巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私がチャペル・ベールを始めた理由(リリー姉妹の喜びの証)

f:id:Kinuko:20211119191444j:plain

出典

 

ベールを始めようかどうしようか悩んでいるすべての姉妹たちへ。by リリー

 

Jesus swept me off my feet, Veils by Lily (拙訳)

 

ある時、イエス様は私の心を完全に捕えました。私の魂を主は熱烈にお求めになられ、それゆえ、主は小さなホスチアというかたちにおいてご自身を受けることを私にお望みになられました。ホスチアはパンの一かけのようにみえますが、実際にはこれは主のご聖体、血、魂、そして神性なのです。そして主はこの御聖体拝領を通し、私がご自身との親しき交わりに入れられ、ご自身の神性に与ることができるよう招いておられました。私の心はこの御方に捕えられたのです。

 

このリアリティーの偉大さに私は圧倒されました。宇宙を統べ治めておられる神――この御方を直視し尚も生きながらえる人は誰もいない――が人の肉をまとわれ、聖なるエウカリスチア(聖餐)の中でご自身をもって私に領食させてくださっているとは!

 

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(ヨハネの福音書6章54-56節)

 

私はこの御言葉を黙想しました。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさいと仰せられた時、イエス様はまさに字義通り、文字通りにこの事を言っておられました。これを聞いた弟子たちの多くは主の言葉につまずき、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」と言いながら主の元を離れていったのです。しかしそれでもイエス様はご自身のこの言葉を撤回されませんでした。その場に居合わせた聖ヨハネの弟子たちの書き物を読み、私は最初期のクリスチャンたちがそれを真だとみなしていたことを知りました。

 

「それなら・・」と私は思いました。「私の主であり私の神である御方が私の存在そのもの――体とたましい――の中に入ってこられるというのは本当に真なのかしら?ご自身を低くされ汚れた私の中に入ってこられ、ご自身の神性に与らせるべく私を引き上げてくださるというのは。私の舌が神様に触れ、そして天におられながら且つ、ご自身のまことにして実体的現存において、私の体の中に神ご自身が宿ってくださるというのは。それは本当に真なのかしら?」

 

でもそれが本当に真なのだったらなぜ今まで私はそれを素通りしてきたの?

なぜ素通りできていたの?

 

十代の頃を思い返します。90年代でしたが、私はミサに通いながらもこれといって何か特別なことは感じていませんでした。教会はそれなりにいい所でしたが、かといって、とりわけ感動する場所でもありませんでした。賛美があって、お祈りがあって・・でも福音書の中に書かれているこのイエス様が聖別の祈りの中で真に現存されるということをまともに信じている人は実際には誰もいない感じでした。人々が本当に信じていたのなら、ああいう雰囲気にはなり得なかっただろうと思います。カテキズムで「キリストの現存」のことは教わっていましたので一応頭では信じていましたが、ミサの中での私たちの振る舞いの中にはその真実性を証するものは何もありませんでした。

 

現代教会のデザインもその理解の助けになってくれてはいませんでした。教会堂に入っても、‟自分たちが今まさに天的典礼の中に招き入れられているのだ、主なる神が真にここに現存しておられ、天におけるすべての御使いと聖人たちもここに在るのだ”ということを髣髴させる視覚的聖物やイマージュはどこにもありませんでした。

 

でもそれは真だったのです。あの時も今までもずっと真だったのです、本当は。でも、、私はそれを見落としていました。見落としてしまっていたのです。

 

なんということでしょう。。よく考えもせず軽い気持ちで愛しいイエス様を拝領してきた長い歳月のことを思い、私は嘆き悲しみました。聖体拝領の後、イエス様のことなんか何も考えていなかったあの長い歳月。この御方が苦しむ私と共におられることを望んでおられたのに、それなのに私はそれに気づかず一人で悩み苦しんでいたのです――。

 

私は主に赦しを請い、主をもっと愛することができるよう恵みをくださいと心から祈り求めました。そして主が顕してくださったこの驚くべき愛を周りにいる人々に分かち合いますと誓いました。

 

ちょうどその時期でした。私が教会の不朽の伝統である被り物(veil)のことを初めて耳にしたのは。私はベールというこの時代を超えた慣習に惹きつけられました。なぜならベールは私たちが生ける神の臨在の中にいるということを認め、証するものだからです。

 

f:id:Kinuko:20211119191603j:plain

 

この伝統に関し比較的無知な方々であってさえも、ベールが畏敬のしるしであることを認識しておられました。教会はもはやそれを掟として要求していないのでなぜ私たちがベールを着用する必要があるのか多くの方々はよく理解しておられない風でしたが、それでもそれが神への畏敬のしるしであることは皆、ちゃんと知っていました。私にとってはそれで十分でした。

 

ベールはイエス様への私の愛のしるしです。私が主の愛に背を向けていた時でさえも主の全き愛は常にそこにありました。私はその御愛に答えたいとベールを被り始めました。わが救い主であるイエス様は罪だらけの私を見捨てず常に私の後を追い、救ってくださり、ご自身の憐れみの海原の中で私の全体を満たしてくださいました。私にとってのベールはそれら全てに対する感謝のしるしです。

 

それだけではありません。私は自分が現代教会の環境の中で見ることができず、気づくこともできないでいたミサの中におけるキリストの現存のリアリティーを想起させるものとしてベールを着用しようと思ったのです。もしも私という一人の姉妹のベール着用により、ミサに参列しているどなたかが、ミサの中で実際に起こっていることの驚くべき奇跡に心の目を注ぐことの助けになるのなら、こんな素晴らしいことはないと思います。

 

キリストにある同胞姉妹のみなさん。「ああでも、自分がもしベールを被ったりしたら、他の人たちにどう思われるかすごく心配だし不安。」――私たちの多くはそのことで悩んでいると思います。ええ、もちろん、誰もベールを被っていない中で、自分一人だけベールを被るのは大変です。

 

でもあなたはそれでも尚、被れるものならぜひ被りたいと願っておられるかもしれません。そんなあなたに私は励ましの言葉を送りたいと思います。過去数十年この慣習がないがしろにされてきたことの償いとして、私たちはベール実践により、これまで失われてきた〈聖なるもの〉への感覚が再び回復されるべく教会を建て上げることができるのです。

 

姉妹のみなさん、イエス様への愛ゆえに、‟変な人”とみなされることをむしろ進んで甘受しようではありませんか。ベールを着用することであれ、(誰も跪いていない中)イエス様を跪いて拝領しようとするのであれ、私たちは愛にあって、‟馬鹿者”になりましょう。そして聖なるエウカリスチアの中に私たちの神がまことにまことに現存しておられるということを世界のすべての人々に証していきましょう。

 

主は私たちのことを待っておられます!

 

―終わり―

 

japanesebiblewoman.hatenadiary.com