巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

東西の伝統派信者たちが取り組む必要のある諸課題と自省

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出典

「他人の経験は、よしそれがいかに偉大なものであれ、何人にとっても完全に十分なものとはいえない。各人は、自分自身のために、本質的な問題、少なくとも自分にとって死活の問題の検討をし直さなければならない。私たちはそれゆえに、自分たちの真理の探究を続けていった。」ライサ・マリタン

 

以下は現時点における私の気づきとそれに伴う自省をつづった文であり、段階的考察です。今後、主の光の中で教えられ、さらに修正・改訂・補足してゆけたらと思っています。

 

 

 

東方正教会では「聖人たち」が私たちの権威?Sola Saints?

 

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ピーター・ヒルズ首司祭(在外ロシア正教会)が、福音主義の若い神学生オースティン君の質問に答える形で、正教会における聖書の役割、聖伝の定義、啓示、権威、「どの会議が全地公会議なのか、どのようにして決定されるのか」等について語っておられます。このビデオの内容に関し、正教徒、カトリック教徒、プロテスタント教徒からさまざまな応答がなされています。私はヒルズ首司祭と個人的に連絡を取ったこともあり、彼の著作やビデオ講義なども聴いたことがあります。


私が一番ひっかかったのは、「正教会にはカトリック教会のような教導権はない。聖人たちが私たちの権威なのです」という彼の権威観でした。これは20世紀の正教神学者ヨアンネス・ロマニデス神父の見解を採用したものと思われます。ロマニデス神父のこの見解の持つ問題点に対し、セラフィム・ハミルトン師は次のように述べています。

 

「ロマニデス神父は教会における権威を単に「カリスマ的長老たち〔=聖人〕」という別の〈教導権〉に変じ、キリスト教神学構築における理性および学術的学びの果たす役割についてこれらを軽視しています。ロマニデス神父の見解でいくと、聖書も聖伝も、聖霊の賜物に恵まれた「生ける長老」に比べればそれらは第二バイオリンの役割を果たすに過ぎないということが暗示されています。例えば、「聖書は、啓示そのものというよりは、啓示に対する証言であるに過ぎない」「聖書はカリスマ的諸聖人に関連してはじめて霊感される」とかいった彼の言明は、シリアの聖エフレムや証聖者マクシモスの聖書に関する告白(「主は私たちの言語においてご自身の身を包まれた」)とは純然たる対照をなしています。」*1

 

コメント欄での人々の批評とヒルズ首司祭の応答を読む中で私は、正教会伝統派の一部にみられるこの見解から導き出され得る危険な落とし穴が具体的にどのようなものなのかにはっと気づかされました。それは「主教」の存在意義そのものに対する脅威と教会ヒエラルキーの崩れです。

 

ヒルズ首司祭は、主教が主教として権威を付与されるべく、主教には生き方、信仰生活における「聖性」が同時に兼ね備わっていなければならないという旨を述べておられると思います。しかし私の知る限りにおいて申し上げますと、こういった見解はおそらく東方、西方両教会において正統なものとしては認められていないだろうということです。勿論、一般信徒と同じく主教も聖性を求め、聖性に生きるべく上にあるものをひた求めることが要求されていると思います。

 

しかし究極的に言って、主教Aに使徒継承を引く使徒的権威が与えられているのは、Aという一人の人間の聖性・罪性の度合い如何によるのではなく、叙階(叙聖)の秘跡により授与される聖なる職制そのものゆえであるというのが東西教会の一致した立場であるように理解しております。それゆえに、(最悪の場合)たとい主教BやCがキリスト者としての倫理に沿わない生活をしていたとしても、彼らの司教職そのものゆえに、BやCという罪深い人間を通しても洗礼や告解の秘跡は有効とされるわけです。


この点に関し、ヒルズ首司祭ご自身はそれなりにバランスの取れた説明をなさるかもしれません。しかし信仰歴の浅い私やその他の一般信徒が彼のメッセージから、「ああ、なるほど。ローマのF司教やコンスタンティノープルのB司教は聖性に満たない世俗的言動を繰り返している。だからFやBには司教としての権威はないのだ。彼らは司教としての資格を持っておらず、私たちの権威でもない。私たちが従い敬うべき真の権威は聖人たちなのだ。」という誤った受け取り方をする危険性はやはりあると思います。そして不吉なこの予感を裏付けるかのように、この界隈の正教改宗者たちはネット上でしばし口汚く主教たちをののしっています。実際、この事に気づかされた時、私の心に悔い改めとそれから主教一般に対する尊敬・恭順への思いが与えられました。私はこの点で大いに誤ってきたのかもしれません。

 

テーラー・マーシャル博士(聖ペテロ司祭兄弟会)の第二バチカン公会議観に対する詳細批評

 

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それから上は、カトリック教会伝統派神学者であるテーラー・マーシャル博士(聖ペテロ司祭兄弟会)の第二バチカン公会議観に対する詳細批評ビデオです。私は個人的にカトリック教会の伝統派信者の方々がこの批評に対しどのような感想を抱かれるのかそこに関心があります。

 

何人かの方々が指摘しているように、マーシャル師の現在取られている第二バチカン公会議観とその方向性がプロテスタンティズムのスタンスに接近している感は確かにぬぐえません。とても難しいですね。どうしたらいいのでしょう。実際的脅威としてのモダニズムやリベラリズムと闘いつつ、いかにして教会の内なる統合性を立証してゆくことができるのか。教会の改革者たちはいつの時代にもこの絶妙なる緊張の綱の上をいかにして乗り切ることができるのか模索していたのだろうと思います。傍観者的なポジションから彼らの不完全さや矛盾を指摘することは容易ですが、「もしも自分が実際にこの綱渡りをしなければならない状況に追い込まれたとしたら。。」と仮定してみると物事は断然違った風にみえてくると思います。

 

東方正教神学は第二バチカン公会議に影響を及ぼしたのだろうか?


第二バチカン公会議研究は、東方正教世界でも重要です。ウクライナ・カトリック大学のPavlo Smytsnyuk教授は、「第二バチカン公会議の教えとユーカリスト的教会論―正教神学は第二バチカン公会議に影響を与えたのか?」という論文を書いておられます*2。その中でSmytsnyuk教授は、公会議前夜、パリの亡命ロシア正教神学者たち(アレクサンドル・シュメーマン、ニコラオス・アファナシエフ等*3.)と、ヌーベル神学派神学者たち(アンリ・デ・リュバック、イブ・コンガ―ル等)の間に親交があり、コンガ―ル枢機卿の公会議日誌の中においてもロシア正教神学者たちの彼らに及ぼした神学的影響の跡がみられることを論じています。

 
そしてもしそれがそうなら、ピーター・ヒルズ首司祭が著書*4の中で、「西方カトリック教会の教会論的・秘跡的イノベーションが、イブ・コンガ―ル等の神学者たちを通し、ついに第二バチカン公会議という逸脱へと結実した」としているのは問題があると言えないでしょうか。なぜなら正教神学の方こそむしろ第二バチカン公会議に何らかの影響を及ぼしたとする主張の方が事実に即しているのかもしれないからです。ヒルズ首司祭の本著に対しては米国正教会ジョン・コックス神父からの批判論文があります*5。とはいえ、この分野に関してはヒルズ首司祭のこの著書以外には本格的な第二バチカン公会議研究書はまだ出されていないようです。今度の研究の発展と深化に期待したいと思います。*6

 

おわりに――生きるために真理が必要

 

パスカルのうちで、とりわけて私に強い力を及ぼしたもの、それは、かれが持った深淵の、かれがその縁を歩んだ深淵の感覚であり、確実性を拒まれた「人間」の名にふさわしいすべての人をとらえる、眩暈と絶望の知覚である。また、生きるために真理が必要であること、魂を真理に結びつけるためには絶対が要求されることを、かれが体験し深く苦しんだことである。ライサ・マリタン

 

真理という 言葉に、そして善と悪、正と不正との区別に、なにかの意味を見出すことをやめるなら、もう人間的に生きることはできない。苦しみに満ちた人生を受け入れることはできても、不合理な人生を受け入れることはできない、とライサは自伝の中で告白しています。伝統派キリスト者たちのあらゆる苦悩、あらゆる葛藤、あらゆる衝突、あらゆる問いかけの根底には、人間が人間として生きるためには真理が必要であり、真理なるペルソナ、審判者イエス・キリストが実在しているのなら、この世界を覆っている闇はやがて光に飲み込まれ、不義は裁かれ、混沌に秩序がもたらされ、永遠なる神の義が万物に回復をもたらすことに対する信望が在ると思います。

 

「いずれの場合にせよ、事物の状態は、存在を明らかにする真の光なしには受け入れられない。このような光があり得ないなら、存在もあり得ない。そして、生きる値打ちもない。。。私たちは、この苦悩の歌に、陰鬱な詩節の数々を付け加えていった。けれども、私たちの魂には、いつもあの条件法があった。あの小さな希望が、光明への道へ半ば開かれた戸は、いつもあった。」

 

ーおわりー

*1:

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

*2:https://www.researchgate.net/publication/335602117_The_Teaching_of_Vatican_II_and_Eucharistic_Ecclesiology_Did_Orthodox_Theology_Influence_Vatican_II

*3:The Nouvelle Theologie: The Nature of Theology with Dr. Matthew Minerd, Youtube.

*4: 

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

*5:blogs.ancientfaith.com

*6:参 ウォーレン・G・ハーディング:Have you read the book on Vatican II by Fr. Peter Alban Heers? I haven’t but I imagine it takes quite a rightist position?

セラフィム・ハミルトンI have it, haven't read it straight through. I've read several of his articles and talks- was not at all impressed. There's a lot of raw deduction going on separated from the lived life of the Church as attested by her canonical tradition and praxis- for example, sacraments constitute the Church, the Orthodox Church is the Church, therefore there are no sacraments outside the Church, thus, all converts must be baptized- well, the fact is that traditionally we don't baptize converts from Trinitarian traditions- this is the rule, not the exception, and the historical evidence is very clear on that. Starting from first principles and trying to simply make a series of deductions from there is the way theological mistakes are always made. Heers seems to think that Vatican II is the origin of the ecclesiology of "degrees of communion" or "partial ecclesiality", and that Orthodox thinkers have borrowed it. He has it backwards. Florovsky published "Limits" three decades before Vatican II, and Affanassief, who held Florovsky's view, was present at the Council and had a very significant theological impact on it. Vatican II was drawing from Orthodox theology, not the other way around, which undermines the whole narrative where this is some kind of mass apostasy resulting from Roman influence- which raises the question, per Maximus' words on communion with heretics, as to why he is in communion with any Orthodox church except those in Greece. Saints and ascetic elders are quoted very selectively so as to make it appear that they speak with one, clear voice on this. Well, Greek saints after the 1755 Council tend to defend the position of their local Church, and there are a lot of Greek saints. But Russian saints often speak differently (note that ROCOR only adopted rebaptism as a rule in the 1970s), as did ascetics such as Elder Sophrony or Dumitru Staniloae, whom I mentioned in the video- a man of intense personal sanctity who was also a brilliant theologian- a Father of the Church. Florovsky, considered by many on Athos as a Church Father (and spoken as such by St. Justin Popovich), famously rejected the rigorist view. And while the anathemas of St. Mark of Ephesus are quoted, he is not quoted in the passages which clearly imply that he holds Rome to have a true priesthood- or when he forbids rebaptism. Some have testified that Fr. Heers actually rebaptizes people who have already been received into the Church by chrismation or confession. There is absolutely no precedent for that whatsoever, and it is a very serious abuse. But it's the result of a theology predicated on dry logical deductions disengaged from the tradition. To speak bluntly, after awhile I came to realize that the rigorists really don't have anything better to offer. That's what led me to abandon the rigorist view after holding it since my chrismation. Those who hold a less rigorist view, unfortunately, have a habit of making unsound arguments from emotion, which leads many people of good will to embrace the rigorist view, since they don't know there is a sound argument against it. (引用元)。