巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「神学者レベル」の牧師と、「大衆レベル」の牧師?

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出典

 

キリスト教界には、「神学者レベル」の牧師と、「大衆レベル」の牧師という二種類(二層)のパスターが存在するのでしょうか。聞くところによると、後者のカテゴリーに属するパスターたちの方が、より一層、誤教理・誤解釈・誤体系にのめり込みやすく、また騙されやすいということです。

 

「神学者レベル」の牧師というのは、おそらく(最低限)神学修士号以上の学歴を持っていて、聖書諸言語が中上級レベルで、且つ、正統派神学の体系立った総合的学びを一定期間以上修めた牧会者のことを指しているのではないかと思われます。それに対し、「大衆レベル」の牧師というのは、例えば、単立の聖書学校やバイブル・カレッジなどで1-2年のコースを修了した後に牧会の働きについた方々のことを指しているのではないかと想像します。

 

私は女性で牧師ではありませんが、今ここで想像力をうんと膨らませて自分が男性でしかも牧会者だったと仮定します。私は20代前半で単立の聖書学校に入学するも、一年足らずで「家出騒動」を起こし、中退となってしまいました。その後も機会に恵まれず、今日にいたるまで正規の神学教育を受けることなくまいりました。ですから、私の場合は、「大衆レベル」以下ということになると思います。

 

ですからその低いポジションから見た時、確かに正規の神学教育がもたらすであろう健全な影響というものを私は(それが無い分余計に)肌身で感じていると思います。そして実際、もしも自分が正式な神学教育をどこかでしっかり受けていることができたのなら、これほど教理的な混沌や嵐にもてあそばれることはなかったのかもしれないと時々(涙ながらに)思います。

 

その意味で、私の霊的・神学的放浪もがきは、いわゆる「大衆レベル」の人間が味わう「教えの風に吹きまくられる」その典型ではないかと思います。そうだからこそ、私はこれまで独学でなんとか神学を学ぼうと努め、また惜しみなく情報を公開してくださる「神学者レベル」の教師の方々の体系的な教えから日々多くのことを学ばせていただいています。感謝します。

 

そうではあるのですが、ある一群の人々が、誤教理・誤解釈・誤った運動にいとも簡単に飲み込まれ、そこから抜け出ることができなくなっているのは、果たして彼らが(「神学者レベル」ではなく)「大衆レベル」の牧師たちだから、なのでしょうか?彼らが偽りの教理や運動を見抜くことができないでいるのは、彼らのその「大衆性」にあるのでしょうか?それが「知的レベルの低い」牧師たちの辿る悲しき運命なのでしょうか?

 

また、もしもその「大衆レベル」の牧師が、今、どこからか奨学金をもらい、ケンブリッジの大学院できちんとした神学の学びを受けることができるようになったとしたら、その時彼は、自分のはまり込んでいる誤神学や誤運動の非を今度こそはっきり悟り、そこから抜け出ることができるようになるのでしょうか?みなさんはどう思いますか?

 

私はこれまで多くの神学論文を翻訳してきました。その中で気づかされるのは、いわゆる「神学者レベル」の牧師の中にも、危険なこと/間違ったことを言ったり広めたりしている人が案外多いということです。

 

陥る「穴」の種類は、「神学者レベル」と「大衆レベル」で若干違いがあるのかもしれませんが、本来あるべき正道から逸脱してしまっているという点で両者に大差はないように思われます。言い換えますと、サタンは「神学者レベル」の人が魅惑され、騙されやすいポイントやツボを確実に押さえており、同時に、「大衆レベル」の人が魅惑され、騙されやすいポイントやツボをそれぞれ確実に押さえているのではないかということです。

 

また無茶苦茶な解釈は「大衆レベル」の牧師たちだけでなく、「神学者レベル」の人々の論文の中にも結構たくさん見受けられます。前者がそのクレージーな解釈を比較的ストレートに伝達しようとするのに対し、後者は、それをより「学術的に」洗練された形で伝達しようとしている点で多少の違いはあるかもしれませんが、解釈のクレージー性という点で両者は共通していると思います。

 

また、「神学者レベル」の牧師が「知的強者/インテリゲンチャ/ブルジョワ/特権階級」で、それに対する「大衆レベル」の牧師が「知的弱者/民衆/プロレタリア/周縁化された民」かというと、そういう構図でもないことに気づかされます。霊的高慢も真の謙遜さも、そういった「レベル」に関係なくそれぞれ各地に点在しているように思います。

 

そういう風に考えていきますと、「大衆レベル」のパスターたちの方が、より一層、誤教理・誤解釈・誤体系にのめり込みやすく、また騙されやすいということは一概に言えないのではないかと思わざるを得ません。

 

人を誤らせる第一要因は、罪や盲目さという人間本性に関わるものの内に存在するのであって、知的・教育的レベルの差異にあるのではないというのがわたくしの考えです。

 

漁師出身のペテロはいわゆる「大衆レベル」の牧師だったと思いますが、主の恵みの中で信仰を守られ、健全な教えを説くことができました。ジョン・バンヤン(1628-1688)もわずかな教育しか受けていない「大衆レベル」の牧師であったけれども、健全な教えを説き、かつ正統信仰の詰まった不朽の名作『天路歴程』を人類に遺すことができました。チャールズ・スポルジョンも独学で懸命に神学を学んだ「大衆レベル」の牧師でしたが、放縦主義にもユダヤ主義にも陥ることはありませんでした。

 

主イエス・キリストは、私たちの魂の牧者(パスター)ですが、主ご自身はどちらだったのでしょう?彼は、「神学者レベル」の牧者だったのでしょうか。それとも「大衆レベル」の牧者だったのでしょうか?