巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

原理主義でもない、懐疑主義でもない、リベラル主義でもないポスト近代における公同的伝統キリスト教への展望【ジェームズ・K・A・スミス選集】

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目次

 

痛みと傷からの再生――原理主義でもない、イマージング風リベラル主義でもない公同的キリスト教への模索と探求(回想)

 

James K.A. Smith, The Fall of Interpretation--Philosophical Foundations for a Creational Hermeneutic, 2nd Edition, 2012(抄訳)

 

予期せぬ出会いと目ざめ

 

本書(The Fall of Interpretation)の内容の大半は、1995年春に提出した修士論文を基にしています。私は当時24歳でした。それに先立つ5年間、本当にいろいろな事が起きました。

 

18歳の時に私はキリスト信仰を持ち、それから一年もしない内に、バイブル・カレッジに向かいました。牧会ミニストリーに携わる決心をしたからです。しかし不思議なことに、入学したプリマス・ブラザレン伝統のこの頑丈なディスペンセーション主義聖書学校の中で逆に私は、哲学および改革派の伝統に巡り合ったのです(フランシス・シェーファーとアルヴィン・プラティンガの著述にそれぞれ異なった仕方で組み合わされていました)。当時は知る由もなかったのですが、これら二つの発見が後々人生におけるさまざまな傷をもたらし、その痛みの中から本書が生まれました。

 

イマヌエル・カントがかつて、「デイビッド・ヒュームによって自分は‟独断的まどろみ”から目を覚まさせられた」と言ったことは有名です。そして自分にとって、キリスト教神学内に存在する改革派の伝統を発見したことは、同じような覚醒コールとなりました。解釈学的に言って、それが覚醒コールだったのは、改革派伝統の内容ゆえというよりはむしろ、改革派伝統というものを発見したことにより、私は、「複数の解釈伝統が存在する」という現実に目を覚まさせられたからです。

 

信仰の入り口――プリマス・ブラザレンの教会

 

私にとってのキリスト教信仰への入り口は、プリマス・ブラザレンを通してでした。オンタリオ南部にある小さなブラザレン集会で説教を聞いて私は信仰を持ちました。そこでは聖書預言と終末のことが熱心に語られていました。そこには私のガールフレンド(現・妻)の家族の愛にあふれた奉仕がありました。妻の家族は元々ペンテコステの背景を持っており、その後、プリマス・ブラザレンに移ってきていました。

 

ですから、クリスチャンになったばかりの自分にとって、キリスト教というのは、これらの「聖書の人々」を通して自分が福音と理解しているものーーでした。そして自分の属するこの共同体の慣習、諸実践、そして集団としての自己理解といったものにより、「自分が今学び吸収しているものは、‟人間の伝統”によって歪曲されず、未ろ過にして汚れなき純粋な福音に他ならないのだ」という意識が着実に芽生えていきました。

 

自分たちのセクターもまた一つの ‟伝統” であることに対する気づき

 

しかし改革派伝統など、キリスト教世界に存在するその他さまざまなセクターを発見していく中で、私は次第に気づくようになっていきました。そう、プリマス・ブラザレンを通して教会に参入するということにより私は、(自分たちのセクターもまた一つの‟伝統”であるということに対する自覚のない) 一つの伝統に導き入れられていたということを。

 

実際、プリマス・ブラザレンではしばし「人間の伝統*」に対する公然たる非難がなされ、それゆえ、(それに対峙するところの)「聖書に立ち返る」重要性が叫ばれていました。そしてここで含意されていた「聖書に立ち返る」とは、聖書を「解釈」するよりもシンプルに「読む」という原始主義(primitivism)でした。

 

直接性による解釈の存在に気づく

 

要するに、私はひそかにそして無意識の内に、いわゆる「直接性による解釈(hermeneutics of immediacy)」と呼ばれているものの中に加入していました。(「直接性による解釈」は、自分自身が一つの解釈であるという事実に対しまったく無自覚です。)*1

 

ですから、キリスト教内に存在するこういった相違に対する最初の経験により、私は、人が避けるのことのできない解釈や伝統のリアリティーに対し目を覚まさせられたのです。

 

それで、、想像に難くないと思いますが、私はなにか騙されたように感じました。実際、ファンダメンタリズムから生まれてきた運動の多くは、こうしたリアリティーの諸側面を効果的に隠してきました。そしてひとたび現実の諸側面が露呈するや(この場合でいうと、‟リアリティー”というのは常に、すでに仲介mediatedされている、ということが露呈するや)、次の問いが心の中から溢れてきました。「それでは、あなたがたはこれまで何を隠そうとしてきたのか?」と。

 

この発見は、単にアカデミックなものではありませんでした。続く数年の間、私は南西オンタリオにあるあちこちのブラザレン集会で説教奉仕をしましたが、そこで実存的レイヤーが次第に複雑さを増していきました。そして次のような状況が発生してきました。つまり、上に挙げたような解釈学上の洞察により、私の説教から人々は、「ブラザレンの諸特徴は、一つの解釈学的伝統から生み出されし実である」というような旨を聞き始めたのです。(しかも私は、「うちの教派の伝統は、比較的新しく、斬新なんですよ」ということも会衆の皆さんにお話していました!)。

 

そうすると、各種の集会において私はどんどん疎まれていくようになりました。長老会にも呼び出されるようになりました。一度は集会の長老たちがわが家に来られ、私と妻をジュージューグリル焼きにしましたよ。辛かった。

 

ここで問題になっていたのは、さまざまな神学的立場の内容/実体(substance)というよりはむしろ、そういった立場に付与される地位(status)に関するものでした。長老たちが気分を害された理由は、私が、「‟私たちの” 神学的立場は、もしかしたら ‟あるがままの事象” という純粋なる蒸留液というよりはむしろ、解釈的伝統や慣習から生み出された実なのかもしれないと思います」というような事を言っていたことに起因していました。母校のブラザレン系バイブル・カレッジの先生方からも何通か警告の手紙が届きました。その中の一人は私のことを「イスカリオテのユダの生徒」と表現していました。

 

哲学的な解釈学にも助けられる

 

このストーリーにはもう一つ別のレイヤーもあります。キリストのみからだの中に存在する一連の解釈的諸伝統に対する理解が深まっていく中で、私はまた哲学的な解釈学(マルティン・ハイデッガー、ハンス・ゲオルグ・ガダマー、ポール・リクール、そして彼らの‟ラディカル主義”バージョンである、ジャック・デリダやジョン・カプトー等)にも触れていくようになりました。そしてこういった哲学的枠組みは、キリスト教界内に存在する解釈的相違との出会いの中で自分がすでに経験していたことに名前を与え、分析する上での助けとなりました。

 

以上のような道程から、なぜ、どのような形で、本書がポスト原理主義的な本であるのか、みなさん、理解していただけるかと思います。もしもこの本の中に、〔原理主義の過ちを〕暴露するような脱構築的様相があるのでしたら、読者のみなさん、どうか、それは若き日の自分のがむしゃらさと未だ癒えていない痛みの混ざったものであると御堪忍くださるよう、お願いもうしあげます。

 

さて、ここからどこに向かおうか?ーーポスト原理主義者の旅立ち

 

しかし、もちろん、ポスト原理主義者としてのあり方は多様です。というのも、仮にファンダメンタリズムからの脱却条件の一つが、自分たちの解釈学的状況性(hermeneutic situatedness)に対する認識にあるのだとしても(つまり、私たちの有限性や、いかにして世界に対面しテキストを解釈するのかにあたっての ‟伝統化(traditioning)” に対する不可避性を認めることにあるのだとしても)、その認識自体は、私たちがそこから具体的にどこに出発していくかを特定はしていないからです。

 

ポスト原理主義者は、聖書が天からぽーんと降ってきた本ではないということを認識するようになっており、また、世界に対する自分たちの ‟見方” は、解釈共同体や諸伝統によって私たちに伝承されてきたものの総体であるということを認識するようになっています。さらに、そういった諸解釈は競合しており、また競合可能であるということも私たちは知るに至っています。「分かりました。ジェームズさん。で、私たちはここからどこに向かうのでしょうか?どこに向かうことができるのでしょうか?」

 

二つの道

 

① ‟イマージングな” 偽謙遜の道

 

ここには二つの道があるように思われます。一つは、あきらめ、媒介された現実に投降する事を通した偽謙遜の道です。ーーこの道は、未だにハイパー近代を引きずっています。なぜなら、それは今もって ‟手つかずの無垢なる純粋性” および ‟直接性(immediacy)” という理想に憑りつかれているからです。こうして、それに欠如しつつも、未だにその亡霊に憑りつかれた状態にあって、私たちはあてもなく彷徨い、知識なく、不確かで、それゆえ臆病です。個別性というスキャンダルにしりごみし、そして自らの伝統のコンティンジェンシー(不確定性)を恥じる思いもあって、私たちはどんな主張に対しても消極的になっていきます。*2

 

そうしますと、数学的確実性を伴うルネ・デカルト的認識の仕方を拒絶した私たちに残っているのは結局、懐疑論者ピュロンに追従し、「われわれは何も知ることできない」と信じること以外に他に道がないように思われます。

 

② 公同性への道

 

二番目の道は解釈の普遍性(ubiquity)を認識し、それをノスタルジーや恥じらいなしに認める道です。

 

啓蒙期の理想である ‟客観性” に憑りつかれることを拒みつつも、この道は私たちに、「偽りの謙遜という旗印の下に潜む主観主義や臆病さに降参するように」とは私たちに要求してきません。

 

つまり、自分たちの具体化や有限なる特定性に憤慨することなく、また自分たちの ‟伝統” の解釈学的特定性を認めつつ、二番目のこの道は、個別性のスキャンダルを受け入れています。――自らの伝統を認め、罪責感や羞恥心なく自分が特定の解釈共同体の一員であることを認めつつ。

 

まとめ

 

換言しますと、ポスト原理主義者のあり方には二通りあるということです。一つはイマージング・チャーチ・ムーブメント的なあり方。そしてもう一つは公同的(catholic)なあり方です。

 

前者は未だに直接性(immediacy)の亡霊に憑りつかれ続けており、それゆえに、その特殊性の内にある解釈的伝統の持つ特定性に決して心地良さを覚えることができません。

 

それとは対照的に、後者は、ニカイヤ信条に基づく伝統の持つ ‟公同的” オーソドクシーという個別性を脱批判的に*是認しており、さらにそれを示す、より特定の表現(例えば、公同的キリスト教内における特定の解釈的伝統としての、改革派や聖公会やペンテコステ派の流れ等)を是認しています。

 

イマージングにしても、公同性にしても、どちらの場合も、ポスト原理主義のスタンスを採っています。ですが、今もって近代の夢想に憑りつかれている前者は、近代パラダイム内で自分たちが選ぶことのできる唯一他の選択肢としてリベラル主義の道筋に向かっていく傾向があります。(⇒イマージングな懐疑主義およびアンチ制度主義等。)

 

一方、後者の ‟公同的” な選択肢は、――それが直接性という近代の神話に憑りつかれることを拒絶する限りにおいてポスト・リベラルです。それゆえ、‟公同的”な選択肢は実際、より持続的強固な形で、近代「」(post-modern)なのです。

 

ー終わりー

 

著書『どうしたらセキュラー(secular)にならないでいることができるか?ーーチャールズ・テーラーを読む』【インタビュー】

 

A Conversation with James K. A. Smith, 2014(抄訳)

 

インタビュアー:最近の新刊書についてお話ください。

 

ジェームス・K・A・スミス:『How (Not) To Be Secular: Reading Charles Taylor(どうしたらセキュラーにならないでいることができるか?ーーチャールズ・テーラーを読む)』という本を出版しました。

 

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インタビュアー:私も完読しました。大変読みごたえがありましたし、近代性のもたらした一種の不安、および世俗(secular)というものの存在ーーこれらの背後にあるものに表現を与えようとしているあなたの試み、そしてチャールズ・テーラーの試みに感謝しています。まずお訊ねしたいのは、あなたやテーラーの用いている"secular"という語の意味や語用についてです。

 

スミス:私が900頁にも渡るテーラーの学術的大著の貢献内容を、もう少し一般の人々向けに分かりやすく噛みくだいて紹介したいと思った理由は、彼が、いわば、secularという概念を再定義しているからなのです。

 

もしも私たちがこれまで、secularを「不信仰(unbelief)」や「無信仰(non-belief)」や「非宗教性(a-religiocity)」と結びつけて考えてきたのだとしたらそれは問題である、とテーラーは考えています。そういう捉え方では、私たちを取り巻く現代文脈を解することができないでしょう。なぜなら現在起こっているのは、信仰の衰退というよりはむしろ、あらゆる種類の信心道の爆発的増加だからです。

 

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つまり、人々はこの世界に対して「脱幻想(disenchanted*3)」してしまっているとか、あるいは、「脱幻想化された世界(disenchanted world)」の中で皆、新無神論者と化しているとか、そういう訳ではないということです。

 

そうではなく、私たちの住む世俗の時代においてはむしろ、何が信じられ得るか(what's believable)に関する観念に変化が起こっているのです。そして社会の妥当性にかんする諸構造(plausibility of structures)に変化が起こっています。

 

そのため、誰かの信仰が、自明のもの・公理的なものとして捉えられていた時代はもう終わりました。テーラーにとって、世俗の時代に生きるということは、全ての信仰体系が互いに競争し合い、異議の対象となり得るという、そういう時代に生きているのだという事を自覚することです。

 

しかしそうだからといって、それは、人々が信じるのを止めてしまったという事を意味しているわけではなく、むしろ、人々はこれまでにもまして多種多様な仕方・あり方で信心するようになっているということです。それで、私が本書の中で試みているのは、テーラーの分析を取り入れ吸収した上で、それを現代文化の文脈において表現することです。

 

テーラーは年輩の哲学者であり、そのため、彼は、ポップ・カルチャーの実例として例えば、ペギー・リーとか、そういう古い人物を挙げていて、、まあ、それは50年代には相当のヒットだったかもしれませんが、現代の人にはピンを来ませんよね。むしろ、彼が言わんとしていることは、今なら例えば、Death Cab for Cutieの音楽とか、デイビッド・フォスター・ウォーレスの小説などからよりよく実感できるのではないかと思います。

 

インタビュアー:「ノヴァ効果(Nova Effect)*4」について書いておられますね。これについてもう少し説明してくださいますか。

 

スミス:テーラーは、私たちが世俗の時代に生きるということの意味は、すなわち、ありとあらゆる信仰体系が互いに競い合い、競合させられている空間に生きることであると言っています。そしてそれにより一種の《圧力鍋》状態が生じます。(テーラーの用語では、「交差圧力」)。

 

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圧力鍋(出典

 

《圧力鍋》の中に放り込まれた私たちはその中で、「自分はいかに考えるべきか?」「自分は何を信じるべきか?」を巡り、ありとあらゆる方向から押したり引かれたりするのを感じます。私たちは、究極的ななにかを信じたいという強い切望心を持っています。その一方、懐疑の勢力もまた私たちの上にぐいぐい圧力をかけてくるのです。

 

そのため、信仰者を含めた全ての人が今や、その交差圧力の空間内に居住しており、その圧力からいわゆる《ノヴァ効果》(=さまざまな信仰のあり方の爆発)が発出してきます。テーラーのこの分析は、ーー世俗化された文脈においてでさえも尚ーー、新無神論者たちのストーリーライン(⇒‟合理性の増加と、宗教性の衰退”)よりも、現代人の経験をよく捉えているのではないかと思われます。

 

インタビュアー:新無神論者たちのストーリーライン、、、つまり、テーラーやあなたの言っている、「secularその②*5」ですね。

 

スミス:はい。いわゆる世俗主義者たちの声が近年やけに喧しいのは、まさしく彼らが自分たちが敗北しつつあることを内に感じているからなのです。ですから、アグレッシブな形態の世俗主義が巷に散見されるのも不思議ではありません。

 

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ですが彼らは結局のところ、文化的勝組ではありません。彼らは論争を巻き起こすことにより一次的に知名度を挙げるかもしれませんが、シアトルとかブルックリンなどの街を歩き回ってみると、結局、新無神論者たちのナラティブでは、人々がそういう場所で実際に経験している事柄をうまく説明できていないことに気づくだろうと思います。*6

 

インタビュアー:私たちは何がsecularであるかについて考えています。あなたの本のタイトルは、『どうしたらセキュラーにならないでいることができるか?』という、(Not) を含んだ否定句になっています。どうしてこういうタイトルになさったのですか?

 

スミス:おもしろいタイトルでしょう?いかにして人はセキュラーになるのか、という問いがあるのだとしたら、逆に、いかにして人はセキュラーにならないでいることができるのか、という問いもあるはずです。

 

本書ではまず現在の私たちの時代相貌に関する記述的洞察がなされています。つまり、この世俗の時代に生きるというのはどういう事を意味しているのか、という問いへの取り組みです。しかしテーラーと同様、そこにはまた規範的な洞察も含まれており、この時代を理解し、且つ、その中にあっていかに真実に生きていくべきかということを追及しています。さらに言えば、世俗の時代にあって人が神を信仰するということはどのような形をとっているのだろうと。

 

それは、「ああ、昔のように、皆が自分と同じことを信じていて、地域の人もみなクリスチャンで、、、」という具合に、ノスタルジックに過去のどこかの時点に時計の針を戻すことではないと思います。そういう事はもう起こりませんし、それを再び復元させようとする試みは功を奏さないと思います。

 

むしろ、この時代に人が神を信じるということは、諸信仰の競合可能性(contestability)の存在を認め、また、ある意味、信者であってさえも、ものすごい交差圧力により、時として懐疑心に苦しめられる可能性がある、ということを認めることではないかと思います。

 

例えば、あなたの家の隣に、とても高潔で立派な人が住んでおり、彼・彼女の愛の業は、もしかしたら信仰者であるあなたを凌いでいるかもしれません。でも彼・彼女はあなたのような信仰者ではないのです。そこであなたは否が応でも立ち止まり考えざるを得ないでしょう。「なぜだろう?」と。そして私たちクリスチャンはふと立ち止まり自問する、その事に対し正直である必要があると思います。私たちのこういった正直さは、特に若い世代の人たちのために重要だと思います。もしも私たち大人が正直でなかったら、若い人々は、「親たちは現実を見て見ぬふりをしており、世俗時代の現実に直面することを避けつつ、そこから逃げている」と感じることでしょう。

 

インタビュアー:若い世代といえば、「伝統」への回帰現象が近年顕著です。

 

スミス:ああ、つまり、低教会的なエヴァンジェリカル教会で生育してきた若い子たちが、伝統的なアングリカン教会や、ローマ・カトリック教会、東方正教会の伝統を発見していくという、最近の傾向のことですよね?*7

 

インタビュアー:はい。そうです。

 

スミス:この現象に関しての評価は、もう少し社会学的調査や研究がなされる必要があると思います。ですが、この点に関しても、テーラーは私たちにこういった現象を理解するための洞察を与えてくれていると思うんです。

 

というのも、モダニティーにおいて起こっている事ーーそして、まあ、これはプロテスタンティズムがもたらした負の遺産かもしれませんーーは何かというと、「受肉」の反対であるところの、「脱肉(excarnation)*8」という力学であるとテーラーは言っているのです。

 

「脱肉」においては、宗教的信仰、キリスト教的信仰が、主として一式の知的、命題的信条として取り扱われる傾向が高まっていきます。そして礼拝における具象的、直観的、触知的、共同的、儀式的要素が脱落し、消失していきます。こうして教会は、レクチャー・ホールや教室のような外観をとるようになり*9、霊性というのは主として私たちが(頭で)信じること、という風になっていきます。そこから脱肉的な形態をおびたキリスト教が発生してくるのです。

 

出典

 

興味深いのは、そういった形態のキリスト教がいかに脱幻想的(disenchanted)なものであるかということです。それで、あなたが先程おっしゃった、若者たちの伝統的リトルジー回帰現象に話を戻しますが、彼らは、これまで生育してきた脱幻想的な種類のキリスト教環境の中にあって、「何かが足りない」「深みがない」といった欠乏感を抱くようになります。

 

実際、ポストモダンのこの「時」が、彼ら若者たちをして、プレ・モダン(近代以前)の智慧や伝統に自らをオープンにする良い契機となっているのです。そして彼らは、そういった形態の内に、より全体論的な福音、全体論的なキリスト教を発見していくようになります。これは称賛に値すると思いますし、ポストモダン文脈における忠実な信心の方向性を示す正当な動きだと私は考えています。

 

インタビュアー:「弁証(apologetics)」に関してあなたが書いていたことが印象的でした。テーラーは、「現代の文脈において‟弁証”をするなら、あなたはその時点ですでに敗北を認めていることになる」という旨のことを言っていますね。ケン・ハムなども、ぐるぐる循環を画いているように思われます。それでは、あなたはもう ‟弁証” しないのですか?

 

スミス:まず「弁証」という語は、一義的でなく、多様な意味合いを含んでいるということを理解する必要があるでしょう。テーラーがかなり辛辣に批判している種類の「弁証」は、いわゆる命題的、合理主義的な弁証法であり、これらの弁証は自らが、いかに内在的フレーム(immanent frame*10)の諸条件をすでに受諾しているのかについて無自覚です。

 

それゆえに、それらの弁証ストラテジーによって論証されている神像は、ほとんど理神論的な神といっても過言ではありません。そこには堅固で、キリスト論的特性が欠如しています。その意味で、テーラーは、パスカル的なのかもしれません。

 

ですが、他方、テーラーは、別の種類の「弁証ストラテジー」を用いていると思います。それは、論証的議論によって相手を打ち負かすというやり方ではなく、彼の場合の弁証はどちらかというと、よりナラティブ的と言っていいかもしれません。「これからあなたにオールタナティブなストーリーを提供します。もしよかったら、あなたの経験に理解を与えるものであるのか否か試してみてください。」といった具合の弁証法です。勿論、最も重要なポイントにおいて、彼は自分自身の信奉するカトリック信条から明白にそれらを述べています。ですがそれと同時に彼は言います。「皆、どこかの信仰信条を議論の出発点としていますし、あらゆる諸理論は、なんらかの信仰・信条コミットメントを基盤に構築されています。それで私はこの提案をテーブルの上に広げることにします。果たしてこの提案がより良い解決を与えているのか否かをご覧になってください。」

 

面白いことに、テーラーは、この点に関し、自分の弁証法がより効果的であるということにかなり自信を持っていると思います。ですから、テーラーのストラテジーは、‟こんな主張をして申し訳ないです”的な、人の顔色をみながらのびくびくした弁証ではないのです。そうではなく、「『打ち負かす』代わりに、『提供』する」型の弁証法であると言ってよいかと思います。

 

ー終わりー

 

 

公共圏内での信仰のスペース【ポスト近代と福音宣教①】

 

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新無神論の旗手リチャード・ドーキンズ(出典

 

James K.A. Smith, Beyond Atheism: Postmodernity and the Future of God(2010年10月カナダ、オタワ大学での特別講義。音声書き起こし。)

 

宗教に関する現代談話の大半ーー特に、世俗主義ファンダメンタリズムとして知られる新無神論陣営クリストファー・ヒッチェンズリチャード・ドーキンズの中に組み込まれている談話ーーを耳にする私たちは、これらをポスト近代性(postmodernity)の表れだと思ってしまいがちです。

 

しかしながら、現実にはどうかといいますと、彼らの言説こそ、近代性(modernity)の最期のあえぎに他ならないのです。世俗主義ファンダメンタリスト(New Atheist)たちは、公共圏からの宗教追放を要求してきました。曰く、宗教というものは非合理的且つ迷信的、時代遅れで未開部族的である、と。そしてこういった考え方こそまさに、近代性が捉えてきた宗教観でした。

 

意外に思う方もおられるかもしれませんが、多くのポストモダン思想家たちは、こういった世俗主義ファンダメンタリストたちの宗教観に批判的なのです。ですから、ヒッチェンズやドーキンズのような新無神論陣営を仮に〈近代性の伝道者〉と呼ぶなら、ポスト近代思想家たちの多くはどちらかと言えば〈預言者〉と捉えることがあるいはできるかもしれません。後者は、近代性の中に内包されている「偶像礼拝」の要素に対し批判的であり、その結果として、(意外なことに!)彼らは公共圏の中における宗教の可能性に余地を残しているのです。

 

ポスト近代思想の真髄は、合理性に関する啓蒙主義の持つ〈前提〉そのものに対する批判です。そして現代の世俗主義を運行させている根柢に横たわっているこの〈前提〉というのは、「合理的でありたいのなら、あなたは自律的、独立独行、偏見なく、中立、客観的且つ、いかなる特定伝統の類からも自由でなければならない」というものです。

 

つまり、‟合理的である” イコール、‟ 伝統/信仰/偏見からの影響を脱却し、それらをうち捨てなければならない” と彼らは主張しているわけです。イマヌエル・カントの言うところの、「あなた自身の理性を用いなさい」です。こういった思想の中で認められ得る唯一の合理性及び知識というのは、「純粋にして、偏見なく、中立的で客観的な理性」のみです。ですから、みなさん、ここからどんな結果がもたらされるかお分かりになると思います。「自分は宗教的である」とあなたが言う時、それはつまり、あなたが合理的ではあり得ないということを意味しています。

 

またあなたが何らかの伝統に依拠しているのなら、あなたは合理的であることができない、とされます。なぜなら啓蒙主義思想によると、宗教や何らかの伝統に依拠するあなたは、非合理的(irrational)であり、従って、宗教というのは、非合理的なものとして、ごみ箱に入れられなければならないのだと。

 

そして、こういった啓蒙主義の思想に対し、マルティン・ハイデッガーや、ハンス・ゲオルグ・ガダマー、ミッシェル・フーコー、ジャック・デリダなどのポスト近代思想家たちは、「いや、そういった『純粋理性』なるものは不可能であるし、それは神話である」と批判しています。そもそも、「一切の偏見なく中立的で、伝統からの影響無しの客観的視点」なるものは存在しないのだと。

 

およそ人間存在と呼ばれるもののうちで、先行するなにかにコミットせず、先行する伝統に依拠せず、まったき客観性をもって物事をみることのできる者は誰一人いない、彼らはそう主張しています。そして、彼らの批判により、宗教を非合理的なものとして公共圏から排除しようとしてきた、従来の近代性の〈前提〉そのものが現在、問題視されるようになってきています。

 

換言すると、世俗主義(secularism)の体系や教理そのものが疑問視され、揺さぶりをかけられ始めているということです。これまで世俗主義の政治的教理は、「公共圏というのは‟中立的”領域であり、それゆえ非合理的な産物である信仰の類はこの領域に入ってきてはならない。公共談話においては『純粋合理』的媒介だけが許容される」と教示してきたわけですが、ポスト近代思想家たちは、「公共圏における中立性?客観性?--そんなものは不可能な理想に過ぎない」と反旗を翻しています。これが意味しているのは、現代、世俗主義はもはや、宗教をただ単に「非合理的なもの」としてあっさり切り捨ててしまうことができなくなったということです。

 

従来、近代性に裏打ちされた啓蒙主義の談話は「合理的談話」という領域を規定し、私たちに言ってきました。「あなたは今から一般大学という ‟中立的” 公共圏(合理的談話)に入ります。ですから、この圏内に入る前に、あなたはあなた自身の個人的信仰やら宗教やら、とにかくそういった個別的なものを外に置いてこなければなりません。」

 

「あなたが何か宗教を信じたかったらどうぞ週末に好きなだけそれをやってください。でも、平日、この ‟中立的” 公共領域に個人的信仰を持ち込むことだけはおやめください。この ‟中立的” アカデミック談話や、‟中立的” 政治談話の中に、宗教は持ち込まないでください。お願いですから。ここはあくまで ‟合理的” な場なのです。」と。

 

それに対し、ポスト近代思想家たちは言います。「あくまで‟合理的” ‟中立的”な場ですと?しかしあなたがたに言いますが、‟合理的” なものと言われているものは、結局のところ、誰かのストーリーであり、誰かのコミットメントの産物なのです。だから、私たち一人一人はむしろ自分のもつ個別性や伝統を持った状態で公共圏に臨んで然るべきだ」と。こうして、現在、非常に興味深い形で、公共圏内での信仰のスペースが再び生まれつつあるのです。

 

デリダの 「ポスト近代宗教」 の中に存在する深い内的緊張ーーポストモダン的グノーシス主義の内実【ポスト近代と福音宣教その②】

 

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〈メシアニズム(messianisme;キリスト教などの特定宗教)〉と〈メシア的なもの(le messianique)〉の区別を導入したジャック・デリダ出典

 

James K.A. Smith, Beyond Atheism: Postmodernity and the Future of God(2010年10月カナダ、オタワ大学での特別講義。音声書き起こし。)

 

ジャック・デリダの構想する ‟ポスト近代宗教” の中には深い内的緊張があると私は見ています。

 

一方で彼は、公共圏に宗教のスペースを残し、従来の近代性が宗教を周縁化してきたことに対し対抗しようとしています。つまり、デリダは、世俗主義者たちが「純粋理性」保持という大義の下に、宗教を公共圏から追放してこようとしてきたことを問題視しているわけです。彼がそれに批判的な理由は、「有限なる存在は誰一人としてそのような『純粋理性』を持つことはできない」という彼の主張に基づいています。

 

こうして彼は一旦、公共圏に宗教の可能性を提供し、宗教的言語を語り、概念の中に宗教的カテゴリーを用いているのですが、その道半ばにして、なぜか再び〔彼が批判しているところの〕‟純粋に” 理想的なものに立ち戻った上で、「私が言っている ‟宗教” とは、ユダヤ教やイスラム教やキリスト教といった特定の宗教ではない」と言っています。「なぜなら」と彼は言います。「そういった個別的特定宗教に及ぶや、それは暴力につながるから」と。

 

しかし、、、ちょっと待ってください。デリダさん、あなたはさきほど、「純粋理性」というようなものは存在しないと言っていませんでしたか?それなら、どうして「純粋宗教」なるものが存在し得るのでしょう。

 

あなたは、啓蒙主義の理想であるところの、いわゆる「純粋で、偏見なく、中立的、且つ伝統を背負うことなく、汚染されていない形での」合理性を問題視しています。そうでありながら、一旦、話が特定宗教に及ぶと、なぜまたそこにUターンしようとしているのですか?

 

ですからここ(つまりデリダの提供する ‟ポスト近代宗教”)には内的緊張があります。ポスト近代宗教は、一方において、啓蒙主義を批判しています。しかしそれは未だ、有限性(finitude)が内包する煩雑性や個別性を認めることにとまどいを覚え、立ち往生しています。なぜなら、その根柢に、「有限性は暴力的である」という立証されていない彼の前提があるからです

 

さて、ある人が、上記のような思想に堅くコミットしているとします。その際、私たちはそういった方々とどのように対話をしていくことができるのでしょうか。

 

「デリダさん、分かりました。あなたのその前提から出発すると、確かに、『ポスト近代における宗教無き宗教』という構想ができてくることはよく理解できます。(『宗教無き宗教』ーーつまり、特定のいかなる宗教に関与することなく、宗教的言語を使う宗教のこと)。

 

ですが、私は『有限性は暴力的である』というあなたの前提には賛成しかねます。そこでどうでしょう。もう一つ別の前提から出発してみるというのは?私は規定(determination)というロジックの代りに、受肉(incarnation)を基盤としてそこから出発したいと思います。」

 

「デリダさん、あなたはこう言っています。『ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等の個々のメシアニズム(messianisme)の中の、正義、信仰、義務といった要素それ自体はいい。しかしこういった個々のメシアニズムたちがひとたび、「自分のバージョンのメシアニズムこそ正しく、お前のバージョンは間違っている」と言い始めるや暴力が生じてくる(例:イスラエルとパレスティナ)。だから、こうしよう。個々のメシアニズムたちを蒸留し、個別性(特定宗教の歴史性、コミットメント等)という浮きかすを各宗教から取り除く。そうした上で、‟純粋にして、汚されていない”〈メシア的なもの(le messianique)〉を抽出するのだ。』と。」

 

興味深いのは、こういう風に、個別的なもの、具象化されたもの、歴史的なもの、物質的なものを蒸留した上で、汚されていない ‟純粋なる” 理想を得るという考え方を、1世紀の教会教父たちは「グノーシス主義」と呼んでいました。そして初代教会はこのグノーシス主義を断固として退けました。

 

ですから、その意味において、「宗教無き宗教」というデリダの提唱は、奇妙な形でのポストモダン的グノーシス主義であるとも言え、この点で私たちキリスト者には紛うことなき懸念があります。つまり、この点におけるキリスト者の説明は、ポスト近代思想家デリダのような人々の説明とは大きく異なっているということです。

 

なぜなら、霊肉二元論というグノーシス主義を退けてきたキリスト教は、超越神が有限の肉を帯びたというーー『受肉』というスキャンダルーーに基づいているからです。

 

無限の神が有限の肉を帯び、超越が内在を帯び、神性が人となりました。それで、こういったナラティブを持つ人々(=キリスト者)にとっては、有限(finitude)というのは生来的に悪であるわけではないのです。そしてこれは「有限は暴力的である」と捉えるデリダの前提とは大きく異なっています。

 

実にキリスト者の持つストーリーは、被造物に対する肯定を伴っています。そして、『受肉』のキリスト教の、個別的なものや有限性に対する肯定は、「個別的なものに対するアレルギー」反応を示さず、さらにこれは、「私は霊的だけど、宗教的でない」的な言明を拒んでいきます。

 

実際、「私は霊的だけど、宗教的ではない」という言明は、デリダの提唱する「宗教無き宗教」のコンセプトにぴったりと適合しています。ですから「私は霊的だけど、宗教的ではない」的な発言をする時、私たちはデリダ的ロジックに巻き込まれているということになると思います。

 

その意味で、デリダは、むしろ十分にポストモダンになり切れておらず、彼の思想は、未だハイパー近代性(個別へのアレルギー)の次元にとどまっていると言っていいでしょう。なぜなら、ポスト近代思想を一貫して徹底的に押し進め、啓蒙主義の前提を批判していく時、その人はむしろ、悪びれなく(unapologetic)宗教における個別性、伝統、特異性を肯定していくようになるはずだからです。*11

 

 

21世紀におけるキリスト教の形態【ポスト近代と福音宣教その③】

 

young adult praying in church

教会で祈る若者(出典

 

James K.A. Smith, Beyond Atheism: Postmodernity and the Future of God(2010年10月カナダ、オタワ大学での特別講義。音声書き起こし。)

 

真正なるポストモダン的信仰表現は、今後、非常に個別的かつ具体的なものになっていくだろうと思われます。そしてここにおいて興味深い形で、繊細さに対する世代間の違いが表れてきています。

 

団塊世代の人々は、ある意味、「個別的・具体的なものに対する近代性の持つアレルギー」を吸収し、その結果、反制度主義的なスタンスをとったり、あるいは、一般的でプラグマティックなバージョンの宗教性を表出すべく、宗教的特定性というものを極力薄めようとする傾向があったと思います。また一般的に言って、団塊世代の人々には、「伝統」というものを恥じる傾向がありました。

 

しかし自分よりも若い世代(1970~)の人々は、こういった事をもはや受け入れないでしょう。彼ら若い世代は真にポスト近代的繊細さを示し、ーー団塊世代がどちらかというと反制度的なものに傾きがちだったのに対しーー彼らはむしろストレートで正直な形の宗教を求めていると思います。

 

そして彼らは、功を奏す何か、feel goodな何かに自らの宗教を「翻訳」していくようなやり方ではなく、むしろ濃厚で、(世の人にとっては)‟スキャンダラスな” キリスト教遺産という個別性を求めていくでしょう。実に若い世代の人々は「伝統」を求めているのです。

 

デリダのバージョンのポスト近代宗教というのは、その意味で、臆病だと思います。デリダの宗教は今もって ‟スキャンダル” を恐れており、個別性という ‟スキャンダル” を正面から受け入れる度胸に欠けています。

 

ポスト近代は確かに、宗教が公共圏や文化談話に入る許可証を私たちに与えていますが、あらゆる具象、個別を伴ってさらに一歩進むことはしていません。

 

デリダの提唱する「宗教無き宗教」に代表されるようなポスト近代は未だに世俗主義の尾を引きずっています。しかし、より一貫性ある形のポスト近代の宗教は、その最後の「ためらい」にも踏ん切りをつけ、それにおさらばするでしょう。そして濃厚なる信仰告白という具象化された特殊性を前面に打ち出していくでしょう。

 

その意味で、ポスト近代は、むしろ伝統的信仰者たちにスペースを提供していると思います。実際、ポストモダニティーは、オーソドックス(正統)ーーこれなのかもしれません。

 

ー終わりー

 

 

〈宗教センター〉としてのショッピング・モール、世俗liturgy、そして対抗文化造形としてのキリスト教礼拝

 

われわれは一つの錯覚の中に生きている。ーー世俗という空間が ‟ニュートラル” であるという神話の中に。(出典

 

「人はどのようにして大量消費主義者になるのだろうか?」とカルヴィン・カレッジ哲学科のジェームズ・スミス教授は私たちに問いかけています。

 

James K.A. Smith, The heart of consumerism & Desiring the Kingdom: Worship, Worldview, and Cultural Formation(部分要約)

 

文化的 ‟儀式” と心の愛着

 

人間本性を見つめる時、私たちが気づくのは、人の中心にはさまざまな愛着心や切望があり、それらは、多くの場合、私たちが気づかず文化的 ‟儀式”に浸る中で、徐々に形成されているということです。

 

例えば、どのようにして人は、大量消費者になるのでしょうか。いかにして彼/彼女は、あたかもモノが自分を幸せにしてくれるかのような生き方をするようになっていったのでしょうか。どのようにして彼/彼女の心はそのように指向づけられていったのでしょうか。

 

誰かが彼/彼女を議論で説伏したわけでもなく、知的な次元で「これが良い思想なんだ」と誰かに説得させられたわけでもありません。そうではなく、彼/彼女は、リズムや‟儀式”、文化的liturgy(典礼)に浸かっていく中で、次第にある種の〈ビジョン〉を愛するよう方向づけられ、その結果として、現在、彼らはそうなっているのです。

 

〈宗教センター〉としての現代ショッピング・モール

 

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出典

 

さて、あなたの町の中心街にある大きなモールのことを連想してみてください。ここは最も重要なる〈宗教地〉の一つです。

 

巨大な駐車場を出ると、あなたやその他の巡礼者たちは、「聖なる建物」の中に入っていきます。そびえ立つガラス張りのドアやクロムめっきしたアーチは、新しい求道者たちを誘うべくウェルカムな雰囲気を醸し出しています。

 

モール内に溢れるお祭りモードの垂れ幕、色、シンボルは、巡り巡ってくる各種ホリデーや祝祭を律動的(rhythmic)に表出しています。設計は、ラビリンスに似ており、そこには「さまざまな聖人たちに捧げられたチャペル」が所狭しと並んでいます。

 

立体感のある3Dのイコン、彫像、動くイメージは、「グッド・ライフ」を具現化しており、それらは「イコンの内に喚起される聖人産出の手法に、自発的に自らを献身するよう」私たちを誘っています。

 

どのチャペルに入ったとしても、あなたはすでにそこでの‟儀式”を空で覚えています。「いらっしゃいませ。」とミサ仕えの侍者がうやうやしく接客に出てきますが、決して押し付けがましくはせず、あくまでもあなた自身が驚きと喜びを見つけ出すべくチャペル内を探索できるよう配慮してくれます。

 

その場のスピリットがあなたの求めているものの所にあなたを導くと、あなたはそれを「祭壇」に持っていきます。すると、祭司が「最終決算を統括」してくれます。あなたは捧げ物をし、祭司の「祝祷」を受けながら外に出ます。そう、チャペルのイコンの内に具象化されたグッド・ライフにあなたが参加していることを確証する有形のモノをしっかり小脇に抱えながら。。。

 

対抗文化造形としてのキリスト教礼拝(Worship as Countercultural Formation)

 

私たちは皆、「切望する生き物」であり、それぞれが自らの「王国観」に従い生活しています。しかし皆が同じ王国を望んでいるわけではありません。事実、クリスチャン自身、異なる王国観にまつわるさまざまな競合ストーリーに囲まれて生きています。実際、ショッピング・モールや大学、国民性といった文化諸機関は、必死に私たちの忠誠心や愛をわがモノにしようと立ち働いています。

 

そしてそれぞれの王国は、人の価値観を反映すべく私たちの心を志向づける肉感的、可視的、触知的な肉体的諸慣行を実施し、それぞれが、人の価値観を形成する共同的典礼(liturgies)を施行しているのです。

 

それがゆえに、(キリスト教学校、カテキズム、礼拝を通しての)私たち教職者の尽力にもかかわらず、マーケットやモールで行なわれている文化liturgies(典礼)は、子どもたちの想像力をがっちり捉え、彼らをそこから離さないのです。

 

ディズニー映画やモールに溢れている「グッド・ライフ」に関する各種ストーリーやイメージは、信仰者としての私たち親や牧師が与えることのできる信仰内容を「上回る形で」子どもたちの中に深く浸透していっています。

 

子どもたちは宣伝広告からもろに影響を受けています。なぜならそれはビジュアルで触知的であり、且つ、ナラティブと想像力に富んでいるからです。

 

しかしながら造形としてのliturgyに欠けた現行のキリスト教礼拝は、こういった世俗liturgiesに対する〈対抗措置〉としての機能を十分に果たし切れていません。なぜなら、現行のキリスト教礼拝の多くは、私たちの想像の琴線に触れるような心象イメージやストーリーを欠いているからです。

 

そういう意味でも、自分たちを取り巻く文化を典礼的(liturgical)に見ることは重要だと思います。実際、多くの人々は典礼的な視野で世界を見るようになるにつれ、「ああ、なるほどそうだったのか!」とさまざまな気づきが与えられるようになります。

 

そして「自分たちの文化に存在しているメッセージは何か?」という従来の問いの代わりに、彼らは自分たちの文化的イマージョンや参加という行為に実際何がかかっているのかということを洞察する新しい眼鏡を取得するようになります。

 

典礼的なレンズで世界をみるようになると、教会の人々は、自分たちの礼拝が、もしかしたらモールや、コンサートや講演会的なものに類似しているのではないかと気づき始めます。そしてそういった現行の礼拝からは、キリストに従う者たちの共同体というよりはむしろ、個人的消費者や観客を輩出してしまっているのではないかという自省が起されるようになります。

 

告白、安心感、そして聖餐

 

礼拝の中で私たちが恒常的に行なう(or 行わない)ことは、私たちの自己理解や世界観を強固にするものです。求道者にやさしい礼拝(seeker-sensitive services)では往々にして罪の告白と赦しによる確証の部分が省かれます。(なぜなら、この慣習は奇妙な印象を与え、人々に不快感をもたらすかもしれないからです。)

 

しかし自分のしくじりや過ちに対し正直であるという、週ごとのこの「処方計画」は、「自分自身を信じましょう」という世間に溢れるオプラ的メッセージに対する対抗措置となります。

 

ショッピング・モールにも、罪に対する独自の観念があり、それは四方八方から私たちにメッセージを送ってきます。--お前はデブだ。お前はカッコ良くない。お前はダサい。お前はニキビだらけだ、、、と。しかしモールは私たちに何ら憐みを提供しません。それは残酷にもあなたを恥辱の中に放置することで、あなたがその「罪」を克服すべくさらに購買するよう、けしかけてきます。

 

しかし赦しを提供する神よりの確証は、それとは対照的に、くずおれた私たちの心の中に与えられ、こうして安心感と福音は私たちを癒し満たしてくれます。

 

私は個人的に、聖餐(Eucharist)が月ごとではなく週ごとに行なわれることを望んでいます。礼拝者たちがパンと葡萄酒を受けるべく前方に進みゆくその姿は、福音がまさに手から手へ、人から人へと直接的に伝えられていく像(picture)を映し出しています。

 

競合するその他の文化的liturgiesが、人々の愛情の部分を形成すべく精力的に立ち働いているのだとしたら、キリスト教礼拝は、尚一層のこと、心動的(affective)であることに注意を払うべきだと思います。

 

聖餐の祝祭は、王国の経済に関する規範的像の縮図です。そこでは誰かの買い占めによって他の人々が欠乏することはありません。実に、パンと葡萄酒は自由に、そして平等に分配されているのです!*12

 

ー終わりー

 

*1:訳注:関連記事

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*2:訳注:イマージング運動に対する詳細分析は、James K. A. Smith, Who Is Afraid of Postmodernism?, Chapter 5. Applied Radical Orthodoxy, A Proposal for the Emerging Churchを参照。

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*3:訳注:「脱幻想」というのはブログ管理人の訳語です。他の場所では「脱魔術」「脱呪術」などの訳語が当てはめられているようです。

*4:【ノヴァ効果(Nova Effect)】世俗の時代、信仰や意味における多種多様な選択肢("第三の道”)の激増のことを指す。これは私たちの歴史における‟交差圧力(cross-pressures)” の同時共存、および、内在化(immanentization)と超越(の反響)の並列圧力によって作り出されている。

*5:【secularその②】(vs. secularその①、secularその③)Secularを無宗教的と捉える、より‟近代的”な定義。(例えば、‟世俗的(secular)”公共圏など。).

*6:訳注:

*7:訳注:

*8:【脱肉(excarnation)】宗教(特にキリスト教)が、脱具象化(dis-embodied)、脱儀式化(de-ritualized)され、‟信仰体系”と化していくプロセスのことを指す。受肉的、サクラメント的霊性と対照をなす。

*9:訳注:

*10:【内在的フレーム】自分たちの生活を完全に(超自然的ではなく)自然的秩序の内部だけで構成しているところの社会的空間のこと。これは、超越を排除した現代の社会的象(social imagery)という限局的空間である。

*11:関連記事

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*12:

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