巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

危機を通った先にある新しい展望の拡がり

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目次

 

「ルターのパウロ解釈が間違っている?そんな事があり得るのだろうか?」


このビデオでテーラー・マーシャル師は、パウロ観を巡るカトリックとプロテスタントそれぞれの見方について説明しています。彼はプロテスタント時代次のように思っていたそうです。「パウロがローマ書やガラテヤ書で語っている福音の真理をカトリック教徒が理解できさえすれば、彼らもまた宗教改革の真理に立ち帰ることができるのに!カトリック教徒たちが福音の真理(信仰のみによる義認)を悟るに至れていない主原因は、彼らがパウロ書簡を読み違えているからだ」と。

 

ところが、福音主義神学校に在学中、サンダースやN・T・ライトといった学者たちを中心とする「パウロ研究の新しい視点(ニュー・パースペクティブ)」に出会い、マーシャル師の中でパラダイム転換が起されました。「ルターのパウロ解釈が間違っている?そんな事があり得るのだろうか。ルターの信仰義認論というのはプロテスタンティズムの真髄ではないか。それが真ではないとなるなら、一体なにが真なのか?」


振り返ってみますと、私も同じような危機を経験しました。実際、ニュー・パースペクティブは、プロテスタント信者がカトリックや東方正教に改宗してゆく一種の連絡通路になっています。それゆえに、福音主義の〈忠実派〉牧師や神学者の方々はこのテーマを非常に真剣に取り扱っておられます。これらの方々は「旧視点」と「新視点」を巡るこの問いの答え如何によっては自分のこれまで立ってきた足場自体が崩れ去ってしまうかもしれないという真の危機意識を持っておられます。それゆえに全身全霊で「ニュー・パースペクティブ」問題に取り組んでおられるのです。

 

2018年の1月に、私は抵抗派の代表者の一人であるD・A・カーソン師の「新視点」批判論考を翻訳しました。しかしそれからしばらくして私の中でもマーシャル師と同じような混乱と迷いが生じ始め、どちらの視点が正しいのか分からなくなり、その記事を一旦下書きに戻しました。その時の様子を私は2018年4月2日付けの記事で告白しています。(〔補足欄〕参照)。

 

注目していただきたいのは、私がこの告白の中で「転向」という言葉を使っていることです。そしてプロテスタント読者の皆さんに向け、「自分は転向していない。私はルターの信仰義認論を今も信じている」ということをアピールしています。なぜでしょうか。おそらく「ここが崩されたら私のプロテスタント人生は終わりだ。だから何としてでもこの足場を守らねばならない」という危機意識があったのだと思います。


「超エキュメニカル派から何の良いものが出るだろう?」


先日、あるテーマに関し、正教界でラディカルなリベラル派として知られている主教の論文を読む機会がありました。私は「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネ1:46)と言い放ったナタナエルの如く、「超エキュメニカル派から何の良いものが出るだろう」といった否定的な思いでその論文を読み始めました。ところが自分の予想に大きく反し、彼は案外筋の通ったことを言っているように思われたのです。不吉なことに彼は、伝統派の代表者として有名なK主教の論点の矛盾を「正統派三位一体論」から説き、立派に論駁できているようにみえました。そんな事があるのだろうか。そんな事があってよいのだろうか――。私は驚き、困惑しました。

 

聖伝から大きく逸脱した異端的な内容を公言してはばからない人が、ある別のテーマに関してはきわめて正統なことを論じ、むしろ真理の擁護者として輝かしい信仰の勇者になるということがあり得るのでしょうか。アリウスでもあり聖アタナシウスでもあるということがあり得るのでしょうか。


探求の過程で遭遇するこういった「不愉快な」発見は私の従来の固定カテゴリーを揺さぶり、混乱させ、立ち往生させます。でも後になってその時のことを振り返ってみますと、実はその「不愉快さ」こそ次なる祝福の道に導かれる幸いの門であったことに気づかされるのです。

 

この先、またどれだけの門を通ることになるのか分かりませんが、危機が到来するたびに、その向こうに必ずや用意されているであろう新しい祝福の展望を信仰によって仰ぎ見ることができるよう願ってやみません。

 

ー終わりー

 

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

 

〔補足〕2018年4月2日付「解釈者の苦悶と告白」

 

今年の1月に私は、D・A・カーソン師の執筆した“Faith”and “Faithfulness”という記事を翻訳し、本ブログに掲載いたしました。しかしその後、私の中で、解釈上のある混乱が生じ、そのため、しばらくの間、この記事を下書きの状態に戻すことにしました。

 

そうしたところが、ある方からなぜあの翻訳記事を削除したのかという問い合わせがありました。しかしその時、私は自分の葛藤をうまく言葉に表すことができず、きちんとした回答を差し上げることができませんでした。今ようやく少し頭の整理がつき、説明を差し上げることが可能になってきましたので、拙いながらも回答させていただきたいと思います。

 

私が翻訳した記事は、ローマ3:22のdia pisteos lesou Xristouを「イエス・キリストを信じる信仰によって」(口語訳)と訳すかそれとも「イエス・キリストの信実によって」と訳すのかに関し、改革派神学の立場(カーソン)から、パウロ研究の新視点(N・T・ライト)を批評したものでした。そのため、この記事を削除したという行為により、私がパウロ研究の新視点(NPP)に「転向」したのではないかと疑惑を持たれた方がいるのはないかと思います。まず、その事に関して弁明させていただきますと、私は「転向」していません。そして今でもD・A・カーソン師の語解釈には説得力があると思っています。つまり記事の主旨に納得しているということです。

 

それではなぜその記事を一旦下書きに戻したのか、ということに関してですが、その理由は自分の「先入観」そのものに対しほとほと嫌気がさしてしまったからです。つまり、テキストを読む前に、すでに(自分の望む)結論を出してしまっているという事実に向き合わざるを得なくなったのです。

 

ルター的信仰義認論は、「教会が立ちもし倒れもする条項」とされるほど、伝統的プロテスタント信仰において核となる教理です。それは私たちの多くとって信仰の柱であり拠り所となっている根幹教理の一つです。それで私の中に、「dia pisteos lesou Xristouは従来通り、『イエス・キリストを信じる信仰によって』という訳であってほしい」という先行的願いがあり、そういった願いが(その線に沿った)批評記事を私に選ばせたのではないかという疑念を自分自身に対して持ったのです。そして、この件についての私の態度は、純粋に釈義的なものというよりは、心理学的なものがかなり幅を利かせているのではないかと思ったのです。

 

今月中にアパートを賃貸したいと思っている人は、普通に通りを歩いていても、なぜだか「入居者募集中」という看板や貼り紙がやたらに目に入ってくる経験をします。犬を飼いたいなと思っている人は、他の人が気づかず通り過ぎてしまうような小さなペット広告にもなぜか目が止まります。街には他にも何千何万という種類のさまざまな広告が溢れていますが、通常、私たちはそれらのほとんどに気づかない(or さっと通り過ぎる or 意識していない)でいます。

 

しかし気づいていないからといって、別の何千何万という広告が「不在」なわけではありません。それはそこにあるのです。しかし人は自分の持っている関心や視点により、ほとんど無意識の内にそれらの雑多な情報の中からある一部を「抽出」しているのではないかと思います。(しかし多くの場合、私たちはそういった情報が「目に飛び込んでくる」という表現をします。この領域における人の認識メカニズムがどのようになっているのか私にはよく分かりません。)

 

それで、私の場合ですと、まず「義認論における伝統的なプロテスタント信仰を保持したい」という先行的思いがあり、そこから無意識的な次元で情報の取捨選択作業が行われているのではないかと推測します。そのため、pistisに関する釈義の過程においても、無意識のうちに、私は自分の望む結論をより強固に後押ししてくれるような "証拠" や議論の方をより多く「抽出」している(「目に飛び込んでくる」)一方、自分の望まない方面の結論を強固に後押ししているような "証拠" や議論には不思議と「出会わない」(「目にとまらない」「気づかない」「パスしてしまっている」)可能性が無きにしもあらずだと思うのです。そういった私の不吉な予感を言い当てるかのように、橋本昭夫師は『福音主義神学』の中で次のように述べておられます。

 

「ここに見るように、ルター神学的な神より与えられる受動的な義としての『神の義』をライトは否定する。これに関連して、とくにローマ3章22節において『イエス・キリストを信じる信仰によって』(口語訳)と訳されてきたdia pisteos lesou Xristouという句も、『イエス・キリストの信実によって』と訳することが可能とされ、それはまた『神の契約に対する忠実としての義が、イエス・キリストの信実(pistis)によって(顕された)」という意味をもつとされる。これもまた主格的か目的格的かが論議される中心的な属格表現である。この論議にもまた立ち入ることはできないのであるが、どちらをとるかは、結局はその解釈者の神学によるということになる。」『福音主義神学』46号(2015年)

 

それで私が直面している問題は、「旧視点が正しいか、新視点が正しいか」というテーマ以前の先行的思い入れにあり、その先行的思い入れが、初めから、解釈者である自分の立場を決めてしまっているという点にあります。

 

もちろん、度合は違えど、誰の内にもこういった種類の「先行的思い入れ」や「固定レンズ」は少なからず存在し、それから完全に自由な人は、神ご自身を他において誰もいないとは思います。しかしある場合には、とりわけ強く、その「先行的思い入れ」の存在が浮かび上がってくる時があり、本稿のケースがそれに該当します。そしてここにおいて、〈保守性〉の持つ長所と短所がより明らかになってきます。信仰における保守性は、その人が「何を」守ろうとしているかによって、最良のものにもなれば、逆に解釈における最大障害ともなり得るということです。

 

自分は、聖書の真理を守ろうとしているのか、それとも、「義認論における伝統的なプロテスタント信仰を保持したい」という、自分がこれまで聖書の真理だと信じてきたもの及びそのスタンスを守ろうとしているのか?私は無意識の内に、心のどこかで「安住」を求めてはいないだろうか。揺さぶられ、変更を強いられることを恐れているのだろうか。それでは、なぜ恐れているのだろう。仮にも自分の従来のスタンスが間違っていた(誤解だった)ということが発覚した場合に失うに至るかもしれない、人間関係やつながりや面子の喪失ーーこれを恐れているのだろうか。もしかしたら、私は、ルターの思い入れの詰まった「パウロ観」でずっと育ってきたのだろうか。それとも、こういった動揺自体が、サタンからの攻撃なのだろうか。それともこれは一つの良いチャレンジなのだろうか。

 

そして仮に「新視点」の方の見方が、より忠実なるパウロ解釈だったとした場合、私たちプロテスタントはこれからどこに向かっていくのだろうか。この流れはどこに行きつこうとしているのだろうか。この流れに身をゆだねていいのだろうか。それとも決死の思いでこれに抵抗しなければならないのか。あるいは答えはそのどちらでもないのか。。。

 

 「『テキストが語っていること』と、『そのテーマについて自分が関心を持っている(gravitate to)こと』の間のいくつかの違いを理解した後に初めて、私たちは真にテキストを理解する備えができるようになります。特に、私たちはテキストを把握し理解していくために、「疎隔(distanciation)」というものがやはりどうしても必要であるということを認めざるを得ないと思います。つまり、解釈者は、自分自身の理解の地平を、テキストのそれから「遠ざけ/距離を置く(distance)」必要があるということです。そしてこういった相違がより明瞭に自覚されてゆけばゆくほど、私たちは、より優れたきめ細かさや感度を持ち、テキストに接近することが可能になっていきます。、、もしも私たちが自分自身の諸前提、問題意識、問い、関心、先入観などの存在を認識し損なうのなら、その時、私たちの内で、真の知識はほぼ不可能になります。

  しかしその反対に、私たちがそれらを認識し、そうした上でテキストに向き合う際、自分の持つ諸前提などの存在を意識して考慮に入れようと努めるなら、私たちは、自分自身の世界観と、聖書記者たちのそれとをごちゃ混ぜにするような過ちを、より強固に避けることができるようになるということです。」出典

 

私の場合でいいますと、pistisの訳問題を含めた「旧視点vs新視点」の理解に当たり、まず「義認論における伝統的なプロテスタント信仰を保持したい」という自分の先行的思いに一旦、「疎隔」がなされなければならないということです。もちろん、そういった疎隔がなされても尚、私は解釈を誤る可能性から完全に自由になるわけではありません。しかし最低限、その部分が自分の内で明確化され、対処されない限り、私はもはや自分の判断自体をまともに信頼することができなくなります。しかしそれにあえて直面し対峙しようとする時、御霊は切なるうめきの内に、この弱き者を助け、より明瞭なる理解のためにわが心と知性に光を照らしてくださるのではないかと信じ望んでおります。

 

ちゃんとした回答になったのかどうか分かりませんが、以上が私の告白です。読んでくださってありがとうございました。