巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「字義通りの解釈」という思想と、人間観(anthropology)の考察

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実験室(出典) 

 

19世紀に英国で興ったディスペンセーショナリズムというプロテスタントの一潮流があります。

 

ディスペンセーショナリズムは、当時猛威を振るっていたキリスト教リベラリズムに対抗する敬虔運動としての肯定的側面を持っている一方、その聖書解釈の仕方を巡り、これまで福音主義内で多くの論争がなされてきました。

 

聖書フォーラムキャンプの基調メッセージ「聖書解釈の逸脱と回復」(ハーベスト・タイム・ミニストリーズ、2018年)を読ませていただきました。基調メッセージをされた方は次のような事を述べておられます。

 

一貫した字義通りの解釈でなければ、啓示の内容を理解することはできない。

主観的解釈は、解釈者を聖書の上に置くことになる。

ディスペンセーショナリストは、一貫して字義通りの解釈を行う。

霊的解釈や比喩的解釈は、客観性を破壊し、最終的に聖書の権威を破壊する。

*この場合は、解釈者が最終的な権威になってしまう。

 

1.聖書解釈の基本

(1)意味の汲み取り(exegetical)であって、読み込み(eisegetical)ではない。

(2)基本的には、帰納法(inductive)であって、演繹法(deductive)ではない。

帰納法は、テキストの意味を発見し、そこから神学を構築する。

演繹法は、テキストの意味を決定するために、神学から始める。

*つまり、神学的前提を置いてから、意味を見つけるということである。

 

2.解釈者は、一貫して聖書の意味を汲み取ることにより、聖書の権威に服する。

(1)意味の読み込みや押しつけは、解釈者が聖書よりも優位に立つことを意味する。

 

今回、これらの資料を読みながら私が思いを巡らせていたのは、「字義通りの解釈」という思想からうつしだされる人間観についてでした。

 

上記の描写から私がイメージしたのは、顕微鏡や各種標本が整然と並ぶ ‟科学実験室” を具象化した人間像でした。‟科学実験室” としての人間は、良い意味でも悪い意味でも、無歴史的存在(ahistorical being)であり、過去の集合的記憶や伝統といったものからかなりの程度で自由な存在だということがまず前提されているのではないかと思います。

 

そしてこの人間は、偏見や先入観といったものなしに、いわば白紙の認識状態で、「帰納的に」テキストの意味を「発見」することができます。またこういった人間観から、彼・彼女の中に、「客観的」解釈というものに対する自明の念/自信が生み出されていきます。

 

「主観的解釈は、解釈者を聖書の『上に』置くことになる。」

それとは対照的に、「客観的」解釈は、解釈者を聖書の「下に」置くことになる。だから解釈者は「聖書の権威に服している。」

 

私自身もハーベスト・タイム・ミニストリーズの兄弟姉妹の皆さんと同様、「聖書の権威に服したい」という真剣な願いを持っています。事実、本ブログの記事全てがその願いを底辺に擁しているといっても過言ではないと思います。

 

しかしながら私が皆さんと共に考えたいのは、冒頭の解説文の中で描き出されている解釈者としての人間は、ほんとうに生身の人間か、という問いです。

 

真摯な信仰者なら誰しも、自分を聖書の「下に」置き、なるだけ自分の思い込みや先入観なしに、「客観的」解釈ができたら、という願いを持っていると思います。それはディスペンセーショナリズムを受容する・しないに拘らず、およそ神の真理のみことばの前に遜ろうとしている謙遜な魂が生涯に渡って努力し、また模索している生の姿ではないかと思います。

 

しかしながら考えてみてください。「演繹法とは、テキストの意味を決定するために、神学から始める」ものであり、「それはつまり、神学的前提を置いてから意味を見つけるということである。」という批判的説明がなされています。

 

ですが、「一貫した字義通りの解釈でなければ、啓示の内容を理解することはできない。」という冒頭の一文がもうすでに一つの立派な神学的前提です。

 

そしてこの神学的前提を基に、聖書の「客観的」「帰納的」解釈がなされている、ということになるのですが、それならば、ここで用いられている「客観的」「帰納的」とは何ぞや、という問いが当然生じてくるはずです。つまり、ここで彼が言及しているところの「主観的」解釈、「客観的」解釈というカテゴリー自体が、彼自身の神学的前提なしにはあり得ないということです。しかしある神学的前提を根柢に擁する範疇化は、はたして「客観的」でしょうか?

 

また、「ディスペンセーショナリストは、一貫して字義通りの解釈を行う。」とありますが、勿論そうです。なぜなら、「字義通りの解釈」という思想自体が、ディスペンセーショナリズムの内的論理だからです。

 

しかしここで覚えておかねばならないのは、「字義通りの解釈」という句の「字義通り"literal"」は、ディスペンセーション神学内の専門用語だということです。(全ての神学体系には多かれ少なかれ専門用語があります。)そしてその他の専門用語と同様、「字義通り"literal"」という専門用語も、体系の内側にいる人々の間では空気のように自然なものとして受け取られているとしても、外側の人にとってはそうではありません。*1

 

ですから、外側にいる人々とよりよく理解し合いたいと願っている内側の方々はまずこの用語が、普遍的に誰にでも通じるクリスチャン用語ではない、ということを自覚された上で、外側の人々にどのようにしてこの概念をより良く伝達することができるのかという点を追及されていったら、きっとその過程で多くの良い洞察や気づきが与えられるのではないかと思います。

 

「霊的解釈や比喩的解釈は、客観性を破壊し、最終的に聖書の権威を破壊する。

*この場合は、解釈者が最終的な権威になってしまう。」

 

ここにおいても、

「字義通りの解釈」=「客観性」を有する。

「霊的解釈や比喩的解釈」=「客観性」を破壊する。

 

という具合に、‟科学実験室” 的人間像を髣髴させる「客観性」という言葉がポンと出てきていますが、前述しましたように、まずここで言及されている「客観性」とは何ぞやという問いが、真剣にそして徹底的に問われることなしには、この見解は、内輪だけで通じる主張(つまり、「主観的」主張)の域を出ないのではないかと思われます。

 

また、(「字義通りの解釈」に反立するところの)「霊的解釈や比喩的解釈」の場合、「解釈者が最終的な権威になってしまう」とありますが、私は、ここで考察のためのいくつかの問いかけをしたいと思います。

 

「字義通りの解釈」の場合は、解釈者が最終的な権威でないということですが、あなたはその見解の正当性を、(内側にいる人々にではなく)外側にいる人々にどのように伝えますか?

 

なぜあなたという解釈者は、他の体系を信奉する解釈者と違い、聖書の最終的な権威ではないのでしょうか?それをどのように証明しますか?*2

 

「字義通りの解釈」をしなさいという掟は、聖書の中には記されてありません。そうしますと、「字義通りの解釈」をしなければならないというあなたの主張は、聖書の「外」にあるどこかの権威筋から来ていることになります。*3

 

ですがあなたは「字義通りの解釈」をすることによって、「聖書の権威の『下に』服従している」と言っています。そのため、内側の論理がどうであろうと、外にいる人々からみれば、あなたもまた、その他の雑多な解釈者たちと同様、意図せずして、聖書の権威の『上に』解釈ガイドラインとなる別の権威を置いてしまっています。

 

さらに言えば、聖書の権威の『上に』ガイドラインとなる別の権威を置いている解釈主体は、突き詰めるとあなた自身ですから、「霊的解釈や比喩的解釈」をする人々と同様、あなたという解釈者もまた、最終的な権威になってしまっているということになりませんか?

 

またなぜあなたは何十、何百という数あるミニストリーズの中から、ハーベスト・タイム・ミニストリーズの教えを選んでおられるのですか?何百という数多くの競合する聖書解釈の中からあなたが一つの解釈を「選ぶ」という行為自体がすでに、「客観性」を破壊する行為ではないでしょうか。

 

どうか誤解しないでください。私はなにかの団体やミニストリーを「選ぶ」ことが問題行為であると言っているのではありません。そうではなく、むしろ、いわゆるその「客観性」のなさこそが、より正直な人間像ではないでしょうか、ということを申し上げたいのです。

 

そして愛なる神は、そういった弱い人間たちが聖書のみことばを味わい、そこからいのちの糧を得ることができるよう、救い主イエス・キリストの福音を知ることができるよう、深い配慮をしてくださっていると思います。教会伝統、そして教父たちの理解という集合的智慧もまた、そんな私たちに贈られた尊い神の贈物ではないかと思います。

 

「字義通りの解釈」という思想を主軸に内包するディスペンセーショナリズムは、限界と有限性をもった生身の人間からかけ離れた人間像および彼の持つ ‟客観的” 認識という ‟主観的” 前提なしには成立し得ない理論体系ではないかと思います。啓蒙主義の鐘の余韻は今もそこにある気がします。*4

 

ー終わりー

 

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*1:

*2: 

*3: 

*4:「あらゆる先入見(Vorurteil)の克服というのが、啓蒙思想の総合的な要求であったが、それ自体ひとつの先入見であることがそこで証明されるであろう。方法的意識によって導かれた理解は、理解における先取り(Antizipation)を単にそのまま遂行するのではなく、先取りそのものを意識化しようと努めなければならないであろう。それは、先取りを制御し、それによって事柄のほうから正しい理解を獲得するためである。〈先入見〉はけっして誤った判断のことではなく、それが肯定的にも否定的にも評価されうることが、その概念のなかに含まれている。」ハンス・ゲオルグ・ガダマー『真理と方法』