巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

福音主義者と権威の危機(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

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Bryan Cross, Evangelicals and the Crisis of Authority, 2009(拙訳)

 

ジム・トンコヴィチが「福音主義者と権威の危機*1」と題する優れた論考を書いています。この記事は、ホモセクシュアリティーおよび学問の自由を巡って現在、カルヴィン・カレッジが通されている権威の危機に関するものです。

 

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First gay couple married in Kent County share testimony of faith, love and time at Calvin – Calvin College Chimes

 

ジムは「学問の自由とは、各自が納得し、適合すると考える仕方で、如何様にでも聖書を解釈することができる、という意味である」というある人の言説を批判を込め引用しています。

 

そうした上で彼は、「個人による解釈裁定の首位性」がプロテスタンティズムの本質に内在的なものであるという可能性を検討しています。しかし論考の後半において、ジムは「それはプロテスタンティズムに関する誤った理解である」と結論づけています*2。以下、その部分を全文引用します。

 

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James Tonkowich, D.Min.(出典

 

 「ティモシー・ジョージは、ルターおよびその他の宗教改革者たちは、ウォルムスでの対話に関する通り一遍な読みよりも実際にはずっと微妙であったと主張しています。

 宗教改革者たちは個人的諸洞察をベースに自分たちが何か新しいものを作り出しているという風に自己認識していたのではなく、むしろ『自分たちは継続中のカトリック伝統の中の一部であり、その伝統の合法的担い手であるとの認識を持っていたのです。』

 改革者たちは『歴代の教会との連続性の感覚』を持っていました。ルターにしてもジャン・カルヴァンにしても、過去を拒絶していたわけではなく、ローマ教会全般を拒絶していたわけでもありませんでした。

 確かに改革者たちは、聖書のみが生活および教義における最終権威であると信じていましたが、彼らは古代諸信条への同意もまたキリスト者にとっての信心義務であると主張していました。そして宗教改革の礎石である信仰義認(sola fide)は、『カトリック、プロテスタント双方によって受容されていた普遍的正統性(ecumenical orthodoxy)の、論理的にして不可欠なる結論である』ということを確信していたのです。

 それから学問の自由に関してですが、宗教改革者たちは『歴代教会の釈義的伝統との対話の中で聖書を読むこと』を望んでいました。ティモシー・ジョージは次のように述べています。

 ‟彼らの聖書注解書をみますと、、16世紀の宗教改革者たちは、先行する歴代の釈義的伝統にかなり親しんでいたことが分かります。そして彼らはそれらの釈義的諸伝統を、自らの聖句註解の中で敬意を持ち且つ批判的に用いていたのです。聖書は教会に与えられた本であり、聖霊によって編纂、導針されたと彼らは信じていました。”

 これら三点、すなわち、①歴代教会との連続性の感覚、②教会諸信条の中で表現されている普遍的正統性の受容、③教会(Church)と共に聖書を読むという決断ーーが、学問の自由および個人の自由/探求のためのガードレールを形成します。そしてそれらは、聖書解釈が、最新の文化的流行、ヒッピー風知的風潮、個人的偏愛のえじきになることを防いでくれます。」

 

これに対し、ジョン・アームストロングは次のようにコメントしています。

 

 「私たちは、伝統に対する妥当なる力点を回復させる必要があります。あるクリスチャンたちは、過去に縛られていると非難されています。ーー特に、プログレッシブでよりリベラル志向が強いクリスチャンたちによって。しかしそれ以上に危険なのは、歴史的信仰自体をないがしろにする新しい教えや諸実践に対する無批判な受容ではないでしょうか。

 故ロバート・ウェバーが言ったように私たちは『古代ー未来信仰 "ancient-future faith."』を必要としています。未来を見据え、御霊が今後なさろうとしていることに備えることは正しいことです。しかし御霊はその過程で私たちが歴史的信仰を破棄するようには導かれません。

 キリスト者の自由ーー学問の自由および個人の自由ーーというのは、各自がそれぞれ納得し、適合すると考える方法によって聖書を解釈した上で、己の解釈に沿って行動することを正当化する権利ではありません。それは、歴代教会の権威の下に、そしてイエス・キリストの内にある不変真理と調和する中において私たちが全き人間であることを可能足らしめる自由です。」

 

ーーーーー

「権威」に関する問題への解決は、ジムによると、今日のプロテスタントが、教会(Church)との連続性の感覚を回復し、古代諸信条の正当性を受容し、歴代教会の釈義的諸伝統との対話の内に聖書を読むことにあります。

 

ジムの提言の抱える問題は何かといいますと、それが、まさに単なる提言に過ぎない、ということにあります。そこには何ら権威がありません*3 。彼が提案していることはみな良い内容ですが、それらはプロテスタンティズム内部の権威空洞(authority vacuum)に対する解決とはなっておらず、解決になり得ないのです。

 

権威問題は、権威なしには解決不能です。ジムは段落の最後で「教会の権威 "the authority of the Church,"」に訴えていますが、実際のところ、彼の言うその教会("the Church")とは究極的にいって、‟私の一般的解釈に同意している人々”という観点から各個人によって定義されているところの代物です。

 

ジムは、福音主義を腐敗から救出すべく、solo scriptura / sola scripturaの区別に必死にしがみついています。しかしニール・ジュディスと私は最近、以下の論考の中において、究極的に、solo scriptura とsola scripturaの間には実質的相違はないということを論じました。

 

 

使徒継承を拒絶したことにより、プロテスタンティズムは不可避的に、個人を最終的解釈権威にせしめています。そしてそこから必然的に生じてくるのは、誰もが古代教会や教会信条を、時代遅れで廃用になったものとして拒絶し、さまざまな釈義的諸伝統にもはや注意を払わなくなるという現象です。

 

ただ単に「連続性の感覚」、古代諸信条の「受容」、そして古代の釈義的諸伝統との連続性の内に聖書を読むことの必要性を呼びかけているだけでは、ーー500年前にプロテスタントが使徒継承および教会の権威を拒絶した時に蒔かれた種の開花・繁殖を食い止めることはできません。

 

そうする中で、彼らは無意識の内に各人をみずからの〈教皇〉にせしめました。ですが、蒔かれた種から生じた完全なる‟実”は、〔プロテスタンティズム内における〕カトリック伝統の漸進的衰退慣性の下、未だ隠されたままの状態にありました。

 

「使徒継承の拒絶」という種を蒔いている人々は、やがて「個人主義」および「"solo scriptura"のフラグメンテーション」という刈り取りをしなければならなくなるでしょう。これに関し、ルイ・ブイエが次のように述べています。

 

「あらゆる権威を拒絶しているがゆえに教会(Church)の権威を拒絶している種類のプロテスタンティズムは元々、ーー教会が聖書という別の権威を不当に扱っているのではないだろうかという恐れゆえに教会権威を拒絶したプロテスタンティズムーーから発生してきました。もしも前者が後者から出てくることが可能だったのだとしたら、それは何らかの形でその中に包含されていたはずです。」

 

こういった権威問題に対する唯一の解決は、使徒継承の復帰です。

 

ー終わりー

 

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その2〕〔その3

*1:

*2:訳注:ジム・トンコヴィチ師(長老派)は、2011年、カトリックに改宗し、現在、ワイオミング・カトリック大学で教鞭を取っておられます。(testimony)(interview).

*3:訳注:「教会権威の問題」私の辿ってきた道ーージェイソン・スチュワート師の信仰行程