さて、どれを選ぼうか?(出典)
Bryan Cross, Ecclesial Consumerism vs. Ecclesial Unity, 2007(拙訳)
「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(2テモテ4:3-4)
毎週日曜日、日刊紙『セイント・ルイス・ポスト』の宗教欄には、「セイント・ルイス礼拝コミュニティー」と題された広告が掲載されます。
それをみると、セイント・ルイス地域に所在するさまざまな宗教諸組織が宣伝広告を出しています。広告は教派別にアルファベット順に並んでいます。(ですから例えば、"American Baptist"が一覧表の筆頭にきて、"Unity"が一番最後尾、という具合です。)一例として、先週の広告欄からサンプルを取り出してみようと思います。
「当教会には、ロックンロール・ユース・グループ有り!」
「ここに集まる人たちはリアル。メッセージは今日性満載。心に沁みる音楽。服装はカジュアル。笑顔あふれる教会。子供さんいますか?私たちもそうです!」
「コンテンポラリー・ミュージック。カジュアルな服装。」
「フレンドリーで、ホッとできる雰囲気。創造性に富んだ子どもミニストリー。魅力的なミュージック・ライブ・バンド。今日性に富んだ聖書メッセージ!」
「今日性に富み、興味をそそる教え。リアルであたたかいコミュニティー。エネルギッシュなコンテンポラリー・ミュージック。フレッシュなベーグルとコーヒー付(無料!)。小5までキッズ・クラス完備。そのまま気楽にいらしてください。」
「本物。モダン。カジュアル。無料コーヒーとベーグル。服装はカジュアル。フレンドリーな雰囲気。音楽はモダン。ベーグル食べ放題。」
「感動的なミュージック。ライブ・バンド。創造性に富んだキッズ・ミニストリー。前向きで、実践的なメッセージ。」
「福音を信じ、コミュニティーを建て上げ、弟子を作り、社会に変化をもたらしていくことにより、私たちは三位一体の神様に栄光を捧げたいと願っています。トリオ・ジャズ・ワーシップ・サービス有り。」
主日ジャズ礼拝(出典)
「頭も心もワーシップ。傑出し、多様性に富んだミュージック・プログラム。クリエイティブな日曜学校。服装はカジュアル。おいしいクッキーもありますよ!ユース&ファミリー・フェローシップ。オープンで受容的な教会。車椅子の方も来やすい環境設備。」
「全ての人に開かれたアウトドア・ラビリンス!ワーシップは、①『伝統的礼拝』、②『新旧ブレンド礼拝』、③『コンテンポラリー礼拝』、④『カジュアル礼拝』、⑤『クラシック礼拝』の中からお好きなスタイルを選ぶことができます!」
上記の宣伝広告から一目瞭然なのは、こういった宗教諸団体が需要ある隙間市場〔ニッチ〕を満たそうとしているということです。一種の自由市場プロセスを通し、これらの広告は人々が求めているものを反映しています。
地元のモールであつらえの特注テディー・ベアを作ってもらうことができるのと同様、私たちは日曜日の朝、自分の宗教的志向、好み、解釈、期待、信条などにフィットするオーダーメイドとしての宗教体験を得ることができます。
こうして私たちは、自分達のかたち(image)になぞらえて作られた各種団体の中で礼拝を捧げ、そのようにして、独自に作り出した‟神”を礼拝することが可能です。
自分が果たして、冒頭の2テモテ4:3-4で描写されているような状態にあるのか否かを私たちはどのようにして判別することができるのでしょうか?まずはそのような人々のことを「教会的消費者優先主義者 "ecclesial consumerists"」と呼ぶことにしましょう。
2007年5月、私は「消費者優先主義と教会的相対主義*」という記事を書きました。本稿で私はそれをもう少し詳説しようと思っています。
さて、教会的消費者優先主義者たちは自分のことを異端者ないしは分離主義者と考えているのでしょうか。答えは否、です。彼らは自分たちが受けている教えが虚偽であることを自覚しているのでしょうか。否。また彼らは、2テモテ4:3-4で述べられている人物像が自分たちのことを指しているという認識を持っているのでしょうか。ーー否、です。
それでは、自分が果たして教会的消費者優先主義者であるのかどうか、彼・彼女はどのようにして識別することができるのでしょうか。自分が2テモテ4:3-4に該当する人々の一人であるか否かをどのようにして判断できるのでしょうか。
どの‟教会”に通うかを決めるに当たり、その人が以下に挙げる問い以外のものになにがしかの基盤を置いているのなら、その人は教会的消費者優先主義者であるということができます。ーー問い:果たしてどのインスティテューションが受肉されたキリストによって建てられたものであるか?
多くの人はキリストが実際に一つのインスティテューションをお建てになったということを認識していません。彼らはデフォルト設定により教会的消費者優先主義者となってしまっており、よくても、彼らは、自分自身の聖書解釈に合致しているところの「聖書の教え」がなされている場所において礼拝している、と言うに過ぎないのが現状です。
しかし前述しましたように、その人自身の聖書解釈との合致をベースに、自分の宗教的権威として誰かを選んだり打ち立てたりする行為は、個人主義の一形態であり、それは最終的にその人自身を「権威」にせしめます。
「自分自身の聖書解釈との適合をベースに礼拝する場を選ぶ」という行為と、「自分自身の音楽的好みや服装のカジュアルさ/非カジュアルさ等をベースに礼拝する場を選ぶ」という行為の間に原則上の相違はありません。
各個人が己を自らの権威として行為している限り、真の教会的一致は不可能です。私たちが、自分のスタイル、自分の解釈、自分の好み、自分の優先事項等にフィットしているかどうかをベースに宗教団体を選んでいる限り、真の教会的一致は不可能です。
「果たしてどのインスティテューションが受肉されたキリストによって建てられたものであるか?」ということを探し出すことによって、自分たちの礼拝の場を決定していく時にのみ、真の教会的一致は可能とされます。
ー終わりー
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