巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「教派壁」の向こう側にいる「他者」をどのように捉えればよいのだろう。――顔と顔を合わせた心の交流から生まれてくるもの

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夕ぐれて秋めく風や歩をゆるめ 丹羽敦子(酸漿)

 

先日、正教神父アンドリュー・ステファン・ダミック神父へのインタビューVTRを観ました。とても教えられることの多い洞察に満ちた内容でした。

 

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まずインタビューのセッティングですが、ムーディー神学院に通う福音派の神学生オースティン君(22)がダミック神父に「なぜあなたは正教徒なのですか。」「正教徒は非正教徒クリスチャン(プロテスタント、カトリック等)のことをどのようにみていますか?」「オーソドックスとカトリックは互いにどのくらい近く、またどういう点で違っていると思いますか?」「福音派・聖霊派とオーソドックスの間でなにか共通点がありますか?」「近年インターネット上で物騒を醸し出しているNetOrthoBro系の人々のことをどう思いますか?」等、率直な質問をしています。

 

心に留まったのは18:00~のところでダミック神父が紹介しておられた、separated brethren(別たれた兄弟)の存在に関するゲオルギー・フロロフスキーの捉え方でした。フロロフスキーは20世紀最大の正教神学者の一人であり、生前、プロテスタントやカトリックの神学者たちとも盛んに意見交換をしていたそうです。

 

彼によると、正教界ではこれまで、separated brethren の “separated”という部分と “brethren”という部分のどちらか一方を極端に強調する二傾向があったそうです。“brethren”の部分のみを強調する人々は、「どの教派の人も皆イエス様を愛しているのだから、皆、兄弟。だから互いの間に存在する違いのことをとやかく言わないようにしよう」というムードです。それに対し、“separated”の部分のみを強調する人々は、いかに正教が他の教派と違うのかという、その「違い」に(救済論的な側面を含めた)非常な重点を置きます。彼らによれば、正教・非正教の境界線の「外側」にいる人は、皆一様に霊的暗闇の中にいます。

 

ですから、彼らの秤によれば、バプテスト教徒もイスラム教徒も、ヘテロドックスの暗闇の中にいるという点でなんら違いはありません。ダミック神父も指摘していましたが、こういった両極化はなにも正教界に限った現象ではなく、他のクリスチャン・コミュニオンにおいてもしばし見受けられる現象だと思います。ダイ・ハードな〈鎖国派〉と無差別なんでもありの〈開国派〉――この二極です。

 

フロロフスキーはこの両極端を避け、中庸路線を歩むよう私たちを鼓舞しています。つまり、教理の違いを見て見ぬふりをしてはいけないし、それをないがしろにしてはいけない。(正統教理を死守するためこれまで公会議が開かれ、多くの殉教者が血を流してきた。教理は非常に大切。)しかしその一方、私たちの間に存在する「違い」には濃度の差がありスペクトルがあるという点もしっかり押さえなくてはならないと。例えば、イエスの神性および三位一体神を信じているプロテスタント教徒は、それを信じていない宗教グループの人々に比べ、正教クリスチャンとより近い関係にある。カトリックとの関係でいえば、キリスト論に関しては互いに一致している。(だが、三位一体論に関していえばフィリオクゥエ条項ゆえに一致をみていない。)等。

 

私の聴罪司祭もいつも「両サイドの極共に落とし穴があります。険しい道ですが偏らず、中庸であるよう祈り求めてください」と私に指導してくださっていますが、本当にここには知恵と神の恵みの介在が不可欠だと思わされます。十字架に架かり、私たちの罪のために死に、三日目に復活してくださった主イエス様を愛し、この御方のみこころを求め、悔い改めとへりくだりの道を一歩一歩辿っていく先に他者との真の和合と交わりの場が備えられているのではないかと望みます。

 

また正教会のダミック神父と福音派神学生オースティン君の対話をみていて思わされたのは、顔と顔を合わせた人格的交流の大切さです。教派壁の向こうにいる「あの人たち」が「汝」ではなく「それ it」になってしまう時、弁証や論駁はいつしか(抽象的)「敵」に対する憤怒や優越感、あるいは自我・集団プライドを満たすための無慈悲でむごいナイフと化し、キリストのみからだは傷つけられます。

 

向こう側にいるのがまぎれもない私の隣人であり、キリストが死んでくださったほどに尊い価値をもった一人のかけがえのない人間であることを思う時、たとい意見、解釈、パラダイムに相互に正誤・違いがあることが認められるにしても、私たちは互いに関わり合うことをやめることはできないだろうと思います。私たちが大祭司キリストの祈り(ヨハネ17章)に真剣に真摯に答えていこうとする限り、無関心や憎悪、つめたい拒絶は常に悔い改めとへりくだりを通した十字架の溶鉱炉で燃やされ、そこから必ずや相手のこころの中心に向かった愛と和解のメッセージが発せられていくと信じます。

 

ーおわりー

 

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

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