Edward Siecienski, ‘Unity of the Churches—An Actual Possibility: The Rahner-Fries Theses and Contemporary Catholic-Orthodox Dialogue,’ in Analogia 9, Ecclesial Dialogues : East and West I. (はしがきの部分を翻訳)
はしがき(個人的所感)
『フィリオクゥエ――教理論争史』(オックスフォード大学出版、2010年)および、『教皇制と正教――源泉資料および論争の歴史』(同出版、2017年)を出版してから数年が経ちました。その間、カトリックや正教の友人たちから「いつになったらこれらの諸論争は終結をみ、両教会の再一致という目標がついに現実化されるのか?」という質問をたくさん受けてきました。
これまで私はそれらの問いに対し印刷物の形では何も公言してきませんでした。なぜなら私は両教会において何がなされるべきなのかということを詳説することよりも、これまでいかなる論争史が繰り広げられてきたのかという歴史記述の枠組みにあくまで自分を制してきたからです。それゆえ私の著述は大体において規範的というより記述的でした。これは未来よりも過去のことにずっと関心を払っている教理史家として自然な結果であったと思います。
しかしながらここ20数年に渡り、両教会大シスマの起源および進展を研究してきた一学者として、私はしばし「ああ次のステップを取れたらどんなにいいだろう」と願わざるを得なかったことをここに告白したいと思います。自分が学び見い出してきたものを用いつつ、教会分裂に癒しがもたらされるべく私たちが実際に何を為し得るのかということに対する提言です。
もちろんこのステップを取り、共有された私たちの歴史を基盤にカトリックとオーソドクス諸教会がフル・コミュニオンに向けて互いに近づいていくための実際的提言をなしていくとなると、もはや「過去」の中だけにとどまっているわけにはいかなくなります。つまり、自分の「安全ゾーン」に閉じこもっているわけにはいかなくなるということです。私は躊躇し、ためらいました。なぜなら諸解決案を提言するより過去の年代記を記述している方がずっと精神的に楽だからです。私が実際的提言をするやいなや、左右両サイドから批判が相次ぐことでしょう。――特に、こういった試みが妥協と相対主義を招くと考えている人々からの批判が。
また私はこれまで「客観的で中立的な立ち位置をとっている」ということで定評をいただいていましたので、その評価を失うことをも恐れました。未来に向けた提言をしていくことで、人々が「ああ、彼はついにうっかりと手の内を見せ、自身の偏見やひいき目を露わにするに至った」と非難してくるのではないかと正直、恐れました。
しかし、そういうことがあって尚、このリスクをとるだけの価値があると私は判断するに至りました。なぜなら、キリスト者の間の一致は私にとって単なるアカデミックな関心ではないからです。それどころか、愛する友人や家族と共に同じ祭壇に近づくことができないでいる世界中の何百万という人々と同様、私にとってもまた、キリスト教の不和・分裂は単なる神学的懸念以上のものです。そう、それは実存的懸念でもあるのです。*1
それゆえ、これまでの研究成果を踏まえた上で両教会の再一致に向けた具体的ステップを提示する時がついに訪れたと私は判断したわけです。そしてシロス会議の企画者の方々が本誌投稿の機会を提供してくださった時、私は快諾したのです。願わくば、本論考がこのタスクを果たす上での最初の試みとなるよう祈ります。
エドワード・A・シィチェンスキー教授、ストクトン大学宗教学部