しく批判したことで知られている。

 

われわれを取り巻く≪マス・コミ≫について考える時、日頃≪言論の自由≫ということを空気のように思っているけれども、それによって主導される世論の支配や、時に確立されたも同然の状態がいわば創作されているといった問題を感じることがある。また、人々の意見を同一化させ、凡庸化させることによって真の自由を奪うという恐ろしい危険の可能性にも、十分注意しなければならない。

 

日本の主要な新聞において、カトリックの法王の目立った動静を小さなコラムで報ずる以外、キリスト教のこと、特にプロテスタント教会のことは、死亡・葬儀欄に一部の関係者の名が登場する以外、まったくと言ってもいいくらい記事になることはない。

 

ところが、近年ちょっとした≪異変≫が起こっている。それは、前号でふれたように、「キリスト教原理主義」とか「福音派」という言葉が、全国紙の紙面に登場するようになったことである。一体そこでは、「キリスト教原理主義」や「福音派」の≪何≫が、そして≪どのように≫に描かれているのだろうか。

 

特に現代は≪ポスト・モダン≫の落とし子である「分衆の時代」(博報堂生活総合研究所篇『〈分衆〉の誕生』1985)に突入し、そこでは≪イメージ≫というものが巨大な力をもつ、まさに「イメージの時代」である。時としてイメージが恐るべき≪魔語≫となる可能性が十分にあることを、心に留めておかなければならない。

 

まず、「朝日新聞」に登場した二つの記事に注目したい。

 

最初のものは、2002年12月26日号の「世界発2002」シリーズの一つで、「宗教放送(全米家族ラジオ─ARE)で公共ラジオが聞こえない─疑惑の電波乗っ取り」というアメリカのことを取り上げた記事である。

 

この記事の焦点は、「全米家族ラジオ」が「保守的キリスト教」の活動であるという事実に集められている。具体的には「公共ラジオ」(NPR)の≪リベラル色≫を嫌い、メディアの暴力や性描写の規制、家族の価値の強調、人工中絶反対など、伝統的なキリスト教道徳・倫理の強調。「神のためだ」となんでもごり押しする恐ろしい戦闘的姿勢。様々な考え方を認める度量を失わせる運動。そして最終的にはこのような宗教右派がブッシュ政権の支持基盤であるという想定である。どの一つをとっても、すべてネガティブなイメージを与える書き方ばかりである!

 

二つ目は、昨年の6月1日号の「アメリカ政治と宗教」というタイトルの記事である。これは蓮見博昭氏(恵泉女学園大学)の大変情報豊かな『宗教に揺れるアメリカ』(2002)と関連させたものである。

 

これも、ご多聞にもれず、焦点はブッシュ政権の政治観と「ネオ・コン(新保守主義──強いアメリカを目指す政治家・知識人から成る共和党系のイデオロギー集団)」、そしてその支持基盤とされている「キリスト教右派」(バプテスト派のジェリー・ファルウェルの「道徳的多数派」などを含む非エリート、タカ派的、好戦的なアメリカ原理主義・福音派──2000年の大統領選でブッシュ氏の全得票数の32パーセントを占めた)が批判に置かれている。

 

その政治観・価値観は、おおよそ次のものとされている。米国を地上で最も偉大な国とみなし、神の加護を受ける特別な使命を託された選ばれた国とする考え方、世界を敵か味方かに二分する世界観、そして米国の価値観を絶対とし、他国に縛られることを嫌う単独行動主義と十字軍主義であると批判されている。

 

一つ指摘しておきたいことは、蓮見氏によるとするアメリカ教会の分類図は、必ずしも今日の実態を正確に描写しているものとは言えない。たとえば「主流派」に分類されているメソジスト、聖公会、ルーテル派、長老派の中に、実際には福音的な信仰を持っているかなりの信徒が依然存在しており、また≪福音主義の復活≫(Evangelical renewal)を進めている諸運動組織も活動中である。ロナルド・ナッシュ編『主流派諸教会における福音主義の復活』(1987)は、それを裏付けている当事者たちによる生きた証言集の一つでる。この類の文書は、残念ながら日本のエリートたちの調査や文書資料からはまったく見落とされている!

 

「読売新聞」も例外ではない。今年の2月18日号で≪宗教を考える≫シリーズの中に登場した「教えを相対化する勇気──原理主義の克服」という記事をみてみよう。

 

これは、昨年、同志社大学神学部にイスラム学者が三人加わったのを機に、同科の研究者たちを中心に設立された「一神教学際研究センター」をめぐるものである。

 

センター長の森孝一氏による設立の目的と中心課題が次のように紹介されている。

 

十字軍や植民地支配などを巡り、欧米、中東の一神教の国々には歴史のしがらみがある。日本はそのいずれからも外にあり、三つの一神教(キリスト教・ユダヤ教・イスラム教)の「仲介者」として、役割を果たせないか。

 

つまり、ただ、「多神教=平和的・共存的」「一神教=戦闘的・独善的」という図式を描いて、「多神教こそが一神教文明に対する解決策」と安易に発想することは避けるという。一神教世界の人々に一神教はダメだからやめなさいというのは、「あなたのお母さんはダメだから替えなさい」というのと同じ。そう言わずに対話の場を提供し、彼らの伝統の中から平和共存の道を探求したいということである。

 

その際に、避けられないのが「原理主義」の問題とその克服であるとみている。神を絶対的に信頼し、人間がつくったものとしての「宗教」を含め、神以外のすべての事柄の相対化が必須とみる。

 

原理主義者の特徴は、真理はすでに分かっていて、聖典にすべて書かれていると思い込むことだという。そうならないためには、自分がこれまでに受け入れてきた教えを自分で一度相対化し、真理は簡単に得られないと思い直す勇気が求められる。また信仰の異なる他者との出会いの中で、社会がいかに「礼節」を育てるかも重要となるだろう、ということである。

 

克服の一つの要とも言えるものとして、大貫隆氏(東京大学)が『イエスという経験』(2003)において表明したイエス論も重視されている。それによると、「イエスは『神は言われる』という言い方はしなかった。神の権威を持ち出さず、『私は言う』と自分の名前と責任で語った」と指摘し、≪神の名の下に≫戦いを仕掛けるという生き方に疑問を投げかけた、ということである。

 

以上の主張の中からは、キリスト教を一般の宗教史のうちに取り込み、≪歴史とともなる≫キリスト教の弁証を試みたかのエルンスト・トレルチの歴史的相対主義のエコーや、ジョン・ヒックの宗教多元主義のエコーが響いてくるように思われる(拙著『総説現代福音主義神学』2002参照)。また、森氏はファンダメンタリズムの群を「セクト的」(異端宗派!)と規定している事実も付記しておきたい(M・エリクソン『キリスト教神学』第2巻、2004所収の筆者による「監修者あとがき」参照)。

 

「今日、自分は原理主義の反対者だと言えば、社会において広範な賛助を得るだろう」というフートの言葉(『原理主義』42頁)が、ふと頭をかすめる!

 

第3回 エバンジェリカルをめぐって─アメリカ教会と日本教会

 

前回はマスコミによる“ブッシュたたき”と、その支持基盤とされているキリスト教ファンダメンタリズム(原理主義)、および福音派批判の状況を垣間見た。今回は、問題視されてきているアメリカ人の宗教意識と教会について、ごく基本的なことを確認した上で、日本のキリスト教界の反応・見方に少々注目したい。

 

1981年に実施された『宗教に関する関心度』を1.教会出席率、2.神を信じるか否か、3.日常生活における神信仰の重要性、4.死後の世界を重要視しているか否か、5.心の安らぎを宗教から得られるか、6.宗教は人々の求めに答えているかの六点で調査した結果、フランスでは肯定的な回答が32%であるのに対し、アメリカの場合は実に67%という結果になった。

 

また、87年の『宗教は大切か』という調査では、「非常に大切」が54%、「かなり大切」が31%と答え、それまでの傾向と比較して、宗教への関心度のカーブは上昇線を描いている(G.ギャラップ─ギャラップ社の代表の彼は、福音派の「クリスチャニティ・トゥディ」誌のインタビューで、自分が聖公会の福音派に属していることを明言している─他篇『民衆の宗教─90年代におけるアメリカ人の信仰 』1989)。

 

ちなみに日本人の宗教観は、以上のようなアメリカ人の場合と比較すると、きわめて対照的である。

 

読売新聞社の「宗教」に関する全国世論調査(2001)では、幸せな生活を送るうえで宗教は「大切である」が34%で、「そうは思わない」が62%となっている。また、何か宗教を「信じている」という人は22%、「信じていない」は77%、神や仏が存在すると思う人は40%という結果が出ている。

 

アメリカの宗教別の信者数の割合はどうかと言うと、プロテスタント57.8%、カトリック25%、ユダヤ教2.3%、その他の宗教8%、無宗教6.9%という数字が出ている(「クリスチャン・センチュリー」誌、1989年2月15日号)。

 

プロテスタントにしぼって今日の状況を見ると、まずリベラルなメイン・ライン(主流派)の教会の場合、そのほとんどの教会が信徒の減少傾向を示している。

 

1989年5月22日号の「タイム」誌によると、合同キリスト20%、長老25%、聖公会28%、合同メソジスト18%、ディサイプル派43%の減少となっている。そこでは、伝道の情熱は消え、信徒は積極的な教会活動から遠ざかる傾向がより顕著になってきていると指摘されている。

 

これらのメイン・ライン教会の傾向とは対照的に、ファンダメンタリズム・福音派の諸教会は、ほとんど例外なく復興と上昇線を描いてきいている。アメリカN.C.Cの要職にあったディーン・ケリーの『なぜ保守派の教会は成長するのか─宗教社会学上の一考察』(1972)は、そのことを物語る1958年から70年までのデータを公表している。この書における分析は宣教論上、大変有意義である。

 

『アメリカ・カナダ教会年鑑』の1980年版によると、筆者が所属する日本長老教会と協力関係を持っているアメリカ長老教会(保守系が合同して1973年に設立)は、当時実に11.9%の成長率を示している! 現在は全般的に鈍化の傾向にある。

 

6月号で紹介したハロラン芙美子氏の『アメリカ精神の源』(1991)によると、今日、実に人口の25%、数にして4千万人から5千万人がファンダメンタリズムあるいは福音派系のクリスチャンであるといわれている。

 

従来「インディアンの保護区的存在」(やがて徐々に消滅して行くものの意)と冷ややかにあしらわれてきた経過から考えると、これは特に伝道の面から検討に価する一つの注目すべき現象であると言わざるを得ない! 

 

メイン・ラインに属する福音主義者のドナルド・ブローシュ(ドビューク大学)が、すでに1973年の時点で『エバンジェリカル・ルネッサンス』を著したことは、きわめて印象的かつ示唆的であったと言える。

 

一方、日本の教会事情はどうなのだろうか? 詳細な分析・調査は今後の課題であるが、ファンダメンタリズム系や福音派系の諸教会の由来とその歴史的展開についての通史は、中村敏氏による『日本における福音派の歴史─もう一つの日本キリスト教史』(2000)によって明らかにされている。

 

また、たとえば、日本福音同盟(JEA)による『はばたく日本の福音派』(1978)や『地に住み、誠実を』(2003)をはじめ、1974年(第二次大戦後の最大規模のキリスト教会議と評された「ローザンヌ世界伝道会議」が開かれた年。公表された「ローザンヌ誓約」は、今日の世界の福音派の基本姿勢を証ししている重要文書)より最近までに開かれた4回の「日本伝道会議」は、日本の福音派の成長とその軌跡の重要部分を立証している。

 

ところで、日本の教会と宣教の現在と将来を考える際に、より慎重な検討を求められる一つの問題は、いわゆるメイン・ライン教会(日本基督教団など)のファンダメンタリズムや福音派に対する見方ではないかと思う。

 

ここで二つの文書に目をとめたい。一つは“批判”と“拒絶”を表明している栗林輝夫氏(関西学院大学)の『ブッシュの「神」と「神の国」アメリカ』(2003)と、他は“積極的な見方“と“一定の評価“を表明している古屋安雄氏の『日本のキリスト教』(2003)である。

 

 

前者の主張の中心点はと言うと、アメリカの政治は今や「一握りのプロテスタント狂信主義者の手に握られてしまった」。「ブッシュ政権を理解するためには、福音派の主だった教義を知っていなければならない」。その神学は「粗雑で、危険な、反知性的な国家護持の神学」である、ということである。

 

具体的には、聖書を誤りのない啓示の書とする、長くピューリタンたちによって保持されてきた神の選びと主権を強調するカルヴァン主義神学、神の国の“今”と“キリストの法”という視点に立つ文化・社会・政治のキリスト教的再建運動(同窓の友人たちの名も登場する!)、進化論に反対する創造主義、反イスラム十字軍主義、親イスラエル・ハルマゲドンの世界戦争・キリストの再臨を強調しつつ黙示録的メシア主義を特色とするディスペンセーション主義(ハル・リンゼイやティム・ラヘイなど)、分離主義、ビリー・グラハムの影響などが、批判的かつ拒否的にふれられている。

 

ブッシュ政権の“在り方”については大いに論ずべきであるが、ことファンダメンタリズム・福音派に関する著者の見方は、従来から日本のメイン・ラインの教会の中に広く流通してきたものの反復にほかならない。結局、忌避・拒絶以外の何物でもない。

 

以上のようないわば“定説”とも言えるネガティブな見解とは対照的な“稀なる見解”が最近登場している。それは、一定の理解と評価をともなった古屋安雄氏(聖学院大学)の見解である。

 

 

古屋氏は前掲書の中で、一章を「日本の福音派」にあてている。種々問題を論じながらも福音派の成長に注目し、「日本においても福音派に期待するのである。日本基督教団をはじめとするいわゆる主流派の諸教会がいつまでも混迷と混乱のなかにあるならば、福音派の諸教会がそれこそ〈主流〉となる日がやってくるかもしれない」と“オープンで前向きな見解”を披瀝している。

 

かつてウィリアム・ホーダーンは、エバンジェリカルはリベラルなものを一生懸命学ぼうとするが、その逆はほとんどみられないと指摘したことがある! また、プリンストン大学の社会学者ロバート・ウスナウは「リベラル派と福音派の両者とも、互いに相手の最も悪い面ばかりを前面に押し出し、それぞれの“よい部分”をまったく見ようとしない」とも批判している(『アメリカの魂のための闘い─福音派・リベラル派・世俗主義』(1989)。日本のキリスト教界はまさにその典型である!

 

最終回 後退し続ける"閉じられた" 日本の教会

 

昨年、アメリカ社会思想史の古典と高評(1964年ピュリッツアー賞受賞!)されている一冊の書物が邦訳出版された。それはリチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』である。これは滞米中の1963年に手にした、筆者にとっては大変懐かしい一冊である。

 

 

著者は18、19世紀の歴史的経験にさかのぼるとしながら、過去と断絶して新大陸へ渡ったアメリカ人の反権威主義とあいまって、根強い”反知性”の伝統が作り上げられていったと論じている。

 

特に関心をひかれたのは、その要因の一つに”福音主義の拡大”をあげている点である。この本が今や流行となっている”反ファンダメンタリズム””反エバンジェリカル”のムードや潮流に、どう作用するかが見物である。

 

前回”批判・拒絶”の見方が支配する日本のキリスト教界の中に、”一定の理解と評価”を示す”オープン”な見方があることを指摘した。実は、アメリカではそのような見方はすでにいろいろと登場してきている。

 

その一例を挙げると、マーチン・マーティ(シカゴ大学)がいる。彼は、たとえば『アメリカの教会の現実と使命──プロテスタント主流派・福音派・カトリック』(邦訳1990)の中で、「パブリック・チャーチ(公共教会)」ということを訴えている。

 

 

この中心は、市民的・社会的・政治的領域における「共同善」と「公民の義」とを形成するための「公共宗教」である。提唱の一番の動機は、アメリカのキリスト教会における士気と使命感の衰退の危機である。

 

この「公共教会」には、プロテスタント主流派、福音派、カトリックの諸教会の相当部分が含まれる。具体的には、「公共宗教」という基盤以外、それぞれの教会の伝統や実践の内的統合は崩されないという。一種の「宗教共同体の共同体」と言えよう。

 

「公共教会」そのものに関しては、多くの議論(R・ピラード『アメリカの市民宗教と大統領』邦訳2003)があろうと思うが、特にここで関心をひく一点は、マーティの福音派に対する”見方と接し方”である。彼は「信仰者は自分たちのキリストへのコミットメントを様々な仕方で把握する」という事実を認めた上で、「公共教会」の形成のために「共生(シンビオテース)」の関係を根幹的なこととして強調している。

 

その際、彼は「すべての福音主義者を一つの型に押し込めようとしている」、「福音主義キリスト教の豊かさを正当に取り扱っていない」と指摘しながら、後退し続けるメイン・ラインの教会の在り方を批判している。実は、この書を著わした時期に、マーティはファンダメンタリズムや福音派の研究に取り組んでいたのである! 日本では拒否反応ばかりで、このような声はメイン・ラインの教会のどこからも聞こえてこない!日本のキリスト教界は、神学エリート支配の”閉じられた世界”と言うべきか?

 

最後にファンダメンタリズム・福音派自身に目を向けて結びたいと思う。

 

まず、北米における構成であるが、ロバート・ウェバー(ホイートン大学)の分析(『共通のルーツ─福音派の成熟への呼びかけ』1978)を基礎として、おおよそ次のように理解することができよう。

 

戦闘的ファンダメンタリスト福音主義─アメリカ・キリスト教会協議会(ACCC)、ポップ・ジョンズ大学、C・マッキンタイアー。

 

ディスペンセーション主義系の福音主義─ダラス神学校、ムーディ聖書学院、H・リンゼイ、「モラル・マジョリティ」。

 

保守的福音主義─ホイートン大学、トリニティ神学校、ゴードン・コンウェル神学校、デンバー神学校、サウスウェスタン・バプテスト神学校、全米福音主義同盟(NAE)。「クリスチャニティ・トゥデイ」誌、ビリー・グラハム、C・ヘンリー、M・エリクソン。

 

無教派的福音主義─ミリガン大学。

 

改革派系の福音主義─カルビン大学・神学校、ウェストミンスター神学校、カベナント神学校、リフォームド神学校、F・シェーファー。

 

アナバプテスト系の福音主義─ゴーシェン大学、リーバ・プレイズ・フェローシップ、J・ヨーダー。

 

ウェスレアン系の福音主義─アズベリー大学・神学校、シアトル・パシフィック大学。

 

ホーリネス系の福音主義─リー大学、ナザレン教会。

 

ペンテコステ系の福音主義─神の教会、アッセンブリー・オブ・ゴッド教会。

 

カリスマ運動系の福音主義─オーラル・ロバーツ大学、パット・ロバートソン。

 

黒人福音主義─全米黒人福音主義同盟(NABE)。

 

進歩的福音主義─フラー神学校、リーヂェント大学、C・ピノック、D・ブローシュ。

 

急進的福音主義─「ソジョナーズ」誌、「ゼ・アザ・サイド」誌、R・ケーベドーと青年福音主義、S・グレンツ。

 

メイン・ライン教会内の福音主義─メソジスト、ルーテル、長老、聖公会、バプテスト等の諸教会内の福音派。(R・スターク、C・グロック編『アメリカ人の信仰』一九六八、ナッシュ編『前掲書』参照)。

 

以上のように、歴史的、神学的、文化・社会的の3面から14の「二次文化集団」からなると見られる。政治学者のロバート・ファウラー(ウィスコンシン大学)は、「一枚岩的統一の状況」ではないと指摘している(『新しい取り組み─1966~1976におけるエバンジェリカルの政治思想』1982)。

 

また、『リバイバリズムと社会改革』(1970)で知られるティモシー・スミス(ジョンズ・ホップキンズ大学)は、「一つのモザイク状況」と表現している(ジョージ・マーズデン編『福音主義と近代アメリカ』1984)。”画一化”は正しい見方とは言えない。

 

ここで、アメリカのファンダメンタリズムや福音派自身が、現在何を取り組むべき課題と考えているかについて注目したいと思う。

たとえば、昨年三月に、『キリスト教神学』第一巻の邦訳出版を記念して来日されたミラード・エリクソンは、『福音派の知性と心』(1993)の中で次のような見解を主張している。 

彼は、福音派やファンダメンタリズムに対する批判・不評の問題(例・テレビ伝道者たちの倫理問題や「ネオ・コン」との強い結びつき)と、一部の福音派に見られる現代文化およびこの世的なライフ・スタイルへの”順応”傾向や、福音主義の伝統的な諸教義の”再解釈”の動き(社会学者でヴァージニア大学のジェームス・ハンター『アメリカの福音主義─保守的宗教と近代性の当惑』1983と『福音主義─台頭しつつある世代』1987参照)を念頭に置きながら、具体的に次の点を提唱している。

 

1.キリスト教と世俗的文化との相違・対立の問題をさらにしっかりと掘り下げる。

2.何をもって”聖書的”と言うのかを、現代の神学思潮を注意深く考察しながら十分に検討・検証する。

3.そのために、聖書解釈学の確立が求められる。

4.人間中心主義と”ミーイズム”の時代の中で、真の意味での神中心主義への復帰と確立が必須の課題である。

5.個人・社会の罪の問題を真剣かつ誠実に受け止める。

6.不評・批判を真摯に受け止め、つねに成熟のための自己批判を忘れないこと。

7.自己の信仰告白とコミットする信念体系の真実性を再確認し、福音宣教につくす。

8.今一度、キリスト者としての自己のライフ・スタイルと霊性を点検し、同時に社会的責任を誠実に果たしているかを吟味・確認する。

9.ポスト・モダニズムを含む現代の諸思想と今日的な価値観の影響下にある教会の ”若年層”の信仰的コミットメントの維持・発展に、教会は特別な祈りと努力を傾注する。

10.福音主義キリスト教の ”ルーツ”とその”よき遺産と伝統”を再確認し、再強調する。

 

われわれもこころして受け止めたいものである。

 

*1:C.I. Scofield, Scofield Bible Correspondence Course (Chicago, Moody Bible Institute,n.d.), pp45-46.

*2:〔関連記事〕聖書の「字義的」解釈について

*3:Kathy Kern, ‘Blessing Israel? Christian Embassy Responds’ Christian PeacemakersTeam, Internet:menno.org.cpt.news@MennoLink.org 2 November 1997.Y

*4:Lindsey, 1980’s, op.cit., p68.

*5:Lindsey, Planet, p216.

*6:Lindsey, Chapter 1 of The Final Battle,(Palos Verdes, California, Western Front,1995), is entitled ‘The New Islamic Global Threat’, p1.

*7:Lindsey, Late, op.cit., p160.

*8:Lindsey, Apocalypse, op.cit., p153.

*9:Lindsey, Briefing, op.cit., 7th January (1999).

*10:M. R. DeHann, Revelation, 35 Simple Studies in the Major Themes of Revelation(Grand Rapids, Zondervan, 1946), p148.

*11:Lindsey, There’s, op.cit., pp142-143.

*12:Tim LaHaye & Jerry B. Jenkins, Are We Living in the End Times?, (Wheaton, Tyndale House, 1999), pp190-192.

*13:〔訳者注〕ちなみに、2テサロニケ2:3のapostasy(背教)は、「背教」ではなく「出発」と訳すべきであり、この語は、教会のラプチャーを示しているという新説を事実上はじめて公に唱え始めたのも、シュイラー・イングリッシュ氏です。1954年の事です。その後、この新説は1999年にウェイン・ハウスの論文の中で再興しました。しかしながら、患難前携挙説推進者の大半はこの新説を拒絶しています。詳しくは以下の記事を参照ください。

*14:Schuyler English, New, op.cit., p1334.

*15:Lindsey, There’s, op.cit., p143.

*16:William Hendrikson, More than Conquerors (London, Inter-Varsity, 1962). p40-41.

*17:C.I. Scofield, Scofield Reference Bible (New York, Oxford University Press, 1945), p.890.

*18:The New Scofield Reference Bible ed. E. Schuyler English (New York, Oxford University Press, 1967), p. 864.

*19:Cornelis P. Venema, The Promise of the Future (Edinburgh, Banner of Truth, 2000), p.285.

*20:Venema, Promise., p. 288.

*21:Clarence B.Bass, Background to Dispensationalism (Eugene, Oregon: Wipf & Stock, 2005), pp.ⅰ-ⅲ. Wayne Grudem, Systematic Theology (Nottingham: InterVarsity Press, 1994), pp.859-863 に、ディスペンセーション主義聖書解釈の三類型とその変遷の記述がある。

*22:〔訳者注〕関連記事: 

*23:Bass, Background to Dispensationalism, p.21 において、バスは「ディスペンセーション主義の成長は聖書の権威に対する合理主義の立場からの攻撃の増大と並行して起こった。その成長へのはずみは、聖書は神のことばとして文字通りに解釈されなければならない、決して霊的に解釈されてはならないという一貫した主張であった」と記している。

*24:Grudem, Systematic Theology, p.863 において、グルーデムは漸進主義ディスペンセーション主義者と他の福音主義との間に残された相違に関し、「ディスペンセーション主義者は、教会がイスラエルに関する旧約聖書預言の多くの適用の受領者であるとする。しかしそれらの約束の真の成就は今なお民族としてのイスラエルの未来においてもたらされるという点を許容する。」しかし、教会へのそれらの約束について、教会が唯一無二の成就であることを否定するいかなる強固な理由も存在しないと記している。Vern S. Poythress, Understanding Dispensationalists (Phillipsburg, New Jersey: Presbyterian and Reformed, 1987), p.137(日本語訳ココ)において、ポイスレスは、古典的立場から修正主義へ、さらに漸進主義へと変遷しているディスペンセーション主義の将来を、ついには「G.E.ラッドが手本として提示している契約主義プレミレニアリズムに安らぎの港を見出すことになる」と予測している。筆者は、その理由として、聖書神学が基本構造としてもつ「神の国の概念、その現在性と未来性の構造」がもたらす必然的結果であると考える。後千年王国説、無千年王国説、歴史的(契約主義)前千年王国説は、現在面と未来面の強調点等の些末な相違はあるものの、この「神の国の神学」の基本構造の認識を共有している。G.E.ラッド『神の国の福音』(聖書図書刊行会、1965年)は、このテーマに関する良き入門書である。

*25:John Walvoord, The Millennial Kingdom (Grand Rapids, Michigan: Zondervan, 1959), p.71.

*26:Ladd, The Last Things, p.24.

*27:日本における「ユダヤ人伝道」関係には、ローザンヌ・ユダヤ人伝道・日本支部(LCJE)の交わりがあり、ハーベスト・タイム・ミニストリーズミッション・宣教の声ライフイン・メサイヤシオンとの架け橋、アルコ・イリス・ミニストリー、ハティクバ・ミニストリーズ等の参加がある。ユダヤ人伝道関係でバランスのとれた小冊子として、誰もが知りたいローザンヌ宣教シリーズ No.60『ユダヤ人伝道―教会への使命―』(関西ミッション・リサーチ・センター、2006年)がある。また、日本リバイバル同盟(NRA)は、イスラエルに本拠地を持つトム・ヘスの Jerusalem House of Prayer for All Nations の働きに呼応し「祈りの祭典」や、「エンパワード21ムーブメント」に関わるようになっている。

*28:『LCJE JAPANジャーナル』2009年10月 Vol.1には、契約主義的プレミレニアリズムの立場に立つトニー・ヒグトンの「キリスト教シオニズムの不適合な要素」に対する批判とJ.R.プライスの幾つかの反論、そしてその反論へのヒグトンの応答がある。私も共感できるヒグトンのこの立場は、G.E.ラッドやM.J.エリクソンと近いものがある。

*29:Sizer, Christian Zionism,(PDF)p.255.

*30:関連団体等の参照。CMJ (Church’s Ministry Among Jewish People), CWI (Christian Witness to Israel), JFJ (Jews for Jesus), AMFI (American Messianic Fellowship International), DTS (Dallas Theological Seminary), ICEJ (International Christian Embassy Jerusalem), BFP (Bridges for Peace).

*31:キリスト教シオニズムの「聖書、選民、帰還、エルサレム、神殿、未来」等に関する特異な神学的強調に関しては、Sizer, Christian ZionismPDF), pp.106-205 また、idem, Zion’s Christian Soldiers? の全編にわたって詳しく解説されている。

*32: O.Palmer Robertson, 'A New-Covenant Perspective on the Land', in Johnston and Walker (eds.), Land of Promise (Leicester: Apollos, 2000), p.140.

*33:Middle East Council of Churches, What is Western Fundamentalist Christian Zionism?(Cyprus: Middle East Council of Churches, 1988), p.13.

*34:Kenneth Cragg, The Arab Christian (London: Mowbray, 1992), pp.237-238.

*35:左派の労働党と並ぶ、イスラエルの二大政党の一つ「リクード」には、領土拡大(大イスラエル主義)と国家のユダヤ性の保持(ユダヤ人多数派の確保)という党是がある。森まり子『シオニズムとアラブ―ジャボティンスキーとイスラエル右派―』(講談社、2008年) 234頁

*36:ジョン・ハジーは、「聖書はきわめて親イスラエルの書物である。もしクリスチャンが『私は聖書を信じている』と認めるなら、私は彼を親イスラエル支持者とすることができる。あるいは彼らの信仰を非難しなければならないことになる」(Sizer, Zion's Christian Soldiers?), p.11と語る。

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しかし、そのような聖書観は正しいと言えるのだろうか?モルトマンは、イスラエル国家建設がイスラエルに対する祝福とともに、パレスチナから排除された人々に呪いとなっているという両義性に言及し、「ユダヤ人も、究極的に、…その土地とシオンを越えて、来たらんとする神とその贖おうとする御国を待望するであろう」と書き記している。ユルゲン・モルトマン『聖霊の力による教会』(新教出版社、1981年)224-225頁

*37:〔訳者注〕

*38:Sizer, Christian Zionism, p.260.

*39:ラッドとサイザーの「旧新約の啓示の連続性・漸進性・有機的一体性」を主張する契約主義の側面を理解する良き資料としては、ヴォスの二冊の著作、Biblical Theology (Grand Rapids, Michigan: Eerdmans, 1988)とPauline Eschatology(Phillipsburg, New Jersey: Presbyterian & Reformed, 1986)があり、創造から再創造に至る視野の中における特別啓示の歴史性、有機性、多様性が主張されており、これらの三要素を考慮して聖書神学は、歴史的一貫性、また多様性における超自然的な啓示の有機的展開の提示と定義される。

*40:Donald E.Wagner, Anxious for Armageddon (Scottdale, Pennsylvania: Herald Press, 1995), p.81に引用されたストットの見解

*41:Jerusalem Sabeel Document: Principles for a Just Peace in Palestine-Israel (2004). http://www.sabeel.org (参照 2014-9-30) は、この文脈を理解する上で参考になる文書である。

*42:Sizer, Christian Zionism, p.263