巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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キリスト教正統性の問題と福音主義(by ダグラス・M・ボウモント他)【その2】

その1】からの続きです。

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「正統性」 を決める権威の所在はどこにあるのだろう?出典) 

 

目次

 

Douglas Beaumont, ed., Evangelical Exodus: Evangelical Seminarians and Their Paths to Rome, Appendix 2, Facing the Issue of Christian Orthodoxy, 2016(抄訳)

 

聖書のみで正統性を決定できるだろうか?

 

2.解釈における不一致

 

たとい聖書がいくつかの諸教理を「本質的なもの」として列挙していたとしても、依然としてそれは正統性のための指針を提供し損なっています。なぜなら正統性というのは、ほとんど常に解釈の問題だからです。

 

異端諸派をみますと、往々にして彼らは、聖書の言葉を肯定しながらも、それらの言葉を正しく理解していません。換言すると、人は、オーソヴォックス(orthovox; 正しい言葉を是認)でありながらも、オーソドックス(orthodox; 正しい信仰を保持)でない場合があるということです。

 

それゆえ、解釈学が議論の中で肝心要なものになってきます*1。そしてこれは必須です。なぜなら、プロテスタントにとっては、聖書解釈において他にいかなる権威的セーフガードも存在しないからです*2*3

 

大部分において、福音主義クリスチャンは、「聖書の正しい解釈に確実に行き着くための方法としてあなたが採用しなければならないのは、歴史的・文法的方法(GHM)である」という教えを受けます。*4

 

歴史的・文法的方法(GHM)は、聖書を、文字通りもしくは通常の意味に従って解釈すると言っています。(*ここで言う‟literal sense〔文字通りの意味〕"とは、文法的・歴史的意味ということを指しています。)*5

 

①聖書のみが教理のために唯一信頼できる源泉であり、②この機能を果たすべく聖書というものは解釈されなければならないーーそれゆえに、歴史的・文法的方法(GHM)を使用することは、「あらゆる教義的な根幹教理が私たちにとって認識可能となるための根本的メソッド」として考えられており、GHM無しには「正統性は存在しない。」とされています*6

 

「聖書のみ(sola scriptura)」自体が、正しい解釈学的手順に依拠しているものとみなされ得るため、GHMは一種の「根幹中の最根幹 "essential of the essentials"ということになるでしょう。

 

歴史的・文法的方法(GHM)の抱える諸問題

 

このアプローチの抱える第一の問題点は、GHM自体、聖書の中で証言/是認されていないことです。せめて望めるのは、聖書が「それ自身を解釈する」という(稀な)事例を挙げ、その諸結果が、(GHMを採用している)解釈者がたどり着く所と同じであるということを示すことでしょう。

 

ですがこれが全ての事例において機能しないのは勿論でありーー、幾つかの決定的諸事例において失敗しています。*7

 

二番目ですが、これは、「果たしてGHMは、一致を促進し、カルトを見破り、軋轢を生じさせるような諸決定の場で有益なものとなっているのだろうか?」という懸念です。

 

「聖書のみ」という神学的原則およびGHMという解釈的原則を信奉している人々の間で甚大なる意見の不一致がありますがーー、本来ならば、この根幹原則によって私たちの間の意見の不一致に解決がもたらされるはずだったのです。

 

さらに、こういった意見の相違は(ラプチャー、千年王国、黙示録などの終末論トピック等*8.)一般に非本質的教理と考えられているテーマに限って存在しているのではなく、(義認、聖化、救済それ自体といった)本質的・根幹的教理に関しても、多種多様な見解を収集したマルチ見解本(multiview books)が存在しています。*9*10

 

それに加え、福音主義者たちによってはしばし「非本質的」とみなされているけれども、歴史的教会の教義/救済に関連する聖書の諸言明においては「本質的」とみなされ得るもの(例:バプステマや聖餐)に関するマルチ見解本も存在します。

 

また、さらに悪いことに、二次的な事項と考えられている多くの主題がしばしーーそれが「聖書のみ」or GHMの否定の産物であるとみられる場合ーー、論者は非常に激しい糾弾の対象となります。*11

 

こういった絶え間ない教義論争は、GHMが事実上、聖書をして正統性を見い出すための権威的源泉として機能せしめることに失敗していることを示す深刻なる証拠です。*12

 

歴史的・文法的方法(GHM)がこれほどまでにラディカルに相違する諸見解を持つ学者たちによって信奉され、解釈され、教示されているのだとしたら、そしたら、私たちはいかにしてこの原則を、一つの基準によって要求されている一貫した諸結果を伝達するものとして信頼することができるというのでしょうか。

 

正統性を見い出すべくGHMを採用しようとの試みが抱えている第三番目の問題は、(教義論争を解決することができないという点に加え)、この方法論が、「聖書をそのまま/額面通りに受け入れる("taking the Bible at its word")」と称しつつその実、神学的諸偏見を覆い隠すために使用され得る、という点が挙げられます。

 

ヨハネ6章に対する、典型的な福音主義者の取扱いを考えてみてください。この箇所でイエスは次のように言っておられます。「わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です、、、人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません、、わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」*13

 

この箇所の歴史的見解は、文字通りの解釈に基づいており、「ここでイエスはユーカリストのことを言及しており*14、それを食することにより、人は文字通りイエスの肉を拝領することになる。(イエスの実在)」とこの解釈は教示しています。

 

他方、福音主義の立場では、ここでのイエスの言葉は霊的、象徴的なものであると解釈されます。たしかにイエスは時として、メタファーや比喩表現を用いてお語りになることもありました*15。しかしながら、ここの聖句を非字義的(nonliteral)な結論に持ってゆけるようなものはGHMの中に一切存在していません。*16

 

しかしこのように言うと、歴史的・文法的方法(GHM)の支持者たちはすぐさま次のように反論するでしょう。「GHMは必ずしも常に文字通りの解釈を施すわけではありません。聖句が寓意的に解釈されるのは以下の場合です。それが明瞭に寓意的である場合、聖句それ自体が寓意的意味を認可している(authorizeしている)場合、文字通りの解釈が聖書内外の諸真理と矛盾している場合、です。」*17

 

しかしながらこれらの付加的考慮によって、ここでのイエスの言葉の非字義的解釈が確証されているでしょうか?文法面からいっても、文脈面からいっても、ここの聖句箇所は「これが文字通りの言明ではない」ということを示唆してはいません。*18

 

テキストは(自らが寓意的だという事実を言明することにより)この箇所を寓意的に解釈してもいいという根拠を与えてくれているわけではなく、また、この箇所を文字通りに受け取ったとして、その際、その他の聖書諸真理と矛盾することもありません。

 

そのため残る基準は唯一、それが「明瞭であるかどうか」になってくると思いますが、いずれにせよ、誰がいかなる理由で「これは明瞭に寓意的だ」と考えようとも、それが文法的方法から来ていないことだけは確かです。

 

さてGHMの「文法的」側面からみてきましたが、「歴史的」側面はどうでしょうか?ヨハネ6章のこの箇所における歴史的解釈の中のどこにも「それを文字通りに受け取ってはならない」ということを示すものはありません。

 

いやそれどころか実際、この箇所はーーオリジナルの聞き手たちがいかにイエスのこれらの言葉を理解したのかが明記されているーー稀にして貴重なる事例の一つでもあるのです。(弟子たちの反応および彼らに対するイエスの応答をみてください。)

 

さらに、ユーカリストに関する初代教会の見解を調べますと、そこから示されるのは、聖餐を単なる象徴的なものとみなす考え方は、ヨハネ6章における出来事後、実に約1500年余、真剣に提示されたことはなかったという事です。*19

 

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1)聖書自体、具体的にどの教理が本質的であり、どの教理が非本質的なのかに関する選定をしていない。

2)歴史的・文法的方法(GHM)は聖書の中で教示されていない。

3)歴史的・文法的方法(GHM)は、それを信奉する支持者の間であってさえ、教義論争を解決できずにいる。

4)歴史的・文法的方法(GHM)は、神学的諸偏見に容易に影響されている。

 

以上の点を鑑みても、このメソッドは、正統性の識別に当たり、「聖書のみ(sola scriptura)」を支持すべく用いること能わず、ということが明らかだと思います。

 

それならば、残るは、何でしょうか?

 

ー【その3】に続くー

*1:マッカーサーもガイスラーも、「本質的教理」の中に解釈学を含めていたことを思い出してください。

*2:「伝統や信条からのいかなる解釈的援助なくとも、妥当な歴史的・文法的解釈がなされる時、聖書のみで明瞭である。しかしそうだからといって、聖書を理解する上でのーー補助的ではあるが非本質的な初期諸信条の使用を排除してよいということにはならない。『聖書のみ(=ソラ・スクリプトゥーラ)』という語に真の意味を持たせるためには、『神の啓示を理解するにあたり、われわれには聖書プラス伝統が必要である』ということはあり得ない。」Norman Geisler, "A Critical Review of The Shape of Sola Scriptura by Keith Mathison", Chritian Apologetics Journal 4, no.1 (Spring 2005): 120.

*3:訳注:

*4:ジョン・マッカーサーのミニストリー教義声明文 http://www.gty.org/connect/doctrine。ガイスラーとローデスの「Conviction without Compromise」の第13章、ハンク・ハネグラフ"What Does It Mean to Interpret the Bible Literally?", Christian Research Institute, Greg Koukl's posts on whether the Bible is literal, at Stand to Reason, Matt Slick, "How to Interpret the Bible", Christian Apologetics and Research Ministry, Michael Houdmann, "What Is Good Biblical Exegesis?", GotQuestions.org.

*5:International Council on Biblical Inerrancy, The Chicago Statement on Inerrancyの解釈のセクションを参照のこと。

*6:Norman Geisler, "The Essential Doctrines of the Christian Faith (Part Two): The Logical Approach", Christian Research Journal 28, no. 6 (2005), Chrisitian Research Institute.また、Geisler and Rhodes, Conviction without Compromise, chap.13を参照。

*7:例えば、使徒マタイが列挙している、イエス・キリストによる預言成就の例を考えてみてください。ここで挙げられている成就のほとんどが、旧約聖書の奇跡的予測の正確さを確証するものであるというよりはむしろ、"fully filing"なバラエティーです。例えば、イザヤ7章の処女降誕の預言は(仮に文字通りに解釈するとするなら)預言者の生涯期を超える内容であるようにはみえず、それゆえ、それがイエスの生誕という何世紀も後に成就したのであれば、この預言は誤りであったということになってしまいかねません。また、ホセアの言った「わたしの子をエジプトから呼び出した」(ホセア11:1)をマタイが引用していますが、ーー元来この箇所が過去の出来事に言及した箇所であることを鑑みるなら(つまり、出エジプトの出来事)ーーこれとて奇妙ではないでしょうか。しかし勿論、ここに解釈的、ないしは神学的諸問題があるわけではありません。なぜなら、預言というのは多元的指示対象を持ち得るからです。ーーしかしながら、GHMはこういったことにうまく対処することができないでしょう。

*8:皮肉なことに、歴史的・文法的方法(GHM)支持の、最も影響力のある解釈学著書の内の二つが、ミルトン・テリーとバーナード・ラムによって執筆されています。この二冊の著書は、これまでGHMの模範として引照されてきました。テリーの著書は、ダラス神学校で教科書として使われており、ロバート・トーマスは両書を、自著「福音主義解釈学(Evangelical Hermeneutics)」(特に3章と6章)の中で肯定的に引用しています。それがなぜ皮肉なことなのかと言いますと、実は、テリーはプレテリスト(preterist)であり、ラムは無千年王国説信奉者(amillennial)であり、ーーこともあろうに、この二つの立場は、南部福音神学校やダラス神学校、それからトーマスやガイスラーといった学者たちが、「彼らはGHMに倣っていない」と攻撃しているところのポジションなのです!

*9:「ロードシップによる救済(Lordship)」かあるいは「フリー・グレースによる救済(Free Grace)」かを巡り、長年に渡って、ジョン・マッカーサーとザーン・ホッジは意見を戦わせてきましたが、これなども、同じGHMを信奉する二人の神学者がいかにして根幹的救済論に関し意見を違わせ得るのかを示唆する良い実例ではないかと思います。

*10:訳注:福音主義界で出版されているマルチ見解本の一例。

①救済論に関する4つの見解

Four Views on Salvation in a Pluralistic World (Counterpoints: Bible and Theology)

②バプテスマに関する4つの見解

Understanding Four Views on Baptism (Counterpoints: Church Life)

③ラプチャーに関する3つの見解

Three Views on the Rapture: Pretribulation, Prewrath, or Posttribulation (Counterpoints: Bible and Theology)

④摂理に関する4つの見解

Four Views on Divine Providence (Counterpoints: Bible and Theology)

⑤主の晩餐に関する4つの見解

Understanding Four Views on the Lord's Supper (Counterpoints: Church Life)

⑥聖化に関する4つの見解

Five Views on Sanctification

⑦聖徒の耐久堅持(Eternal Security)に関する4つの見解

Four Views on Eternal Security

⑧贖罪論に関する4つの見解

The Nature of the Atonement: Four Views (Spectrum Multiview Book)

⑨義認論に関する4つの見解

Justification: Five Views (Spectrum Multiview Books)

⑩聖書的解釈学に関する5つの見解

Biblical Hermeneutics: Five Views (Spectrum Multiview Books)

⑪聖書の無誤性に関する4つの見解

Five Views on Biblical Inerrancy (Counterpoints: Bible and Theology)

*11:実例:Norman L. Geisler, "Method Unorthodoxy", Dr. Norman L. Geisler, April 25, 2015, The "Licona Articles","Methodological Unorthodoxy", それから、"The ETS Vote Robert Gundry at their Annual Meeting in December 1983".

*12:さらなる証拠として、学者たちが互いに対抗し合う、‟ディベート型”出版物の急増現象を挙げることができます。論争し合うこれらの学者たちは多くの場合、同じGHM(そして普通は「聖書のみ」も)を信奉しています。仮にこれらの諸原則への信奉が、教理的諸真理を立証するのに十全であるとしたら、なぜこれほどまでに人々の意見がバラバラなのでしょう?参:Douglas Beaumont, "Theological Abstrusity", Douglas Beaumont, April 24, 2013.

*13:ヨハネ6:51、53-54

*14:参:マタイ26-29;1コリ11:23-25

*15:例:ヨハネ10:9;15:1

*16:参照:NormanL. Geisler and Ralph E. MacKenzie, Roman Catholics and Evangelicals: Agreements and Differences (Grand Rapids: Baker Academic, 1995), 261-62. それから、Norman L. Geisler, "Does the New Testament Support the Roman Catholic View of Communion?", Dr. Norman L. Geisler

*17:Geisler and Rhodes, Conviction without Compromise, 197.

*18:ヨハネ10:9とヨハネ15:1は異なるspeechであることに留意。

*19:この教理は、どちらかといえばツヴィングリによって普及するようになったアナバプテスト的立場であり、ルターによって否認されました。ユーカリストに関する初代教会の見解に関しては以下の論文を参照。"The Early Christians Believed in the Real Presence", Real Presence Eucharistic Education and Adoration Association.