巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ロマニデス神学を再考する(by セラフィム・ハミルトン)

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Seraphim Hamilton, Rethinking Romanides, Apologia Pro Ortho Doxa(拙訳)


私は、イオアンネス・ロマニデスは正教神学に非常にネガティブな影響を及ぼしていると考えています。(少なくとも一般信徒レベルにおいて)。善意の人々がこれらの諸思想を吸収し、「正教徒であるということの意味」をそこから定義するようになっています。そして後になり、それが誤りであったことに気づいた彼らは茫然自失となり、こうして彼らの世界観は粉々に壊されてしまいます。

 


ロマニデスの支持者であった私が彼の神学を破棄し始めたきっかけとなる出来事が数年前にありました。おそらくご存知だと思いますが、ロマニデスは、「カンタベリーの聖アンセルムスによって表現されたカトリックの充足的贖罪説(Catholic satisfaction theory of the atonement )は、正教と比較した場合に非常に深刻な神学的相違を生み出している」という〈神話〉の伝搬において非常に影響力がありました。この説は本当に巷に溢れ返っています。

 

私自身、プロテスタントから正教に改宗する過程でこの説を数えきれないほど多く耳にしました。そして自分もまた他の人々に熱心に説き始めたのです。「ほら、充足的贖罪論はどんなに異端であることか!この教義により、神は慈愛にみちた御父というよりは、よそよそしく冷淡な諸侯のようになってしまっているのだ」と。しかし、そんなある日、私はモスクワの聖フィラレートの『カテキズム』の中に以下に挙げる説明文を発見したのです。

 

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St. Philaret (Drozdov) of Moscow (1783-1867)

 
「イエス・キリストをアダムと比較することにより、この奥義をより深く信じ、且つ受容することができると思います。アダムは生来的に全人類の頭(かしら)であり、全人類は、アダムからの自然的子孫として彼と一つです。イエス・キリストにおいて神格は人類と結びついていますが、このキリストは、慈悲深くも人類の新しい全能なる頭(かしら)となってくださいました。私たちは信仰によって主ご自身と結びついています。それゆえ、アダムにあって、私たちは罪、呪い、死に陥りましたが、今度は、イエス・キリストの内にあって罪、呪い、死から解き放たれているのです。主は、私たちのために自ら進んで十字架上での苦しみと死を味わわれました。一つの格(ペルソナ)における神と人間であり、罪なき方の死として、これは無限の価値と功徳を有しています。そしてこれは、――罪ゆえに私たちを死へと糾弾する――神の義に対する完全なる充足(perfect satisfaction)であり、、、且つ、無限なる功徳の宝庫であります。」

私はひどく動揺しました。多くの意味で、私は聖フィラレートのカテキズムは正教信仰の必須だと思っていました。ところが当のモスクワ府主教フィラレートというこの聖人が、教会カテキズム書の中で、あっさり上記の内容を肯定しているではありませんか!しかも彼のこの言明に対し、論争等は起こっていなかったのです。

 

それからの数日間というもの、私は上記の言明についてひたすら熟考を重ねました。最終的に私は、上記の教説と「(全人類と共に与っている)御子により――十字架を通し、特に私たちの堕落した状態にあって――私たちは本体論的に贖われる。」という教えを調和させる道を見出すことができました。

自分なりに納得がいく形で両者を和解させた後、私は友人(正教徒)にそのことを打ち明けました。彼と私はこれまで共に助け合いながらいろいろな課題に誠心誠意、取り組んできました。そして私たちは共にロマニデスのファンでした。しかし私が自分の葛藤および解決に至る一連の過程を話すと、友人はシンプルにこう問うたのです。「それじゃあ、アンセルムスやローマ・カトリック教義もそういう風に読んだらいいんじゃないかな。どうだろう。」

私はなんと答えてよいのか分かりませんでした。その当時、私はただ「両者の意図は違っていたはずだ」とかそういう風に言っていたように思います。ですが、その言明をバックアップする根拠はありませんでした。翌月から翌々月にかけ、私は痛感したのです。ああ、自分はやろうと思えば実際わずか三日の内に、一見したところ異端的教えのように見える教説と正教信仰を和解させることができたのだ、、と。

 

そこから気づかされたのは、実直に言って、自分は寛大に西方神学を取り扱っていなかったという事実でした。つまり、西方神学者が自分の神学を寛大に取り扱ってほしいと願うのと同じあり方で私は彼らを取り扱っていなかったということに思いが及んだのです。たとい両者がそれぞれ異なった風にこの教えを説いているとしても、アンセルムスと教父の教えは(この点に関して言えば)調和しており、救済を説明するアンセルムスの言語は、ラテン諸教父たちの教えの内に健全な先例を持っているということに気づきました。

神学的に言って、ロマニデス神父は非常に論争の的になっている人物です。そして彼は、教会がこれまで語ってきた仕方とは根本的に異なる新奇な理解を提示しているという理由で批判されています。

一般に正教伝統に忠実であると考えられている20世紀の偉大な正教神学者たち(ドゥミトル・スタニロアエ、ゲオルギイ・フロロフスキイ、ウラジーミル・ロースキイ等)それから、教父たち自身の諸文書を研究していく中で、私はロマニデス批判は実質的に正しいという結論に導かれるようになりました。ロマニデス神父は教会における権威を単に「カリスマ的長老たち」という別の〈教導権〉に変じ、キリスト教神学構築における理性および学術的学びの果たす役割についてこれらを軽視しています。*1

さらに、彼は、神的エネルゲイアの教説を単なる否定神学のための根拠として提示している点で根本的に誤解釈していると私は考えています。彼の提示とは異なり、伝統的に言って、神的エネルゲイアというのはロゴイそのものであり、それらは御父のたえざる働き(energizes)を通し(神的ロゴスと呼ばれている)御子の内で集約されています。

それゆえに、言語というのは、必然的に欠陥を免れ得ないような偶発的コミュニケーションの手段なのではなく、神の像(Image)の神的アスペクトです。そしてそれは、まさしくその本質において、ロゴスなる御方を適切に象徴しており、被造物およびキリスト教神学における相互関係を明瞭に、理解可能なものにせしめているのです。

他方、ロマニデス神父の見解でいくと、聖書も聖伝も、聖霊の賜物に恵まれた「生ける長老」に比べればそれらは第二バイオリンの役割を果たすに過ぎないということが暗示されています。例えば、「聖書は、啓示そのものというよりは、啓示に対する証言であるに過ぎない*2」「聖書はカリスマ的諸聖人に関連してはじめて霊感される」とかいった彼の言明は、シリアの聖エフレムや証聖者マクシモスの聖書に関する告白(「主は私たちの言語においてご自身の身を包まれた」)とは純然たる対照をなしています。


以下に非常に良心的な批評記事があります。

ishmaelite.blogspot.com

 

ー終わりー

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

souloftheeast.org

www.academia.edu

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*1:訳注:ゲオルギイ・フロロフスキイは、キリスト教神学におけるこういった理性軽視傾向を、ネオ・アポリナリオス主義と言っています。参考:Matthew Baker, «Theology Reasons» – in History: Neo-Patristic Synthesis and the Renewal of Theological Rationality, ΘΕΟΛΟΓΙΑ, 2010-4.

*2:訳注:聖書、啓示、言語に関するロマニデス見解と、バルト見解の比較対照

 a. バルトの聖書観の輪郭

 ・ 「聖書は神の啓示に関する証言」=バルトの聖書観の根本命題

 b.聖書の可謬性の容認

 ・聖書-not 神託の書物、直接的伝達の器官 but 証言(誤りを犯す人間)

 ・歴史的文献的批評の適用 (引用元).