巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ユーカリストの犠牲的性質、プロテスタント諸反論、現代カトリック祭司制危機(by ローレンス・ファインゴールド、ケンリック・グレンノン神学校)

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目次

 

Dr. Larence Feingold, Association of Hebrew Catholics Lecture Series, The Mystery of Israel and the Church, Fall 2016-Series 18, On the Eucharist, Part 2. Talk # 2. Protestant Objections to the Sacrificial Nature of the Mass. (拙訳)mp3Q & A*1

 

ミサの犠牲に対するルター及びカルヴァンの諸反論

 

ルターのミサ理解

 

ミサの犠牲的性質を否定した神学者は、マルティン・ルターが初めてではありません。14世紀英国の神学者ジョン・ウィクリフ(1320-1384)もそれを否定しました。しかしながら、義認論および福音の性質を巡る問題との関連性とも相まり、ミサの犠牲的性質に対する攻撃がより深刻なる重大性を帯びるようになったのは、ルターが始まりでした。マルティン・ルターによってもたらされた最も悲劇的且つ間接的イノベーションは、ミサの犠牲的側面に対する彼の熱情的否認にありました。ーールター自身、それが教会の聖伝全体によっては確かに犠牲のようにみえるということを認めていたにもかかわらず、です。*2彼の攻撃は、1520年に出版された『教会のバビロ二ア捕囚』を持って開始されました。

 

「教会のバビロニア捕囚」表紙(出典

 

この著書の中で、(‟善行と犠牲”として理解された)ミサは、悪魔のでっち上げ、教会の第三捕囚として提示されています。*3

 

ルターの頭の中では、ミサの犠牲というのは、義認に関する中心的概念と密接につながっており、それゆえに、それは、(彼が反対しているところの)救済論に関するカトリック理解を如実に表す明白なる実例として用いられたのです。この結びつきは、此のテーマを取り巻く16世紀当時の論争の要となる点を表しています。つまり、カトリック信者が、教会のいのちおよび神に対する至高なる讃美の極みと捉えていたものを、ルターおよび宗教改革全体は、逆に、至高に忌まわしきものと見ていたのです。*4

 

ミサの犠牲的性質に対するこの攻撃は、「ミサこそ、教皇制の要塞である」というルターの信念により先鋭化されました。それゆえ、犠牲として認識されているミサというものが打倒されるならば、教皇制は崩壊するだろうとされました。現存(real presence)に関し、プロテスタント内には各種意見がありますが、にも拘らず、一つの点において彼らは皆、一致していました。それは、「ミサは犠牲であり、カルバリーでの犠牲を現前させる」ということに対する拒絶でした。そしてこれが宗教改革の中心的焦点となりました。

 

①サクラメント定義からの議論

 

この問題の重大さを鑑み、私たちは、ルターの反論の諸根拠について省察していくことにしたいと思います。ルターはミサに関する自見解を、1522年に発行された『ミサの誤用(The Misuse of the Mass)』という著書の中で最も明確に説明しています。彼の最も中心的論拠は、「律法」と「信仰」(もしくは「律法」と「福音」)に関する弁証法的対立(dialectic)に在ります。そしてこの弁証法的対立は、「与えることを通して神と関係すること」と、「受けることを通して神と関係すること」を対比させています

 

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Law vs Gospelという対比の仕方(出典

 

ルターの視点によれば、律法というのは、行ないを通して自分自身を義としようとする試みであり、それに対し、福音は、キリストの十字架を通し神の御愛顧という賜物を受けることです。ヨーゼフ・ラッツィンガーは、ルターの立場およびそこに潜在する神学的懸念に関する優れた分析をし、次のように言っています。

 

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ヨーゼフ・アロイス・ラッツィンガー(Joseph Alois Ratzinger)出典

 

 「最後の分析ですが、ルターにとっては、神との関わり合いに関し、ただ二つの対立する方法しか存在していない、ということが挙げられます。すなわち『律法の方法』と『信仰の方法』です。・・信仰の方向は、律法の方向とは対極をなしています。つまり、それは神的愛顧を受けることであって、贈物を捧げることではありません。その結果、キリスト教礼拝はその性質からして受けるだけであり、与えることはできないとされます。〔彼によれば〕それはキリスト・イエスにおける神の救いの御業に対する受容であり、それだけで決定的に十全なものです。逆に言えば、キリスト教礼拝は、感謝の代わりに『捧げる』という要素が再導入される時、歪曲され、正反対のものに変質してしまう、とみなされるわけです。こういった視点から見ますと、ルターが、ミサにおける犠牲という考え方を、恩寵の否定、人間の自律という反逆、そして(パウロがあれほど闘ったところの)信仰から律法への逆戻り、と捉えたのも、なるほど理解できます。」*5

 

「律法」に対立するところの「信仰」という弁証法は、ルターのサクラメント理解の中において作用しています。ルターによれば、福音というのは、神に何かをお返しすることによって自分自身を義としようとする試み抜きの、神の御約束の受容と捉えられているために、サクラメントは、罪の赦しに関する神の御約束を立証するしるしとしてのみ理解されています。*6ルターにとって、サクラメントというのは、「カルバリーでのキリストの贖罪の御業に対する信仰を通し私たちの罪が赦される」という福音の根幹メッセージに関する、目に見える御約束です。*7

 

それゆえに、ルターは、いわゆるサクラメントに関する「下降的側面」だけを認証しており、彼によれば、それは神から人間への約束された祝福を証します。その一方、ルターは、(犠牲が神に捧げられるという)いかなる「上昇的動き」に対してもこれを断固斥けました。彼は次のように言っています。

 

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「下降」のみ

 

「犠牲と約束というのは、東の日の出と西の日の入り程も互いにかけ離れている。犠牲というのは何か?それは、行ないであり、そこにおいて我々は自分自身のなにかを神に提示し、献上する。それとは対照的に、約束は、神の御言葉である。そしてこの御言葉は人に神の恵みと憐れみを与える。であるから、神の御約束を、人間の犠牲に仕立て、神の荘厳に関する言葉を、卑しい被造物の行ないに仕立てるというのは、虚偽であるばかりでなく、人間の理性にとっても不可解なことである。」*8

 

また別の箇所で、ルターは次のようにも言っています。

 

「それならばいかにして、我々のために贈物として与えられた神のこの誓約および証印をもって、自分自身の犠牲や行ないに仕立てることができようか。御約束をされた方に対し、なにかが約束されている手紙の封印を犠牲にするような大馬鹿者は一体誰であろうか?」*9

 

ルター見解に対するカトリック側の応答

 

上記のルター見解に対する私たちの応答は次のようになるでしょう。すなわち、(ルターによる)純粋に受動的なものとしての義認理解は不完全であり、それゆえに、彼のサクラメント定義は不適切である、と。より良い定義としては、「サクラメントはキリストを通した人の聖化のしるしである」となるでしょう。そしてそれは、自らが象徴するものを実現させます。*10

 

聖化の二つの要素

 

しかしながら、人間の聖化は二つの要素から成っています。それは神の恩寵を受け入れることに始まりますが、他方、生涯を通し主に栄光を帰するという務めの内に完結をみます。私たちは聖化のこういった二側面を、‟受動的聖化” と ‟積極的聖化” と言及することができるかもしれません。なぜサクラメントというのは必ず神から人間への恩寵伝達においてのみ有効でなければならず、そこに、人間がキリストを通して神に栄光を捧げることを可能たらめしる介助が含まれていてはならないのでしょうか。換言しますと、「サクラメントというのは必ず、その運動においてただ唯一下降のみでなければならず、上昇を含んでいてはならない」とする理由はどこにも無いということです。

 

ルターとは対照的に、聖トマス・アクィナスは、新契約のサクラメントにおける二重の完了状態を見ていました。

 

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トマス・アクィナス(出典

 

「新律法のサクラメントは二重の目的のために制定されている。すなわち、一つは罪のための救済策として、そしてもう一つは神聖なる礼拝のために。」*11

 

「上昇」「下降」その両方向に働く、全き仲介者キリスト

 

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「上昇」&「下降」

 

神と人間の間の全き仲介者としてのキリストは、「上昇すること」「下降すること」その両方向において働いておられます。仲介者としての主の御務めは、私たちのために恩寵を賜わってくださることだけでなく、私たちが自らの目的を果たすことができるよう介助してくださることにあります。つまり、私たちが余すところなく神に栄光を捧げ、神をお喜ばせする礼拝を捧げることができるよう介助してくださるということです。そして両方向におけるキリストの仲介が(聖にして有効なるしるしを通し)サクラメント的に遂行されているのはふさわしいことです。

 

「すべてのサクラメントが必ず一義的意味において理解されなければならない」という理由はない

 

二番目に、「すべてのサクラメントが必ず、一義的意味において理解されなければならない」という理由はどこにもありません。しかしながら、ルターは、それとは対照的に、それぞれのサクラメントが本質において均一であるとみなしています。例えば、バプテスマにおいて私たちは主として神の恩寵を受容しますが、ルターは、このバプテスマを(教会の至高なる礼拝行為であるところの)ユーカリストと均一視しています。彼は次のように言っています。

 

「バプテスマを善行としてみなすほどの狂気の沙汰がどこにあるだろうか?あるいは、『自分は(己自身のため、他者への伝達のため)神に捧げるという行ないを為しているのだ』と信じている洗礼志願者がどこにいるだろう?しからば、このサクラメントおよび契約の内には他者に伝達することのできる善行はなにも無く、それはミサの中におけるその他いかなるものに対してもまた然りである。なぜなら、ミサもまた、契約でありサクラメントであるに他ならないからである。」*12

 

換言しますと、「仮にバプテスマが犠牲でないのなら、なぜユーカリストが犠牲である必要があろう?いや、そのような必要はない。」ということです。これに対するカトリックの回答は次のようになります。ーーサクラメント制度というのは階層的に構築されており、その中にあって、ユーカリストはサクラメントの女王とされています。

 

ユーカリストが、各サクラメントの中で最大のものである理由は二つあります。第一番目に、ユーカリストだけがキリストの人性を実体的(substantially)に内包しています。そして二番目に、主は、犠牲者としての形態においてサクラメントの中に包含されているために、ユーカリストはまた主の犠牲を現前させます。実にユーカリストのみが、サクラメントであると共に犠牲でもあるのです。*13

 

②「ミサにおける犠牲というのは、毎回のミサの中で繰り返しキリストが殺されるということを意味している」という反論について

 

ジャン・カルヴァンは、もう一つの重要な反論を挙げています。「もしもミサが犠牲なら、イエスが毎回のミサの中で繰り返し殺されなければならないということにならないだろうか?」と彼は考え、次のように記しています。

 

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ジャン・カルヴァン(1509-1564)

 

 「献上された犠牲者がいけにえとして殺されるというのは不可欠なことである。仮にキリストが毎回のミサにおいて犠牲にされるのなら、主は何千という場所で毎瞬間、残酷に殺害されなければならないということになる。これは私の言い分ではなく、以下に挙げるように使徒たちの言い分である。『キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。』『もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。』(ヘブル9:25、26)」*14

 

トリエント公会議はこの反論に対し、犠牲における流血の様態と、非流血の様態を区別することで応答しました。

 

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トリエント公会議(出典

 

カルバリーで捧げられたのはキリストの流血を伴う犠牲であり、その際、主の血潮は物質的に御御体から分離されたために、無残なる死がもたらされました。ミサにおいても同じ犠牲者(イエス・キリスト)が、御体と血潮における現前の内に捧げられます。しかしながら後者の場合、血潮は御体から物理的に分離されてはいません。なぜなら、キリストはもはや死ぬことはあり得ず、それゆえに、それはサクラメント的しるしの下に捧げられます。こうしてサクラメント的分離が御体および血潮における物理的分離に取って代わります。

 

③「ユーカリストは犠牲というよりは祝宴である」という反論について

 

ルターおよびカルヴァンの見解

 

ルターは「ミサにおける犠牲的側面」に対する自身の否認説をサポートすべく、聖餐に関するキリストの言葉を言及し、次のように述べています。

 

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「『取って食べなさい』というイエスの言葉により、あなたがたは主が与え裂かれた賜物の所有者になるのである。それゆえに、『取って食べなさい』という言葉は、犠牲にされるいかなるものをも認めていない。そうではなく、むしろここで示されているのは、あなたがたが受け取る賜物が神からあなたがたの元に来ている、という事なのである。」*15

 

同様に、ルターは、「食べ、飲みなさいという命令は、犠牲の奉献と相いれない」と考え、次のように述べています。

 

 「『食べ、飲めよ。』これがサクラメントにおいて我々が為すべき全てである。それゆえに、主はそれを裂き、与え、食するよう我々に仰せられたのである。ーーそれを拝領し、飲み、主を覚えつつ、主の死を告げ知らせるために。同様に、パウロにとってもまた、このサクラメントは、食べ、飲むことであること以外の何物でもなかった〔1コリ11:26〕。しかし、我々が食べ飲むものは、我々の犠牲奉献を意味しない。つまり、我々はそれを自分たちの内にとどめ、摂取するのである。従って、『神に犠牲を奉献すること』と『(パンと葡萄酒が)我々によって摂取されること』は互いに両立しない考えである。実に、レビ人たちは、イスラエルの民の奉献物を受け取ったが、その中にあって、彼らは、神へ犠牲奉献されなければならないものは一切食さなかった。」*16

 

従って、ルターは、「『ミサが犠牲である』という思想は、『交わりと祝宴』というミサの側面と矛盾している」と考えていたわけです。彼は次のように言っています。

 

「我々はそれを完全に食し、それを完全に神に奉献する。ーーこれはあたかも『我々がそれを奉献する時、それを摂取しておらず、それを摂取する時、それを奉献していない』とでも言っているかのようだ。それゆえ、我々はその両方を行なっているために、結局はどちらも行なっていない、ということになる。このような荒唐無稽な言い分があるだろうか?これは全くもって自己矛盾している。」*17

 

ジャン・カルヴァンも類似の議論を展開しています。

 

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「主の晩餐が、感謝を持って受け入れられるべく神の賜物である一方、ミサにおける犠牲は、それがあたかも充足(賠償;satisfaction)として受け入れられるべき神に対する代価(price)を捧げるものであるかのように装っている。『奉献すること』と『受け取ること』が大きく異なっているように、『犠牲』もまた、『晩餐のサクラメント』と大きく異なっているのである。」*18

 

虚偽のダイコトミー

 

こういった議論は、‟虚偽のダイコトミー”という論理誤謬の古典的実例です*19。この種の誤謬が起こるのは、ある議論が次のような形態で提示される時です。「AかBか?」「Aである。従って、Bではない。」

 

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虚偽のダイコトミー(出典

 

この種の議論が妥当であるのは、「AかBか?」という言明が強度の選言(strong disjunction)であり、AとBが両方共真であることはあり得ず、互に排他関係にある場合においてのみです。しかし、AもBも、同時に、両方共真であり得る時(=弱い選言;weak disjunction)、こういった議論は妥当でないとされます。そしてこの場合、私たちは「A」から「非B」を論じることはできません。

 

命題A

ここで「A」は命題によって与えられています。つまり、

ーミサというのは、本質的に神からの贈物を受け取る行為である。

これはさらに二通り、別の表現で言い表すことができるかもしれません。

ーミサというのは本質的に、祝宴(banquest)である。

ーミサというのは、神⇒人間の方向へと向かう、下降運動である。

 

命題B

他方、命題Bは次のようになります。

ーミサというのは本質的に、神に捧げられる奉献である。

これはさらに二通り、別の表現に言い表すことができるかもしれません。

ーミサというのは本質的に、犠牲(sacrifice)である。

ーミサというのは、人間⇒神の方向へと向かう、上昇運動である。

 

ルターはここで、「A」から「非B」を論じています。

 

カトリックの立場ーー「上昇」&「下降」

 

他方、カトリックの立場はーーキリスト教古代伝統すべてによって保持され、教父たちの証言の内に見られ、且つ、すべての典礼におけるリトルジーの中に顕示されているようにーー、ミサというのは、「神に捧げられる犠牲」であると同時に「主から受け取る至高の賜物」である、とみています。犠牲者〔イエス〕はまず、mysticalな仕方でいけにえにされ神に奉献され、その後、信者たちが拝領するようにと授与されます。これら二つの出来事は、明白に矛盾ではありません。なぜなら、これらは二つの異なる時点において起こっているからです

 

ミサは本質的に、犠牲的〔性格を持つ〕祝宴であり、それゆえにそれは犠牲であり、且つ、祝宴なのです。また、ミサは、「上昇」&「下降」その両方の運動によって構成されています。つまり、「上昇」運動において神に奉献されたものは、「下降」運動において、上よりの恵みとして、信者により受容されています。それゆえ、AもBも共に真です。Aが真であることは、Bに対する反証にはなりません。

 

過越しの子羊

 

また、ルターは間違いなく、「多くの犠牲が実際には、神に奉献され、且つ、信者によって拝領されている」ということを知っていたはずです。最も顕著なる実例は、ニサンの14日に神殿にていけにえにされ、神に奉献されていた過越しの子羊です。ユーカリストを最も予表している旧約の ‟予型” としての、過越しの子羊は、ユーカリストが『犠牲』であり、且つ同時に、『交わりの祝宴(communion banquest)』であるものとして、イエスにより御意図されていたことを示す良例です。*20

 

同様に、和解のささげもの(peace offerings)もまた、神に奉献された後、信者によって拝領(consumed)されています。さらに、犠牲および、(犠牲の中における)コミュニオンという諸概念は、人類の宗教史の中に内在的に結びついています。犠牲の目的は、神と人間の間の和解および交わりをもたらすためであり、それは、神ご自身と食卓を共にすることによって具現/表象されています。そしてこれは、犠牲的奉献物がまず神に捧げられ、その後、信者によって拝領されるという事実により為されています。

 

犠牲的意味

 

最後になりますが、先ほど挙げた聖餐に関するイエスの言葉には犠牲的ニュアンスが満ち満ちています。ヨハネ・パウロ二世がEcclesia de Euchaaristia #12で述べているように、「イエスは、ただ単に、御自身が今から与えようとしているものが御自身の体と血である、とは仰せられませんでした。そうです、イエスはまたその犠牲的意味を表現し、(まもなくすべての人の救いのために十字架上で捧げられる)ご自身の犠牲をサクラメント的に現前させたのです。」*21

 

キリストは私たちが御自身の体および血を拝領すべきであることを是認されただけでなく、ご自身の体が ‟私たちのために与えられ”、血が‟多くの人々のために流される”という事実をも是認されました。イエスの言葉は、御自身の体と血に関する二重の授与があることを明確にしています。*22

 

つまり、①「取って食べなさい」とイエスが私たちに仰せられたものは、‟私たちのために与えられた”ものであり、②飲むようにと与えられたものは、‟罪の赦しのため多くの人のために流されるもの”である(マタイ26:28)ということです。しかし罪の赦しのために血が流されることは、犠牲的奉献を表す描写であり、それは信者の代わりに神に捧げられるものです。換言しますと、御体および血潮はまず(犠牲において)私たちのために与えられ/流され、その後、(コミュニオンにおいて)それを拝領すべく私たちに与えられるということです。

 

「わたしを覚えて、これを行ないなさい」という御言葉もまたその含意において犠牲的性格を持っています。旧契約の中において、さまざまな犠牲ーー特に過越しの子羊という犠牲ーーは、神の前における契約の‟記念”として描写されていました。*23 カルヴァンによって出された反論には、「全ての犠牲には必ず物理的死が伴っていなければならない」という前提があります。しかし、犠牲というのは、心の内的奉献(interior oblation)を可視的に表象する象徴的行為であり、それは、神に与えられ、主の統治に移されている被造善という外的しるしを通してです。

 

キリストの御心の内的奉献はカルバリーにおいても、ミサにおいても同じです。なぜならキリストの内的御性質は不変だからです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じです」(ヘブル13:8)。しかし、内的奉献の外的表象は、ミサとカルバリーの間に違いがあります。カルバリーにおいては、犠牲者(イエス・キリスト)は、物理的死により、神の統治に移され、その死は一度しか起こり得ません。

 

他方、ミサにおいては、犠牲者の、その同じ内的奉献が、ーー二つの形態(聖変化した聖体の形態;species)の二重の聖別においてーーキリストの御体および血潮のサクラメント的分離によって外的に表象されます。そして、このサクラメント的奉献(immolation)はいつ、どこにおいても司祭によってミサが捧げられるところで何回でも起こり得ます。

 

④「ミサの犠牲はカルバリーから私たちの注意を逸らす」という反論について

 

次のような反論が為されるでしょう。

 

「カルバリーでのイエスの十字架の死が完全に十分かつ無限に豊満なものであるのなら、一体何ゆえに奉献の繰り返しが為されるのでしょう?そのような必要はないはずです。繰り返しというのはむしろ、カルバリーでの犠牲の荘厳から私たちの目を逸らさせるものではないでしょうか。カルバリーでの犠牲が全ての罪の赦しのために完全にして十分なものであるのなら、なぜ、教会は祭壇の上で繰り返し繰り返し犠牲を再現("re-present")させ捧げていると主張しているのでしょう。なぜキリストは、御自身の教会の中で継続的な犠牲奉献を導入することにより、‟カルバリーを永続化させる”ようなことを望まれたのでしょう。そんな事はないと思います。」

 

回答1ーー御父は私たちの参与(participation)を望んでおられる

 

この重大な反論に対して私たちは幾つかの回答をすることができます。まず一番目に、キリストは、御父による御自身の栄化の内に私たちが参与(participation)することを望んでおられます。主は、ただ単に私たちの身代わりになるためだけではなく、私たちをよみがえらせるために、人になられました。それにより、私たちは主と一つに結び合わされます。そして私たちが主と一つにされるのだとしたら、私たちは、ーーご自身の至高なる犠牲の奉献の中、および、それに付随するところの神への全き礼拝の中においてーー主に参与しなければなりません。

 

代償(substitution)と、参与(participation)それぞれの見方について

 

人類に対するキリストの関係を理解する上で二つの異なった見方があり、それは、①代償(substitution)と、②参与(participation)とそれぞれ範疇化できると思います。ロゴスが人になられたのは主として、私たちが受けるべき罪の刑罰の身代わりになられ、赦しを勝ち取ってくださるためだったのでしょうか。あるいは、ロゴスが人となられたのは主として、御自身の神性、慈愛、正義、御父による全き栄化の中で私たちに共有分を与えてくださるためだったのでしょうか。

 

もしも私たちがキリストの犠牲を、代償的刑罰として理解するなら、犠牲としてのミサというのはもはや意味をなさなくなります。キリストはすでにカルバリーで私たちのために代償的死を遂げられ、今や私たちは犠牲や功徳という重荷から解放されています。他方、仮に神が私たちの参与を望んでおられるのだとしたら、キリストの御業はカルバリーで終結したのではなく、教会史全体を通し今も続いており、その中にあって私たちは、ミサの犠牲において、御父によるキリストの栄化の内により深い参与へと導き入れられているのだ、ということになります。*24

 

回答2ーー人間の状況

 

二番目の回答は、ーー単なる抽象的知識に甘んじることのできないーー私たちの人間の状況に関するものです。肉体的なもの、霊的なもの、その両方を兼ね備えている私たちの人間本性は、自分たちの信奉する不可視的諸真理に関する外的にして知覚可能な(頻繁なる)顕現を必要としています。実際、外的に頻繁に顕示されない諸真理は人の人生に印象を残しません。

 

それが故に、私たちの救い主は知覚可能な外的しるしとして七つの秘跡(サクラメント)を導入され、カルバリーでの一回の犠牲の「荘厳なる典礼的再現/再提示(re-presentation)」および延長化したものとしてのミサを導入されたのです。そしてマラキ1:11の預言によると、それは「日の出る所からその沈む所まで」捧げられます。*25ユーカリストは、私たちの贖罪におけるまさに犠牲そのものーー人類史全体の中核であり、イスラエルの切望および歴史の絶頂であるところのキリストの贖罪ーーを私たち自身の人生の中においても現存せしめます。

 

2000年前にキリストが私たちの贖罪を成し遂げてくださったことを知ることはそれ自体で大きな信仰の賜物です。ですが、過去に為された事に対する知的知識によってだけでなく、直接的に参与することのできるものによって影響を受けるというのは私たち人間本性の一部です。

 

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出典

 

遠い過去に起こった出来事に関する単なる歴史的知識はぼんやりと影におおわれています。私たちはカルバリーのその場に居合わせませんでした。ユーカリストは人間本性におけるその弱さとニーズを配慮し、時空の持つ自然的諸制限を差し止めています。そしてそれは、メシアのペルソナと主の贖罪的犠牲を、あらゆる場所、あらゆる時に全ての人に対し現存させます。こうして、私たち一人一人はカルバリーでの主の犠牲の中においてこの御方との生ける交わり及び参与が許されます。

 

そしてサクラメント的、神秘的に私たちのために注ぎ出された、(パンと葡萄酒という外形を持った)ご自身の御体及び血潮を、主と共に御父なる神に奉献します。実に私たちは世界のどこにいても、合法的に叙階された司祭のいる所において、これを毎日(あるいは毎週)行なうことができます。一介の人間は2000年以上前に起こった過去の出来事を現存/再現させることはできません。しかし神の全能性および智慧は人間の諸制限によっては縛られていないのです

 

回答3ーー「サクラメント」と「神秘」との間の相関性

 

「ミサの犠牲はカルバリーから私たちの注意を逸らす」というプロテスタントの反論に対する三番目の方法は、「サクラメント」と、(それを現存させる)「神秘」との間の相関性を省察することです。サクラメントというのは、それを表象し神秘の中で現存させるリアリティーと競合関係にはありません。それどころかむしろそれは、ーー私たちのいる時間/空間の中で私たちに触れるべくサクラメント的にその現存を拡張することによりーーそのリアリティーに栄光を帰しているのです。換言しますと、キリストのサクラメント的臨在および主の犠牲は、その現存および犠牲の歴史的リアリティーに完全に従属しており、それに対する神秘的アクセスを私たちに提供するものなのです。*26

 

ユーカリストにおけるキリストの現存(the Real Presence of Christ)が、公生涯の間の受肉を通したキリストの可視的実在の重要性を弱小化させているわけでないのは勿論のことです。それどころか、実際には、公生涯期の地上における神的実在が文字通り、世界の最重要事であったために、キリストはそれを拡大させ、全ての人に接近可能なように御配慮してくださったのです。同じ御配慮が主の受難のことについても適用されます。主の受難は世界史における最も重要な行為であるがゆえに、キリストは全ての人が、ユーカリストの中でそれとの神秘的交合の内に導き入れられるようご配慮してくださっているのです。

 

そして全き自己奉献を現存させる方法は、キリストがサクラメント的に同じ犠牲者(Victim)と犠牲を奉献しつつ、それと同時に、教会にいる私たちが自らを奉献するという行為がなされることによってです。この点についてはこれから続く講義の中でさらに詳しく取り扱っていきたいと思います。

 

回答4ーーカルバリーにおけるキリストの犠牲の中心性

 

4番目の回答ですが、神は、主としてミサでの聖犠牲を通し、カルバリーで一度だけ決定的に為された功徳(merits)が私たちの魂に適用されるよう意図された、ということが言えます。なぜなら、典礼が宣言するように、「この記念的犠牲が奉献される毎に、私たちの贖罪の御業がなされます。*27」しかし、各ミサにおいて、その功徳の内のほんの幾つかだけが具体的に私たちに適用され、もしくは分配されます。

 

ミサの反復によって、キリストの贖罪行為の功徳が増し加わるわけではありません。なぜなら、カルバリーでの犠牲の功徳は無限であり、それゆえ、これまでこの地上に生き存在した全ての人の贖罪を‟買い取る”ことが可能でした。しかし、この功徳は、私たちが徐々に聖化の道を辿っていく中で、それぞれの魂に個別的に適用されなければなりません。ピオ十二世はこの事を1947年11月20日の回勅『メディアトル・デイ』*28の中で次のように表現しています。

 

「しかしながらこの買い取りは、すぐに完全なる効果が出されるわけではありません。なぜなら、御自身の血潮という代価を払ってこの世を贖われたキリストは、依然として人間の魂を完全に所有しなければならないからです。それゆえ、人はそれぞれ個別的に十字架の犠牲との生けるコンタクトを持つ必要があり、それにより、そこから流れ出る功徳が彼らに付与されるのです。ですからある意味において、カルバリー上で、キリストは聖化と救いのための井戸を作り、そこをご自身の血潮で満たしました。しかし、もしも人がそこに浸からず、自らの罪咎という染みをそこで洗おうとしないのなら、彼らは決して聖められず、また救われもしません。」

 

一度きりのカルバリーでの犠牲が、教会の中で絶えずサクラメント的に「再現 re-presentation」されるというのは、十字架の価値を減少させるどころか、その反対に、キリストの犠牲の中心性を私たち信者の魂に刻み込みます。キリストの犠牲ーーこれは歴史の中心であり、私たちのあらゆる希望の源です。

 

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カルバリーでの犠牲はかくまで重要かつ核心的中軸であるため、キリストはそれがーー私たちの礼拝の中心、主の日を聖なるものとする手段、あらゆる恵みが流れる泉ーーとなるよう望まれました。実に私たちはこの泉から毎日飲み、それにより日々生かされ、日に日にその神秘の深みに入っていくのです。*29

 

願わくば、私たち皆が、ヨハネ・パウロ二世と共に、「聖ミサこそ私の人生ーー日々の絶対的中心です」と告白することができますように。*30

 

結語:祭司制と犠牲

 

これまで省察してきましたように、「犠牲」と「祭司制」の間には本質的な相関性があります。司祭は神と人の間の仲介者として叙階され、それは主として犠牲奉献において成し遂げられます。従って、犠牲無しの祭司制というのはナンセンスなものとなります。トリエント公会議は両者の親密なる関係性を是認し、次のように述べています。

 

「犠牲と祭司制は神の定めにより非常に密接に結びついているため、両者はあらゆる法の下に共存しています。それゆえ、新約聖書において、カトリック教会は、キリストの御制度から、聖にして可視的なユーカリストの犠牲を受け取りました。従って、教会には新しい、可視的、外的祭司制が存在し、旧い制度は変更されたということもまた認識されなければなりません。」*31*32

 

1520年、宗教改革のスタート地点において、ルターは、①ミサの犠牲的性質、②叙階(Holy Orders)その両方を拒絶しました。彼が両ステップを同時に踏んだというのは納得が行きます。なぜなら、犠牲と祭司制というのは互に切っても切れない関係にあるからです。*33

 

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マルティン・ルター

 

そしてこれはその後、甚大なる負の影響をもたらすことになる異端でした。なぜならこの異端教理により、プロテスタンティズムにおいては、ほとんど全てのサクラメント制が廃止されてしまい、残ったのは(奉仕者に叙階を要求しない)、バプテスマと婚姻のただ二つだけでした。*34この誤謬を正当化するべく、ルターは、「叙階のサクラメントによって生成される聖職的祭司(ministerial priesthood)」と、「洗礼を受けた全ての信者の一般的祭司制」の間を区別することを拒絶しました

 

この見解によると、司祭ないし牧師というのは、本質的/存在論的に祭司的性質を持つ人として特徴づけられているわけではなく、それは単に「教会での説教および統轄という機能を果たす人」として位置づけられています。*35

 

遺憾なことに、過去40年間に渡り、多くの神学者たちがルターの足跡に倣い、ユーカリストの犠牲的側面を最小化してきました。ですから、祭司制自体が深刻なアイデンティティー危機に陥っている現在の状況は決して驚くに値しません*36

 

今日のカトリック教会におけるこういった状況を深く悲嘆したヨハネ・パウロ二世は、2003年に回勅を出し*37、次のように述べています。

 

「時として、私たちは、ユーカリスト的神秘に関する極端に還元主義的理解に遭遇します。ユーカリストの持つ犠牲的意味をはく奪され、それはあたかも単なる友愛的祝宴(fraternal banquest)であるかのように執り行われています。さらに、使徒継承を土台とした聖職的祭司(ministerial priesthood)の必要性がしばし曖昧にぼかされ、ユーカリストの秘蹟的性質が、単に、宣布の形としての有効性という次元に還元されてしまっています。その結果、(善意からではあるとは思いますが)エキュメニカル運動を主導する人々により、ーーカトリック教会が本来告白している信仰とは相反するユーカリスト慣習があちこちで見受けられます。これら全ての事を目の当たりにし、深い悲嘆を覚えない人がいるでしょうか?ユーカリストというのはあまりにも偉大なる贈物であるため、私たちはこういった曖昧さや減価行為に対し寛容でいることはできません。」

 

ユーカリスト的犠牲という観念の喪失および、「司祭」と「祭壇の犠牲」の間の本質的つながりに関する認識の喪失こそが、ここ数十年に渡って私たちが陥っている祭司制危機の根本原因です。まず第一に、司祭は自らの根本的アイデンティティーを喪失しており、それは本来、至高なる祭司であり犠牲者である、十字架に架かりしキリストとの神秘的にして秘蹟的同一化に在するものです。そしてこの認識から生み出されてくるのが、司祭としての非常に特別な責務感ーーすなわち、自らに任せられた群れの救いのために自制および自己犠牲を実践していくという特別の責務です

 

また同じ事が類推的に信徒の方々にも適用されるでしょう。信徒もまた、祭壇の上にキリストと共に自分たちの人生を捧げるという、王なる祭司制を行使すべく召されています。この点については次項で詳しく取り扱っていきたいと思います。私たちは、キリストを模倣していく歩みにおいて、そしてミサに与る人生、そしてミサから流れ出る生き方において、犠牲の中心性を回復させなければなりません。そこにこそ、教会生活全体の絶頂および源泉があります。

 

ー終わりー

*1:ローレンス・ファインゴールド(Lawrence Feingold)。米国の無神論者ユダヤ人家庭に生まれ、無神論者として育つ。美術史の研究でイタリア留学中にキリストに出会い、1989年妻と共にカトリックに入信。ローマのPontifical University of the Holy Crossで哲学と神学、その後、エルサレムのStudium Biblicum Franciscanumで聖書ヘブライ語およびギリシャ語を研究。現在、ミズーリ州にあるケンリック・グレンノン神学校で神学および哲学を教えている。ヘブル人カトリック協会の神学ディレクターも務める。講義シリーズ:AHC Lecture Series: The Mystery of Israel and the Church。主著:Natural Desire to See God According to St. Thomas Aquinas and His Interpreters

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*2:"Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works, vol.36, Word and Sacrament II, trans. A T. Stemhauser (Philadephia: Muhlenberg Press, 1959), 35-36におけるルターの言説:「今日ほど、『ミサは善行であり犠牲である』という考えが広く一般に信じられ、浸透している時代はなかった。・・私は現在、困難な事柄を攻撃しており、この乱用はおそらく根絶が不可能ではないかと思う。なぜなら何世紀にも渡る習慣や常識により、それはがっちりと固定されていて、そのため、今流行している著書の大半を廃刊させる必要すらあるだろう。そして教会の外的形態のほぼ全部を変更し、全く異なる種類の諸儀式を導入(もしくは再導入)しなければなるまい。」また、ジャン・カルヴァンは Institutes, 4.18.1, p.934.で次のように言っています。「『ミサは罪の赦しを得るための犠牲であり奉納である』という信心により、サタンはほぼ全世界を盲目にしたのである。」

*3:"Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works, vol.36:35-57を参照のこと。ルターのこの立場はさらに、"The Misuse of the Mass" (1522), in Luther's Works, 36:133-230, 特に162-198の中で進展しています。

*4:Joseph Ratzinger, "Is the Eucharist a Sacrifice?" trans. Michael J. Miller, in Collected Works, vol.11 (Ignatius Press, San Francisco 2014), 207. ヨーゼフ・ラッツィンガーの言説:「ミサの犠牲的性質に関する問題は、今日のカトリックープロテスタント間の神学的対話の前面にはないかもしれませんが、にも拘らず、それは、宗教改革の世紀を通し、シスマに特異な性質および霊的、神学的深刻さを与えた決定的相違の一つです。ルターにとって、犠牲として理解されるミサ(つまりユーカリスト)は、偶像礼拝にして、忌むべきものでした。なぜなら、それは異教の犠牲儀式にキリスト教を落ち込ませるような退行に他ならなかったからです。それとは対照的に、カトリックにとっては、それは、教会の中でキリストを通し、共に神に栄光を捧げるキリスト者の方法です。実際、ルターにとり、ミサを巡る論争は、義認論に関する基本的問題を表す一例に過ぎませんでした。彼はそれを『キリスト教信仰の真の性質の曲解であり、それゆえ、キリスト教の核心が破壊され、逆さまにされている』と考えていました。」

*5:Ratzinger, "Is the Eucharist a Sacrifice?" in Theology of the Liturgy: The Sacramental Foundation of Christian Existence, Collected Works, vol.11 (Ignatius Press, San Francisco 2014), 207-208.

*6:"Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works, 36:124. この中で、ルターは、サクラメントを「(それらに付随している)しるしを持つ神の御約束」と定義しています。

*7:Luther, "Misuse of the Mass," in Luther's Works, 36:177においてルターは次のように述べています。「ここにおいて我々は、いかなる賠償(satisfaction)のためのいかなる行ないも、和解のための犠牲も、無用であることを明確に見ている。ただ唯一、御体と血潮に対する信仰のみによって和解がもたらされるのである。信仰がそれ自体のうちに和解の業をなすということではなく、それは、キリストが我々のために成し遂げてくださった和解を得ているのである。」

*8:同著、p.169.

*9:同著、p.174.

*10:St. Thomas, ST III, q.60, a.2. ここでトマスはサクラメントを「それが人を聖化させるという限りにおける聖なる事柄のしるし」として定義しています。

*11:ST III, q.63, a.6. トマスはその後、神聖なる礼拝の側面について説明し、(それはある意味、すべてのサクラメントに共通してはいるけれども)特に、ユーカリストの中に顕著に内包されているとし、次のように述べています。「サクラメントは、三つの方法で、神聖なる礼拝に属しているだろう。一つ目は、為された事に関して。二つ目は、仲介者に関して。そして三つ目は、受領者に関して。為された事に関して言えば、ユーカリストは神聖なる礼拝に属している。なぜなら、神聖なる礼拝というのは、それが教会の犠牲である限りにおいて、主としてその中に存している。」

*12:"Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works, 36:48.

*13:ST III, q.79, a.5において、トマスは次のように書いています。「このサクラメントは犠牲であり、且つ、サクラメントです。それは、(それが献上されるという意味において)犠牲としての性質を持っており、(それが受容されるという意味において)サクラメントとしての性質を持っています。それゆえに、それは受領者の内にサクラメント効果をもたらし、献上者の内に犠牲の効果をもたらす。」

*14:Calvin, Institutes 4. 18.5, p.937.

*15:Luther, "Misuse of the Mass," in Luther's Works, 36: 172-173.

*16:同著p.173.

*17:同著p.174.

*18:Calvin, Institutes 4.18.7, p.938.

*19:この論理誤謬に関するより正確な専門用語はinvalid disjunctive syllogismです。参照:Peter Kreeft, Socratic Logic, ed. 3.1 (South Bend, IN: St. Augustine's Press, 2010), 301-302.

*20:訳注

*21:強調はヨハネ・パウロ二世によるもの。

*22:CIC, canon 899(カトリック教会法899)を参照のこと。"In it [the celebration of the Eucharist] Christ the Lord, by the ministry of a priest, offers Himself, substantially present under the forms of bread of wine, to God the Father and gives Himself as spiritual food to the faithful who are associated with His offering."

*23:出エジプト記20:34、レビ2:2、24:7を参照。Max Thurian, The One Bread, trans. Theodore DuBois (New York: Sheed and Ward, 1969), 15-23. それから、Jeremias, The Eucharistic Words of Jesus, 246-255; Moleney, The Eucharist, 45-46.

*24:訳注:関連記事

↓プロテスタントの法廷的転嫁(forensic imputation)による義認と、それに対するカトリックの注入(infusion)による義認。下の記事はそもそもなぜ両者の間に異なる見方が生じているのかを考察したものです。

*25:カトリック伝統は、マラキ1:11の預言を、ミサに関するものだと理解してきました。:「日の出る所から没する所まで、国々のうちにわが名はあがめられている。また、どこでも香と清いささげ物が、わが名のためにささげられる。これはわが名が国々のうちにあがめられているからであると、万軍の主は言われる。」(マラキ1:11)

*26:Masure, The Sacrifice of the Mystical Body, 12.参照。「ミサは(それに関連するものとしての)十字架を前提していますが、その逆は真ではありません。十字架の価値を減損するどころか、ユーカリストはそれに非常なる敬意を払っています。なぜならカルバリーのリアリティーなしにはユーカリストはその目的(神秘を内包し、その実をもたらすこと)を果たすことができなかったからです。それは神秘と一致しており、ゆえに、それから逸れることはできません。ーーそれはちょうど、彼に命や存在を与えている原則に反対しながら人は決して生きていくことができないのと同様です。」

*27:Roman Missal, Secret of the Ninth Sunday after Pentecost. Pius XII, Mediator Dei 79を参照。「祭壇での尊い犠牲は、至高なる手段であり、そこにおいて、十字架上で贖い主により勝ち取られた功徳が信者たちに分配されます。『この記念的犠牲が奉献される毎に、私たちの贖罪の御業がなされます。』」

*28:Mediator Dei 77

*29:ピオ十二世、『メディアトル・デイ』79.「しかしながらこれはカルバリーでの実際の犠牲の威厳を貶めるものでないばかりか、その反対に、ーートリエント公会議が宣言しているようにーーその偉大さおよび不可欠性をより明確に宣布しています。日々のいけにえの奉献により、私たちは、主イエス・キリストの十字架以外には救いがなく、神ご自身『日の出る所からその沈む所まで』この犠牲が絶えず捧げられ、それにより、私たちが神に負っている賛美と感謝の讃歌が止むことがないーーその事を望んでおられます。」

*30:Address at a Symposium in honor of the 30th anniversary of the Decree "Presbyterian ordinis," Oct.27, 1995, n.4; L' Osservatore Romano English edition, Nov.15, 1995, p.7. Benedict XVI recently quoted this and made it his own in his address to the clergy of Rome on May 13 in the Basilica of St. John Lateran.

*31:Council of Trent, Session 23 (1563), ch.1, DS,, 1764.

*32:訳注:英語本文 "Sacrifice and priesthood are by the ordinance of God so united that both have existed under every law. Since, therefore, in the New Testament the Catholic Church has received from the institution of Christ the holy, visible sacrifice of the Eucharist, it must also be acknowledged that there exists in the Church a new, visible, and external priesthood into which the old one was changed."

*33:Martin Luther, "Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works, 36:35-54; 106-117.

*34:ルターは婚姻のサクラメント性を否定しました(同著,p.92)。しかしこのサクラメントは叙階の喪失と共に失われたわけではありません。なぜなら、サクラメントの奉仕者たちは配偶者たち自身だからです。

*35:Martin Luther, "Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works,36:112-113: 「なぜなら1ペテロ2:9には次のように書いてある。『あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、司祭的王族(priestly royalty)』。それゆえ、我々キリスト者は皆、司祭である。。彼らが為していることはことごとく、我々の名によって為されている。祭司というのは牧師職(ministry)に他ならない。」

*36:訳注:↓ユーカリストの犠牲的側面が消滅したミサの実例

*37:Ecclesia de Eucharistia 10