巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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神の主権と伝統諸教会の「暴力・戦争」の歴史をめぐってーー保守メノナイト派ディーン・テーラー師とのディスカッション

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出典
 

保守メノナイト/フッタライトのディーン・テーラー師一家が昨日、アテネに来られ、良い交わりとディスカッションの時を持つことができました。

 

元米軍兵士であるテーラー師は、ドイツの米軍基地に駐軍時代に、「敵を愛しなさい」と命じているイエスの掟と、職業的軍人としての自分のあり方がどのようにして調和可能なのだろうかという問いを前に深刻な信仰の危機に陥ります。そこから彼は「キリスト者と戦争」という問題に正面から取り組むようになります。*1

  

ディーン師はフッタライト派の宣教師として欧州の難民キャンプや南米等で奉仕活動をしておられましたが、今年からボストンにあるサトゥラー・カレッジの学長職に就いておられます。

 

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テーラー一家(出典) 

 

氏は温厚で、海のように広大な包容力をもった方であり、私も安心して自分のジグザグな信仰行程をシェアすることができました。教育者としてこういう人格的な学長がいる大学で学ぶことのできる学生は幸いだと思います。

 

彼は、アナバプティズムに内包されている反サクラメント主義の問題性を十分に自覚しており、その部分での回復(サクラメント神学)が必要であると語っておられました。この点で、ディーン師は、改革長老派のカール・トゥルーマンやピーター・ライトハート、それからリージェント・カレッジのハンス・ボースマ、カルヴィン・カレッジのジェームス・K・A・スミス等と類似した立場に立っておられると思います。(⇒宗教改革的公同主義*2

 

しかしながら、「キリスト者と政治」、「キリスト者と戦争」という点になると、アナバプティズムは、大方の伝統諸教会(カトリック、正教)とも、ルーテル/改革派教会とも意見を異にします。

 

先月、ディーン師は、1000頁以上に渡るマイケル・ホートン(ウェストミンスター神学校)の『組織神学』を完読したそうですが、多くの有益な洞察があるにも拘らず、例えば、フェリクス・マンツが溺死させられる処刑場面に立ち合ったスイス宗教改革者ハインリヒ・ブリンガーが「宗教改革の英雄」として本書の中で描かれている点などに、キリスト者としてやはり倫理的疑問を感じずにはいられないと彼は言っておられました。*3

 

つまり、軍隊や剣をもった「国家権力」を盾に、「異端者」が排斥され、舌や手足を切断され、獄中で拷問を受け、反証する公平な機会をはく奪され、手記や記録が燃やされた上で、勝利者側が「神の主権的摂理」の中で、「正統教理」の擁護者として公認されることは、神の正義にほんとうに適っているのか否か、という根本的問いがここにあるわけです。

 

例えば、ウィクリフはキリスト教史の中で「英雄」なのでしょうか。それとも「異端者」でしょうか*4。クランマーはどうでしょうか*5。オリゲネスはどうでしょうか *6。そこら辺の不条理さについて正教神学者のデイビッド・ベントリー・ハートが次のように書いています。

 

「東方であれ、西方であれ、全てのクリスチャンは、キリスト教帝国史の荒唐無稽さに頭を悩ませています。しかしながら、いかなる正教観念であれ、ユスティニアンのような残忍なる凶悪皇帝 に ‟聖人(saint)” という称号を与えることを強いる一方、逆にオリゲネスのように清い生き方をした人物にはそれを拒絶するというのは、明らかにーーそして本当に滑稽なほどーー自己反証的です。そして、こういった論客たちの行為により、伝統は擁護されるどころかむしろその反対に、ーーそれが残虐的に不正義であるだけでなく、全くもって荒唐無稽なものであるかのような印象を人に与えてしまっていることによりーー、損なわれています。」 *7

 

こういった部分をとことん突き詰めていくと、私たちは大きく分けて二つの首尾一貫した整然たる展望台に行き着くのではないかと思います。一つは、ブライアン・クロス教授(ローマ・カトリック)の提示する、「教会的理神論」を排したキリスト教史観*8、そしてもう一つは、サム・ハリス(無神論者)の提示するキリスト教史観です。*9

 

そしてこの二つの展望台の間の谷間には、ゴタゴタして辻褄の合わないmessyで不条理で不愉快な歴史観がわんさと雑居しているように思われます。

 

また現代の例をとってみても、例えば、なぜ伝統派のトレコ神父*が「不適切な説教」をしたかどで破門され窮地に置かれている一方、カトリック正統教理から大きく逸脱したアジェンダを大々的に推進しているジェームス・マーティン神父*は教会内で相変わらず確固たる地位を保証され続けているのでしょうか。後代、人々は、ーー教会がそう裁定したという理由でーートレコ神父を「異端者」と見、マーティン神父を「正統派」とみなすのでしょうか。

 

「一体神の義はどこにあるのだろう?」ーー多くの人々が頭を悩ませています。

 

また、「宗教と暴力の間には深い相関関係がある」と論じているサム・ハリスの批評に対し、私たちキリスト者はどのように答えればよいのでしょうか。

 

例えば、中東問題をより複雑にしている一つのファクターが、福音右派の極端な字義的解釈*にあることは周知の事実だと思います。そしてそこから生み出されてくる宗教的「確信」は、旧約の聖戦思想を現代に当てはめることを良しとし、こうして「倫理性や道徳性を無視する行動を擁護する傾向*」が信奉者たちの間で無批判に熱烈に受け入れられていきます。

 

そういった意味で、ディーン師の問いかけ、およびサム・ハリスやジャック・デリダなどの外部の論者たちのキリスト教批判は、私たちに深い自省と再考をうながすのではないかと思います。*10

 

ーーーーー

これら全ての疑問や不条理を覚えつつ、それでも尚、人が伝統教会に入ろうとする時、あるいは逆にそれが故に、(使徒継承や秘跡の合法性を認めつつも)伝統教会に入ることを躊躇する時、各々のケースにおいて私たちは何をもって正当とされるのでしょうか。私は未だにその答えを見い出せずにいます。

 

しかしただ一つ確かなことーーそれは、教会の「中」に参入するにせよ、「外」で躊躇するにせよ、キリスト教会が犯してきた暴力や不正や戦争の惨禍に対する世の人々の問いから私たち信仰者は決して逃れることはできず、これに正面から向き合うことなく、一貫したキリスト者生活を送ることはできない、ということです。

 

ー終わりー

 

*1:

「正義の戦争」なるものは存在するか?(Just War debate; ディーン・テーラー vs ピーター・クリーフト他)

*2:

*3:

*4:

*5: 

*6:オリゲネスは ‟異端者” か、それとも ‟聖人” か?(by デイビッド・ベントリー・ハート).

*7:引用元

*8:

*9: 

*10: