巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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‟純粋なるニヒリスト”なるものは存在しない。ーー荒涼としたウッディ・アレンの展望について(by ロバート・バロン神父)


ウッディ・アレン(Woody Allen,1935-)*1

 

目次

 

Bishop Robert Barron, Woody Allen's Bleak Vision, I & II.(拙訳)

 

「われわれは、神なき、目的なき世界に生きている。」

 

先日、究極的な事柄に関するウッディ・アレンの省察文を読み、私は残念でなりませんでした。単刀直入に言いますと、この世界における『意味』に関する問いにおいて、ウッディほど暗く、ニヒリスティックな考えを持っている人は少ないと思います。

 

彼は言います。「われわれは、神なき、目的なき世界に生きている。地球は偶発的に存在に至り、ある日それは、あらゆる芸術作品や文化的業績と共に、焼却される。宇宙全体は拡大し、虚空となるまで冷却する。」

 

続けて彼は言います。「百年かそれ位毎に、人間の一群はさっと‟掃き清められ”、そうしてまた別の一群がそこに置き換わり、それもまたしばらくすると同じように消去される。」

 

それではなぜ彼は骨折り、わざわざ映画など作っているのでしょうか?それもほぼ一年に一作品というペースで。「それはね、『すべては無意味』っていう恐ろしい事実から目を逸らすべく、われわれには気晴らしが必要だし、芸術家たちが提供しているのがまさにそういった気晴らしに他ならないのだ」と彼は説明します。


「ある意味、低レベルの芸能人たちの方が、インテリの芸術家たちよりも社会的に有益かもしれない。なぜなら、前者は後者よりも、より多くの人の気を逸らさせることができるから。」

「緩衝材で覆われた自我」と「多孔質の自我」

 

ウッディ・アレンの視点は、ある部分において、哲学者チャールズ・テイラーの言う「緩衝材で覆われた自我」(buffered self)というものを反映しています。緩衝材で覆われた自我というのは、いかなる〈超越的なもの〉との紐帯からも完全に断ち切られたアイデンティティーのことを指します。

 

この読みでいきますと、私たちが持しているのは唯この世界だけに限られており、より永続的な存在様態へとつながるいかなる窓もぴったりと遮断されています。

 

近代以前には、これとは反対の「多孔質の自我」(porous self)が優勢だったとテイラーは述べています。「多孔質の自我」というのはつまり、さまざまな方法そしてさまざまな状況の下、日常的経験を超えたところにある存在次元に対して開かれている自我のことです。*2

  

ただし、中世時代の哲学者たちも、物質的世界に関するウッディ・アレンの省察に関しては、大部分においてこれを率直に認めるだろうと思います。


プラトン、アリストテレス、トマス・アクィナスなどは皆、物質的なものが現れては消えてゆき、人間というのも不可避的に去り、あらゆる偉大な芸術作品も最終的には存在しなくなるということを知っていました。

 

しかしこれらの偉大な思想家たちは、アレンのような絶望的ニヒリズムには屈服していませんでした。なぜでしょうか?なぜなら、彼らはまた、日常的経験の中において、より高次の世界へとつながることが可能な真のリンクがあり、この世界内に存在するある種の手掛かりにより、単に目に映るもの以上のリアリティーが存在するという真理が私たちに開示されるということを信じていたからです。

 

 

〈超越的なもの〉に対するアクセス・ルートの一つはです。プラトンの『饗宴』の中に、ディオティマという女性哲学者が登場してきます。

 

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ディオティマ(Διοτίμα, Diotīma

 

その中で彼女は、真に美しいなにかを見た時の経験を語っています。それによると、ものや芸術作品、愛らしい人などーー真に美しいなにかを見る時、こういった経験はそれと共にある種のオーラを運びます。なぜなら、特定のその美しいものや人は、それを見る者の心を、ーーあらゆる個別の美の源泉であるところの〈美しいもの〉それ自体ーーに関する考察へと引き上げるからです。


教皇ヨハネ・パウロ2世もまたこれを同じ伝統の中におり、「芸術家たちへの手紙」の中で、彼は、芸術家たちの使命は美を通して神の仲介をすること(=橋渡しをすること)であると述べています。その意味で、〔ウッディ・アレンのように〕芸術的な美を、ニヒリズムという心理学的抑圧からの単なる気晴らしとしてしか捉えないやり方は、悲劇的還元主義と言わざるを得ません。

 

モラリティー

 

〈超越的なもの〉への第二番目の古典的街道は、モラリティー、つまり、善に対する無条件の要求です。純粋なるニヒリストの立場で考えた場合、なぜ人が倫理的に正しくなければならないのかと言うことは非常に困難になってきます。

 

アフリカに飢えた子どもたちがいようが、エイズで死んでいく人々がいようが、クリスチャンが世界のさまざまな場所で組織的に迫害されているのを見聞きしようが、、、それが結局、何だというのでしょう?

 

百年かそれ位毎に、人間の一群はさっと‟掃き清められ”、そうしてまた別の一群がそこに置き換わり、それもまたしばらくすると同じように消去され、冷たい宇宙はそれらすべてを全くの無関心の内に眺めているのではないでしょうか。

 

だったら、ただ単に食べて飲んで、面白おかしく過ごして、そうして、無実な人間の苦しみや彼らが被っている不正の事実に対する自分たちの心の敏感さをできるだけマヒさせるに越したことはありません。

 

しかしながら実際には、倫理的責務への切迫感というものそれ自体が、超越的なものへと私たちをつないでいるのです。なぜなら、それは妥当なる永遠価値の現前に私たちを置くからです。一人の人間に対する暴行・侵害は、文字通り、天に向かって正当なる報復を叫んでいます。そして一つの真に気高い倫理的実践行為は、あらゆる個別善の源であるところの至高善それ自体に対する参入に他なりません。

 

事実、無神論者やニヒリストを公言している人々の幾人かは、彼らの持っている倫理的コミットメントに対する情熱そのものにより、結局、この真理を暗に認めてしまっています。クリストファー・ヒッチェンズなどがその最たる例です(新無神論/戦闘的無神論)。

 

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クリストファー・ヒッチェンズ(1949-2011)*3

 

ウッディ・アレンの拒絶


そしてこの原則に対するウッディ・アレンの拒絶という不穏な事実を私たちは、彼の二つの映画作品の中に見ることができると思います。1980年代の「重罪と軽罪」そして2000年代の「マッチポイント」です。

 

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ウッディ・アレンの「重罪と軽罪」

 

その両映画において、登場人物たちは身の毛のよだつような犯罪を犯しますが、比較的短い‟反省期間”の後、彼らは再び順風満帆な人生を続けていきます。なんら裁きは来ず、すべてが日常に戻るのです。そしてここには、超越的なものへの倫理的つながりが断ち切られた扁平でぺちゃんこな世界が現出しています。

 

しかしこの映画巨匠は自分自身の哲学を最終的には信じ切れていないと私は確信しています。事実、彼の映画の中には、美しさや真理、善をほのめかすようなものが多く散在し、ーー彼自身の懸命なる抗議にも拘らずーー、そういったものは、はかないこの世を超越したあるリアリティーについてなにかを語っているのです。

 

ー終わりー

*1:ウッディ・アレン:アメリカ合衆国の映画監督、俳優、脚本家、小説家、クラリネット奏者。アカデミー賞に史上最多の24回ノミネートされ、監督賞を1度、脚本賞を3度受賞。今年に入り、養女に対する性的虐待疑惑が大きく取りざたされている。(参照

*2:

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左が「多孔質の自我 porous self」で、右が「緩衝材で覆われた自我 buffered self」出典

*3:クリストファー・ヒッチェンズ:主著『神は偉大ではない(God Is Not Great)』:

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「我々は宗教なしでも倫理的な生活が送れると信じている。そして、そこから推論される事実も本当であることを知っている――すなわち、宗教によって、人は他人より格別 に行いが良くなるわけでもなく、そればかりか売春宿の経営者や民族浄化を実行する者たちでさえ驚くようなことを、平然と行う者が無数に存在する。」