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巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

公正さ(fairness)についての省察――隣人をより良く知り、より深く愛していくために。

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ゴスペルフラ現象についての記事でお話しましたように、私は先日、アメリカ人の宣教師の方から、現代英語のredeem「贖う」は、(聖書的・狭義の用法だけでなく)もっと広義な意味合いでも使われる動詞でもあるということを教わりました。

 

翻訳者として、これは自分にとって重要な気づきでした。というのも、仮に、英語を母語とするA氏の語彙ストックの中のredeemと、英語を母語としない私の語彙ストックのredeemの意味範疇に違い(or ズレ)があった場合、それは、読解・翻訳というプロセスの中で、(無意識的に)私の側にある種の「傾眼」「バイアス」を生じさせる可能性があると思うからなのです。

 

翻訳とラディカリズム

 

翻訳という「フィルター」が読み手に及ぼし得る影響という点で、日本政治思想学者の丸山眞男氏が、対談の中で次のような興味深いことを言っていました。

 

丸山:ともかく想像以上に、翻訳文化の到来というのは早くて、その影響も大きかった。このあいだ、ひさしぶりに安岡章太郎君に会ってだべったら、福沢諭吉と、彼の思想的弟子の植木枝盛(1857-92)とのちがいは、福沢は外国の本を原書で読んでいたが、植木は外国語が読めないので翻訳で読んだところだという。

 

 それからあとは安岡君の議論だが、翻訳で読むほうがラディカルになるというんだ(笑)。インテリのラディカリズムは、彼にいわせれば、翻訳で自由民権や社会主義の本を読んだことと関係があるという。」

(丸山眞男・加藤周一『翻訳と日本の近代』岩波新書、p49)

 

 

これは翻訳者として自省を促される指摘です。翻訳というのは、ある言語で表された文章を他の言語に置き換えて表す行為のことを言いますが(『大辞泉』)、これは聖書の教えという点で考えるなら、ある言語で表された教理や体系や思想を、他の言語に置き換えて伝達していく行為、ということになると思います。

 

そしてコンピューター翻訳が発達した今でもやはり、基本的翻訳は、不完全な人間の手によって地道に為されているということを考える時、私はその仲介的立場にいる翻訳者の「公正さ」を思わずにはいられません。

 

神の公正さ

 

神は義なる方であり、人を偏り見ない方だと聖書には記されています。(使10:34、詩119:137、申32:4、詩48:10、詩97:2、詩119:142、詩145:17、イザヤ45:21、エレ12:1、ヨハネ17:25、詩71:19、ヨブ37:23、詩36:6、詩97:6、イザヤ5:16、詩111:3、詩112:3、イザヤ51:8、ダニ9:14、士5:11、エレ9:24等)。

 

そして神はまた、私たち信者に対しても、フェアーであること、何事においても公正であることを求めておられることが分かります。(箴11:1、箴20:10、23、レビ19:35、36、申25:13-16、ミカ6:10、11等)。

 

公正な翻訳を求める過程で、もちろん語学力を向上させるための日々是鍛錬は大切だと思いますが、それと同時に、翻訳者は自分の中に確実に存在する「フィルター」に正直に向き合い、この部分に主の憐れみと赦しと光が当てられるよう祈り求めていくことが大切なのではないかと思います。

 

そして私は思うのです。愛なる神さまは、私たちに公正を求めておられるけれども、それと同時に私たちがなかなか公正になれない、穴だらけの不完全な人間であることをもご存知で、そのこともきっと配慮しておられるに違いないと。

 

そうだとするなら、技術的な高質性や精密さと共に、いやむしろそれ以上に、主は「神の前に、隣人の前に、いつも公正でありたい。正確でありたい。フェアーでありたい」と願う私たちの心の姿勢をみておられるのではないか、、そう思いました。

 

隣人を正しく理解し、フェアーにrepresentしたい

 

しかし「翻訳」という行為は、何も紙面上の作業だけに限ったものではないと思います。ある物事や、ある人のことを他の誰かに話す時、説明する時、私たちは日常的に、一種の「翻訳」行為をしていると思います。

 

たとえば、「Kさんってどういう人?」「B教会ってどういう教会?」「F牧師ってどんな牧師?」と訊かれた時、私は、質問をしてきた友人の前で、KさんやB教会やF牧師の人となりや教義や特徴について何かを伝えなければなりません。

 

しかしながら、私が説明する「Kさん像」や「B教会像」や「F牧師像」は、はたしてどれくらい、客観的妥当性を持っているのでしょうか?

 

私は物事の全体像を見ることができているのでしょうか。その全体像を知った上での評価でしょうか?私が優劣・正誤・善悪の評価を下すその価値観や「フィルター」、「はかり」(箴11:1)は、主の目に本当に公正なものと映っているのでしょうか。

 

そのような事を考える時、私は正直、泣きたくなります。そして心底こう叫ばずにはいられないのです。

 

 「主よ、私を憐れんでください。私は自分がどれだけフェアーにKさんやB教会やF牧師のことを理解しているのか分かりません。私は自分の下す軽々しい評価を恐れます。

 

 あなたは『隣人について、偽証してはならない』(出エ20:16)と厳命されました。そうです、それは本当に隣人愛の真髄です。私の隣人は、私の口によって偽証されてはならず、私は彼・彼女のことをできる限りにおいて、正しく公正に理解し、必要とあらば周囲にそれをrepresent(表現)していかなければなりません。

 

 しかし自分の中の『フィルター』の不透明さ・薄暗さ・卑小さに直面すればするほど、その営みは時にインポッシブルと思われるほど困難です。おおどうか主よ、このような者を憐れみ、助けてください!」

 

詩篇86:16

私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのしもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救いください。