巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

造形(formative)としての礼拝ーーなぜworshipの‟形態”が無視できない要素なのかについて(ジェームズ・K・A・スミス、カルヴァン大学)

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聞き手:あなたは、ただ単に「明確に教示されたもの」ではなく「捉えられたもの」という観点におけるliturgy(典礼)の力について語っておられますね。この真理は、どのような形で、私たちの礼拝観に影響しているのでしょうか。

 

ジェームズ・K・A・スミス:自著『神の国を想像する』は、私たち福音主義クリスチャンが、礼拝に対し、これまでいかに還元主義的見方をするよう誤導されてきたのかに気づくことができるよう手助けするべく執筆されました。

 

「ワーシップ “worship”」と聞くと私たちは大抵、「音楽」や「歌」のことを連想します。そしてこの事自体がすでに、礼拝に関する歴史的理解の還元なのです。

 

それだけでなく、私たちは礼拝を単なる「表現」へとかなり還元させてしまっています。私たちは、賛美のいけにえとして、ーー‟私” から ‟神様” の方向へーーという「上向き」の動きにのみフォーカスを置き過ぎているきらいがあり、それゆえに、圧倒的多数のCCM(コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック)の文法は、実質上、‟自分たちのことについて” コーラスしています。(♫ “Here I am to worship…”)

 

もちろん、神に対する私たちの賛美表現は礼拝の一部ですが、それは礼拝全部ではありません。事実、キリスト教礼拝における主役もしくは主体は、私たちではなく神なのです。

 

ですから歴史的に言って、礼拝というのは表現(expressive)としてだけでなく、造形(formative)としても理解されてきたのです。神の民が御言葉の周りに呼び集められ、主の食卓につく時、その聖所は、神が私たちを形造り、形成/再形成する空間となります。その意味で、礼拝というのは訓練であり、形成(formation)です。それゆえに、礼拝が造形的なものであるのなら、私たちは礼拝の形態(form)について意識的に熟慮する必要があるということになります。

 

聞き手:「礼拝の形態や形式というのは交換可能なものであるけれども、そこで語られるメッセージだけは常に不変でなければならない」と言っている人々に対してあなたはどのように応答しますか。それぞれの文化によって、形態の内には柔軟性があるということを認めつつも、おそらくあなたは「形式や形態はどのようなものであってもよい」という考え方には賛同しておられないと思います。どうでしょうか。

 

スミス:おっしゃる通りです。形態/内容(form/content)の間に区別を置く傾向があるのは、私たちが福音を単なる「メッセージ」に還元してしまってきたことに原因しています。そのため私たちは、自分たちが「メッセージ」(内容)を抽出した上で、それを、何であれ自分たちの好きな「形式」の中に流し込むことができると思い込んでいるのです。

 

しかし本書の中でも論じているように、形態・形式というのは中立的なものではありません。事実、自分たちが「ニュートラル」だと思っているーー自分たちが普段、何気なくやっているーー文化的行動実践は、実際には、私たちに何らかの影響を及ぼしているのです。それらは造形的なものです。そしてそれらが形成するものは、私たちは心的諸習慣、愛着、好み、切望心であり、それらが私たちの行動を駆り立てています。

 

ですから、何か巷で「受けのいい」「人気のある」文化形態を拾ってきて、その中に福音「メッセージ」を挿入して、それでめでたく“relevant”(今日性を持つ)礼拝が出てきましたーーという具合にはいかないわけです。なぜなら、それによって、実質上、あなたは世俗liturgyをキリスト教礼拝の中に持ち込んでしまっているからです

 

もちろんあなたは世俗liturgyの中身を変えはするでしょう。しかしその形態自体が、(善い人生に関するその他もろもろの)世俗ビジョンに愛着心を持たせるよう私たちを訓育するようになっていきます。それがゆえに、礼拝における近年の数多くのイノベーションはーーたといそれが善意によるのではあってもーー聖所の中に《トロイの木馬》を招き入れる結果を招いていると思います。

 

ですから解決の道は、礼拝における「次なる最良のスタイル」を考案することにあるのではなく、むしろ、それは、礼拝形態に関する歴史的キリスト教の智慧への再訪および再評価の内にあると私は信じています。

 

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