巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

キリスト教界の弁証家たちよ、お互いフェアプレー精神で行こう!(by マイケル・ロフトン)

f:id:Kinuko:20201011010410j:plain


Micahel Lofton, A Call to Use Equal Weights, Reason and Theology, 2019.(拙訳)

 

「偽りの天秤を主は厭い、十全なおもり石を喜ばれる。」箴言11章1節

聖書はしばし、商いにおいて私たちが均等なおもりや測定器を使用する必要性について語っています。私たちが実直であるためにです。これは無くてはならない大切な掟です。というのも、人は、より多くの利潤を得ることに目がくらみ、品物の重さを計るはかりを変えたいという誘惑に陥りやすいからです。主はそのような不正直さを嫌悪され、イスラエルの民とご契約を確立された際、民により高次の倫理基準(実直さ)を要求されたのです。

 
さて、これは弁証という領域においても適用が為され得るのではないかと思います。なぜなら、多くの弁証家たちは、議論をするに当たり、均等でないおもりや諸基準を用いているからです。例えば、ある弁証家たちは、論敵の属するコミュニオンAを論駁するに当たり、「ほら、コミュニオンAの司祭たちを見てください。彼らは異端者たちと合同祈禱をしているではありませんか!」と語気を強めます。

 

彼らはそうすることで、論敵の属するコミュニオンAがもはや恵みを継承する合法的場ではなくなっているということをなんとかして示そうとしています。しかしながら、彼らは自分たち自身のコミュニオンBの司祭たちもまた、全く同じような事をやっているという事実を見落としています。このようにして彼らは議論において均等でないおもりを用いるという咎を負っているのです。

別の例を挙げましょう。例えば、イコノグラフィーや無原罪の御宿り(Immaculate Conception)です。東方正教界の一部には、「教皇ピオ9世が制定したような無原罪の御宿り教義化を正当化するようなデータは教父時代にはほとんど存在していない」と主張している人々がいます。

 

しかしそれを言うなら、イコンにしたところで、第二ニカイア全地公会議で教義化されたようなイコン崇敬の教義を正当化するようなデータは少ししかありません。「無原罪の御宿り」教義を弱体化させるべく何人かの正教弁証家たちが用いている諸議論が、今度はそっくりそのまま、イコンに関する自分たち自身の立場を弱体化させる諸議論となって跳ね返ってきているわけです。つまり、そのような主張をする人々は近視眼的な諸批判をしているということです。実際、無原罪の御宿りは教父の教えではないのかもしれませんし、そもそも教義化されるべきではなかったのかもしれません。その可能性はあります。しかしながら、先述した正教弁証家たちは、そのような議論を繰り広げることにより、墓穴を掘ってしまっています。

ではローマ・カトリック側の弁証家たちはどうでしょうか。彼らにしたところで、不均等な測り使用に関しては五十歩百歩です。ローマ・カトリックはよく東方正教徒たちに次のように言います。「ほら、君たちの教会は、離婚と再婚に関する使徒的聖伝を遵守していないじゃないか。」

 

しかしながら、ローマ法王を含めたローマ・カトリック司教たちが未だ結婚無効宣言を取得していない離婚・再婚経験者たちに聖体拝領を受けさせようと促進している今日のご時勢において、カトリック弁証家たちのこのような他教会批判はほとんど説得力を持っていません。実際、東方正教は離婚と再婚に関する使徒的聖伝を破棄してしまったのかもしれません。その可能性はあります。しかし、結婚無効宣言が余りにも容易に出され、離婚・再婚がもはやたいして重要事ではないように捉えられがちな今日、彼らの議論はほとんど説得性を持っていません。

そうかと思うと、ローマ・カトリック教徒、東方正教徒両者が共に、プロテスタント教徒たちとのディスカッションにおいて不均等な測りを用いている事例もみられます。ローマ・カトリック、正教共にしばし、「君たちプロテスタントは、教義的にも教会論的にもバラバラに分裂してしまっているではないか」と批判します。

 

ですが、ローマ・カトリシズムにしたところで現在、教義的分裂真っ盛りですし、東方正教の方でも現在複数のシスマおよび教会論的内部分裂が進行中です。それゆえ、プロテスタンティズムが現在いかなる分裂状態にあろうとも、その際、ローマ・カトリックや東方正教徒たちが上記のような議論を用いるのは、まあ言ってみれば「同じ穴のむじな」状態ということになるでしょう。

不均衡な諸基準というのは常に近視眼的議論のしるしです。仮にA氏の属するコミュニオンがA氏の繰り広げている対Bコミュニオン論駁と全く同じ諸批判に自分たち自身もまた脆さをもっているのだとしたら、その時彼は自分が論敵たちを焼こうとしているそれと同じ火炎でもって自分自身の側にも火をつけてしまう結果をもたらします。

 

それゆえ、私たち弁証家は自らの論敵を批判する前に常に自分自身に次のように問う必要があります。「今自分が繰り広げんとしているこの議論はもしや自分自身の諸立場をも論駁するものなのか否か?」と。もしそうなのだとしたら、私たちはそのような議論をすることを差し控えるべきであるし、場合によっては自分の論敵の批判を再考してみる必要性さえあるかもしれません。イエス・キリストの御言葉を心に覚えます。「偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイ7章5節)。


ー終わりー

 

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

japanesebiblewoman.hatenadiary.com