自分の解釈的『矢』の周りに教導権的『標的』を描くジレンマについて【プロテスタンティズムと解釈的権威の問題】(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)
Bryan Cross, The alternative to painting a magisterial target around our interpretive arrow, 2007(拙訳)
フェデラル・ビジョンの問題を扱ったジェフリー・マイヤー氏の記事内容に触れ、私は、「自分の解釈的『矢』の周りに教導権的『標的』を描く」行為の中に内在的個人主義および不統一が存在することに言及しました。
「自分の解釈的『矢』の周りに教導権的『標的』を描く」という時、私が意味しているのは、‟自分自身の聖書解釈との同意” をベースにした教導権的(つまり、人為による教会的)権威を自らが選択し、そこに立脚するあり方のことです。
こういう指摘をすると大概「それ以外にオールタナティブがないから」という返答がきます。プロテスタント信者は一般に、カトリック信者のことを、「自分たちプロテスタントと同じように、カトリックもまた、彼ら自身の聖書解釈をベースに〔ローマ・カトリック教会という〕一教派および一教導権を選んだのだ」という風に捉えています。*1
しかしオールタナティブは存在します。‟自分自身の聖書解釈との同意” をベースにした教導権を選ぶことだけが唯一の道ではなく、もう一つ別の可能性もあるのです。その可能性は何かといいますと、サクラメント的教導権権威(sacramental magisterial authority)と呼ばれているものです。*2
サクラメント的教導権諸権威によって有されている権威は、自分自身の聖書解釈との同意に基づいてはいません。そうではなく、私たちの聖書解釈が、それらの権威に恭順しているのです。そして繰り返しますが、サクラメント的教導権諸権威は、その秘跡性ーーつまり、使徒たちからのその秘跡的継承ーーによって見い出されるのであって、各自の聖書解釈との同意によって見い出されるのではありません。*3
ー終わりー
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