巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

信仰義認について――正教、カトリック、福音主義クリスチャンそれぞれの視点(by セラフィム・ハミルトン師他)

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目次

 

信仰義認について(by セラフィム・ハミルトン師)

 

Justification by Faith (拙訳)

 

一般的福音主義の義認理解

 

最近、友人から、「義認に関する古典的プロテスタント見解と、伝統的正教見解を比較した良い資料を知っているか」と問い合わせがありました。ですがこの特定テーマのために書き下ろした書き物は残念ながら見当たりませんでしたので、自分自身、本記事の中でそれに取り組むことにしました。プロテスタンティズム内の神学的多様性ゆえ、各々の教派伝統の中に存在する機微をすべて捉えることはできませんので、本稿において私は福音主義者によって一般に表現されている形での教義を提示したいと思います。

 

さて福音主義における、信仰のみによる義認というのは、ただ単に‟信仰のみ”という以上の意味を持っていると理解すべきでしょう。この点は肝要です。といいますのも、福音主義見解と伝統見解の間に存在するもっとも深遠なる相違は、義認の内容(content)にあるのであって、単にその手段(instrument)にあるわけではないからです。それゆえ、まず問われるべきは、いかにして人が義とされるのかではなく、そもそも義認とは何ぞや、でしょう。大半の福音主義クリスチャンにとり、義認というのはキリストのみに信仰をもった瞬間に宣言される純粋に法廷的裁決として理解されており、それは罪と従順という二重の転嫁(imputation)をベースにしています。

 

この見解によると、地上におられた時期のキリストの御業はそれらがあたかも信者に属しているものであるかのように法的にみなされます。ですから、神が人類をお裁きになる際、神は信者自身の行ないをベースにではなく、キリストが地上におられた時に主がなされた行ないをベースにお裁きになります。同様に、人類の罪(あるいは選民の罪。←カルヴァン主義の場合)は十字架上のキリストに転嫁(imputed)されました。十字架上で、神は――あたかもキリストが過去・現在・未来においてあらゆる時代に人類が犯した全ての罪を犯したかのように――キリストを取り扱われました。法的にキリストを有罪と宣言され、神は御顔をキリストから背け、キリストを処刑されました。

 

幾人かの福音主義者にとり、復活の機能というのは主として、それが‟神がキリストの犠牲をお受けになられた”ということの証拠として捉えられています。しかしながらそうだからといって「ではクリスチャンは良い行ないをすべきではないのだ」という風に解釈してはいけません。そうではなく、義認の瞬間、聖霊は信者の心を新生させ、新生したクリスチャンが神のみこころにかなう新しい行ないを為すことができるよう確証してくれるのです。これは聖化と呼ばれています。

 

多くの福音主義者は、――あるクリスチャンの生活パターンに変化が見られないのなら、その人はそもそも新生などしておらず回心もしていなかった、それゆえ彼は初めから真の信仰を持ってなどいなかったのだ、と説明しています。それゆえ、自分は ‟真の” 信仰を持っているのだろうか否かという問いは、若い福音主義クリスチャンの心の中で不安の種となる場合があります。なぜなら、彼ら若者たちの生活はしばしキリストの掟と調和しておらず、それゆえ「自分はそもそも信仰なんか持っていないのじゃないか」と猜疑心に悩まされるのです。

 

正教の義認理解

 

さてそれでは正教はどのような義認理解をしているのでしょう。正教によれば、義認は、キリストとの結合による人間本性の本体論的変革を土台としていると理解されています。正教クリスチャンにとり、罪の報酬は死です。これは神よりの刑罰でもあり、また、神からの別離によってもたらされる自然的結末でもあります。

 

いのちの唯一の源は聖霊であり、聖霊から自らを引き離したことにより、アダムの状態は分裂(disintegration)したものとなってしまいました。サタンの意図は人類の存在を消滅させることにありました。この問題を解決すべく、永遠なる御子(そのかたちに従い私たちは創造されました)は人間本性を帯びられたのです。ご自身の神性に人間本性を結び合わせながら、主は人間本性を栄化させ、神への真の参入を可能とせしめたのです。キリストは自発的に私たちの罪および死の刑罰を身に負ってくださいました。

 

十字架におけるキリストの死は主の有罪宣告であり、この意味において、私たちはそれを代償的贖いと言うことができるかと思います。ですがキリストはいのちそのものであるゆえに、主が死なれたことにより、彼はいのちによって死を満たし、栄化され変容した御体において死から蘇られたことにより、それを元に戻されました。キリストは人間本性を共有しておられたゆえに、主はご自身の栄光をそれに伝達され、こうして、死からの復活を確証されました。

 

おのれの意志が神の聖意志と一致している人々は、彼らの復活本性に従って意志することにより、全き結合のうちに蘇ります。他方、おのれの意志が神のそれに反逆している人々は、破滅の中で蘇ります。――彼ら自身の復活本性から永劫的に分離させられたまま。聖書において、‟死”の観念の中心は分離であり、それゆえ、そういった永劫的分離は永遠の死と呼ばれています。

 

いかにして人は義とされるのだろう

 

それではいかにして人は義とされるのでしょう。福音主義において、信仰は、キリストの従順なる行ないがあたかも信者のそれであるかのようにみなされるところの手段(instrument)です。他方、正教においては、信仰のあり方そのものゆえに、信仰自体が義認します。信仰は父の子に対する関係の無比なる属性です。子は、――彼があたかも父に報酬を要求することができるかのように――父によって雇用されてはいません。そうではなく、子は父に愛されており、父は子に惜しみなく贈物を与えています。

 

信仰により、私たちは神が聖霊を私たちに賜わり、栄光の内に私たちをよみがえらせ、ご自身の御約束を成就してくださるということに信頼を置いています。ヘブライ人への手紙が言っているように、信仰とは義認するものです。なぜなら神のために善を行なうことにおいて人は、「神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを信じなければならない」(ヘブライ11:6b)からです。報酬は父の子に対する債務の類ではなく、そうかといって、子が為したことから切り離されたなにかでもありません。

 

ジョニーが自分の部屋を掃除するのは、それが彼のなすべきことだからです。しかし彼の父親はご褒美にと言って部屋掃除をした息子を外のレストランに連れて行ってくれました。たとい父親が息子の行ないに応じる形で褒美を与えたとしても、この贈物は真に贈り物といえるものです。実際、信仰は永遠の御子であるキリストのいのちを特徴づけるものです。パウロは‟メシアの忠実さ”のことに言及しています。キリストは父の従順な子として生きました。キリストはご自身を全く神に奉献し、その奉献は自らの命を十字架上で神に対し捧げ尽くすことでその頂点に達しました。

 

これら全てを通し、キリストは神が死から命をもたらすことのできる御方であることに対し絶対的信頼を置いていました。それはアブラハムが自身の老いた体および約束の子を献上する際に神に置いていた絶対的信頼にも通じるものです。それゆえ、キリストの信仰はご自身の神への自己奉献により聖定された目標に到達しました。信仰は自己賜物(self-gift)とは区別されたものですが、キリストの自己賜物を生みだしたのは他ならぬ信仰でした。キリストへの神の報酬は、死からの復活および世界の相続でした。ユダヤ人およびローマ人は十字架上のキリストに有罪宣告を出しましたが、神は、まさしく主のみからだの変容の内にそして変容を通して、キリストを義と宣言なさいました。それがゆえに、聖パウロはイエスは「霊において義と宣言され」(1テモテ3:16)と言っているのです。

 

よって、私たちは義と宣言されています。なぜなら私たちはキリストのいのちを共有しているからです。主は死からの復活により義とされ、私たちは御霊により主の死および復活に参与することを通し義とされます。私たちが何か良い行ないをすることができるのはひとえに聖霊のおかげです。私たちの意志は聖霊の活性を通した神およびキリストの意志と協働し、この協働が主の死、そして復活、義認の内にキリストとの結合へと私たちを導いていきます。

 

それゆえ、‟私たちは信仰と行ないを通し、恵みによって義とされる”という表現はあまり正確ではありません。より正確には、‟私たちは行ないを通し信仰を通し、恵みによって義とされる”となるかと思います。そういうわけで私たちは義化と聖化の間に厳密な区別は置いておらず、両者を同一プロセスの二つのアングルだと捉えています。もしくは聖パウロが1コリント人への手紙6:11の中で言っているように「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」

 

要約すると次のようになります。私たちは神との関係性の中で救われます。そしてその関係性は信仰によって特徴づけられており、そこから行ないが生じてきます。一つ喩を挙げましょう。何が友情を作り出すのでしょう。例えば私が誰かの家に行って、毎日彼の家の庭の柴刈りをしているとします。が、私は彼に決して話しかけようとはしません。確かに私は彼のために‟働いています”が、私たちは決して友にはならないでしょう。友情を促すような働きは、自然に友情へと導きそれを深める働きです。私は友に話しかけ、一緒に時を過ごし、友を愛し、友に信頼を置きます。

 

神との関係でも同じことがいえるかと思います。私たちは雇用者として神のために働き、ある種の報酬を期待しているわけではありません。そうではなく神に対する私たちの信頼が神と私たちの関係を深めるような働きを生みだしていくのです。それでは大罪(mortal sins)はどうでしょうか。大罪とはどのようなものでしょうか。大罪は神との関係が断たれてしまうような種類の罪のことをいいます。友情を例に挙げましょう。私が話しすぎて友人をイライラさせてしまったとします。これは小罪(venial sin)です。このせいで友人と私の関係が崩壊してしまうことはありません。しかし私が友人の奥さんと密通したとなると、これは大罪です。関係は根本から断たれてしまいます。しかしながら人間とは異なり、神は無限に赦す御方であり、私たちが悔い改めるならいつでも関係を回復してくださいます。――悔い改めは元に立ち帰ること、戻ることを意味しているからです。

 

ここにおいて赦しが重要性を持ってきます。死んでしかし蘇られたキリストは罪と死の間の不可避的紐帯を抜本的に断ち切られました。罪は死をもたらします。これは真です。しかしその死の後に復活が来得るのです。こうして神は私たちの罪を赦し、引き続き私たちと共に働いてくださいます。それゆえに罪が必然的に非統合や分裂へと人を追いやることをせず、御父との関係性も断ち切られることがありません。

 

「信仰」と「行ない」の関係

 

それでは、「信仰」と「行ない」の間には正確に言ってどのような関係があるのでしょう。ヤコブは行ないのことを信仰の ‟実” として言及しており、これは真です。聖パウロが言っているように「信仰から出ていないことはみな罪です」(ローマ14:23b)。ここで理解しなければならない重要な点は、行ないのない信仰も依然として信仰であるということです。ヤコブは、信仰と行ないを体とたましいの関係になぞらえています。たましい無き体は依然として体ですが、それは死んでいます。同じように、行ないのない信仰は依然として信仰です――が、それでは信仰の目指す目標に到達することはできないままです。

 

多くの福音主義クリスチャンは自分の信仰が行ないを伴っていないことに気づくと、異なった種類の信仰を作り出そうします。ですがキリスト者の妥当な応答は本来、己の信仰を用いて行ないをもたらすことにあります。信仰の妥当にして自然な目標は〔良い〕行ないですが、その目標に達するに当たり、私たちには積極的協働が要求されます。仮にあなたがウェイトトレーニングをし、重量を持ち上げようとしているとします。ここでの重量は救済です。信仰は、重量を持ち上げる筋肉であり、聖霊は筋肉を活性化させそれに力を与えるところのカロリー・エネルギー(エネルゲイア)です。救済は、御霊のエネルゲイアを通し、重量を持ち上げるべく人が信仰を働かせる時起こり、――その過程が良い行ないと呼ばれているものです。

 

それゆえ、聖パウロはキリスト・イエスにあっては割礼を受ける受けないは大事なことではなく「愛によって働く信仰だけが大事」(ガラテヤ5:6b)と言っています。なぜならそれがキリストとの結合だからです。「今私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:20b)。故に、行ないは信仰の実ですが、自動的に生まれる実ではないのです。

 

以上が義認に関する正教教理の説明でした。そしてこの説明は大部分においてカトリックの義認教理にも通じていると思います*1。正教と一般的な福音主義の義認論にどのような違いがあるのかについての理解に少しでも役に立てましたら幸いです。*2

 

N・T・ライトの信仰義認見解(by セラフィム・ハミルトン師)

 

N.T. Wright’s View of Justification(拙訳)

 

義認論および十字架の教えに関するN・T・ライトの見解がしばし不正確に説明されている現状を踏まえ、私はこの記事を書くことにしました。以下に記すのはN・T・ライトの諸見解であり、私自身の見解ではありません。(私はこれまでライトの釈義および聖書神学から非常に多くのことを学んできましたが、義認に関する彼の見解は堅固に改革派伝統に根付いています。)

 

代償・身代わり(Substitution)

 

N・T・ライトにとり、義認の前提条件はキリストの代償的贖い(substitutionary atonement)です。これはある方々にとって驚きでしょう。というのも、ライトはしばし「刑罰代償説の教理をないがしろにしている」と非難を受けているからです。しかしライト自身は首尾一貫してそれとは反対のことを述べ続けています。曰く、「代償的贖いの諸公式にまつわる問題点はそれらが抽象的であり聖書ナラティブの具体的特殊性から切り離されていることにある」と。

 

ライトによると、世界を祝福し滋養すべく、神はエデンの園にアダムとエバをお造りになりました。アダムとエバが罪を犯した時、彼らは死ぬであろうとの呪いを受け、その呪いはエデンの園からの追放という形で具体的に表されました。アブラハムおよびイスラエルの選びは、アダムに起こったことを取り消す旨をもって企図されており、ライトによれば、イスラエルは集合的アダム(corporate Adam)として理解されています。しかししながらここでの問題は、イスラエルが、その他の世界の人々と同様、アダムを先祖に持ちアダムの呪いおよびアダムの堕落した意志に必然的に与っていることにありました。本来ならイスラエルは問題に対する解決として企図されていたのですが、イスラエルは問題の一部と化してしまいました。

 

イスラエルが集合的アダムでありアダムのように罪を犯してしまったため、――彼らは追放されました。追放と死の間の深い関連性は、エゼキエルの幻の中に表されており、そこでは追放された捕囚のイスラエルは‟非常に多くの骨”として表現されています。

 

多くを与えられた者にはまた多くが要求されます。これが意味するのは、イスラエルの罪は異邦の国々のそれよりもずっと深刻であったということです。イスラエルには光が与えられていたにも拘らず、罪を犯してしまったからです。トラーの賜物はイスラエルの心を癒すことができず、そればかりか使徒パウロが言っているように、むしろ罪が「極度に罪深いもの」(ローマ7:13)とされてしまったのです。ここにおいてメシアであるイエスの道が敷かれます。

 

イスラエルのメシアとしてのイエスは国全体の個的体現である、そしてイスラエルは集合的アダムでありイエスは個的イスラエルであるゆえに最後のアダムである、とライトは論じています。イエスはイスラエルの選びを自身の身に負い、それゆえに、主はご自身の肩にイスラエルのあらゆる罪深さを請け負われ、十字架において、主はイスラエルの追放・捕囚をご自身の身に負われました。追放は死であり、イエスは死なれ追放されました。それ故、ライトによれば、ガラテヤ3章10節の ‟トラーの呪い” はトラー=呪いということではなく、トラーの中にある呪い(申命記27-28章、追放の呪い)です。罪の報酬は死であり追放です。そしてイエスは罪のための刑罰を負われました。以上がN・T・ライトによるキリストの代償的御業です。

 

義認(Justification)

 

イエスの復活はこれに続きます。キリストは罪なき御方であったにも拘らず、自発的に追放の刑罰をお受けになられたゆえに、神はイエスを法的に義と宣言され、その宣言は死から蘇られたイエスの復活に表されています。それゆえ、ライトによれば、復活はイエスの義認です。そしてイエスはイスラエルであるゆえ、これはイスラエルの贖いそして回復です。この部分において、ライトに対する改革派批判者たちは通常、誤ったダイコトミーを提示してきます。

 

改革派系列のライト批判者たちは「義認に関するライトの見解は救済論というよりはむしろ教会論である」と主張する傾向があります。しかし両者はキリストの御業の中で完全に同延(coextensive)なものであるとライトは明確に述べています。一方はもう片方を必要としているのです。イエスはからだのよみがえり及び、パウロが言うところの‟肉”からの解放により義化されたゆえに、キリストに結び付いている人もまた、肉において罪の力から解放されます。

 

キリストにおいて罪から解放されることはすなわち、アブラハムのファミリー、そして刷新されたイスラエルの中に置かれることです。なぜなら贖われ義化されたイエスは刷新イスラエルの個的体現だからです。それではそれは何の信仰なのでしょう。ライトによると、‟イエス・キリストの信仰”こそがこの御方をイスラエルのメシアおよび神の御子として際立たせています。信仰はメシアの記章であるゆえに、信仰は神の民の記章です。人が新生し、信仰を示す時(*ライトは新生は信仰に先立ち、単働的(monergistic)だという見方をしています)、その人はメシアに結び付き、主にあって義化されます。それゆえ、ライトによると、義認は信仰のみにより受容され、法廷的裁定により制定されます。

 

転嫁(Imputation) 

 

それでは義認の基盤は何なのでしょうか。それは最後の審判とどのように関連しているのでしょうか。多くの批評家たちは、ライトが ‟義認の基盤はクリスチャンの行ないにある” と言っているとして彼を批判しています。しかしながらライトはそのような事は言っていないと否認しています。

 

ライトによると、義認の唯一の根拠は、信者に対するキリストの義の転嫁にあります。ライト関連の論争は ‟転嫁” をめぐってなされる傾向にありますので、これは多くの人にとって意外なこととして映るかもしれません。ここでの鍵は、どういう意味でライトが転嫁された ‟義” のことを言っているかの理解にかかっていると思います。

 

信者に転嫁された義は、イエスの生涯を通して為されたキリストの御業ではなく、イエスの復活により顕現されたものとしての(御父の右の座につかれた)イエスの着座にあるとライトは奉じています。それゆえ、信者に法的に転嫁されているのはイエスの死と復活に他ならず、この基盤においてのみ人々は義とされるとライトはみています。

 

それではここにおいて‟行ない”はどう理解されているのでしょうか。ある人々は、「ライトは、最後の審判は ‟行ないに従って according to works” (←使徒パウロのローマ書2:6からの直接引用)であると言っており、従って、彼は信仰のみの義認を否定しているのだ」と論じています。

 

しかしながら、著書『パウロと神の忠実さ』の中でライトは ‟行ないに従って according to works” と ‟行ないによって by works” を区別しています。最後の審判においても、義認は尚、信者に対するキリストの復活の転嫁のみを基盤にしているとライトは信じています。しかしながら、判決自体は‟行ないに従って”なされます。なぜなら、御霊が信者の内に宿っており、そこから良い行ないに満ちた生が生み出されるからです。それゆえ、そういった良い行ないは判決の根拠とはならない形で、最後の判決に対応しているのです。

 

以上が私なりの説明でした。皆さんに分かっていただきたいのは、実際には、ライトの諸見解は古典的改革派の見解とそう大した違いはないということです。そしてこれらはいずれも私の諸見解ではありません。前述しましたように、私はライトの釈義から非常に多くのことを学んできました。ですが彼の神学は彼の釈義よりも健全さに欠けるような気がしてなりません。私自身の(そして正教の)義認観に関しては前項の「信仰義認について」の論考で説明いたしました。当記事を読んでくださりありがとうございました。*3

 

さらなる考察のための資料

 

①義認に関するカトリックとルーテル派牧師のディスカッション

 

カトリック弁証家マイケル・ロフトン師とルーテル教会ブライアン・ウォルフミュラー牧師が義認に関するカトリックとルーテル派の見解の違いについて↓のビデオの中で話し合っています。二人は義認における「初期 initial」と「増し加わる増加 increases」の違いについて検証しながら、そういった区別が具体的にどのような適用の違いを両コミュニオンの信者にもたらしているのかを考察しています。さらに、聖パウロによる「律法の行ない」という概念についてのそれぞれの取扱いおよび、義認に関する聖アウグスティヌスおよびルターの見解について話し合っています。

 

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②人は、転嫁されたキリストの義により、信仰のみによって義とされるのだろうか?セラフィム・ハミルトン師(東方正教)と改革派カルヴァン主義者マット・スリック師(プロテスタント)の公開ディベート

 

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③義認について。ルーテル教会ジョーダン・B・クーパー牧師(プロテスタント)と哲学者ロバート・C・クーンズ師(ローマ・カトリック)の公開ディベート

 

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